百五十五段 世に従はん人
【徒然草 百五十五段 原文】
世に
春暮れて後のち、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は
【本文】
「お、積もってきたなあ」
朝、四組の教室へ向かう廊下から外を眺めると、家を出る時はパラパラと降っていた雪が勢いを増し、校庭を白く染めていた。
「小学校だったら授業をやめて皆で雪遊びするんだけど、流石に中学校じゃなあ」
子供の頃を思い出してひとり白い息と一緒にポツリと吐いた。
小学校低学年の頃、今みたいに雪が積もった日、休み時間に外に出て遊んでいた。始業時間になってもチャイムがならなくて、代わりに二時限目を休み時間にすると校内放送が告げた。太平洋側の愛知県では滅多に雪なんて積もらないから、みんな喜んで雪に飛び込んではしゃぎまわった。
しかし、
「はしゃぎたいのは俺の方か」
夢だったんだよな、真っ白な雪の絨毯に自分だけの足跡をつけるの。
っと、そんな事を考えてたら四組の教室を通りすぎてしまった。後ろの扉から中へ入る。
「みんなおはよう……ん、何だこれ?」
教室の後ろにはカレンダーが貼ってある。それが既に二月のものになっていた。一月はまだ今日を含めて三日もあるのにも関わらずだ。
「あ、我慢できなくて今月のカレンダー剥がしちゃった」
日直の
「おいおい! せっかちにも程があるだろ。時間割り直しとけよ」
まだ始業前だぞ。脱ゆとりといってもこれはやりすぎだ。
「ええ? せっかく書いたのに! どうせ帰りには書き換えるんだから、今でもいいじゃん。早めに準備しろって先生いつも言ってるよ!」
「いやいや、今日の予定を確認するための物なんだから、これじゃ意味がない……おい、持田!」
机に突っ伏して眠っていた持田は俺の声に体をビクッと震わせて頭を起こす。
「ふぁいっ! ごめんなさい!」
「条件反射で謝ってんじゃないぞ! ったく、朝から居眠りって大丈夫か?」
「す、すいません。昨日は遅くまでチームの練習があって……」
実は持田は我が筋トレ部の一員だったりする。しかし部にはほとんど顔を見せない。隣のT市にある自動車メーカーの持つJリーグのチーム、そのユースチームの選抜選手なのだ。サッカー部の近藤が言うには持田は天才で、林でも相手にならないらしい。放課後は毎日T市まで両親が送り迎えをしている。それでも、生徒は全員どこかの部活に入らなければならない。だから名前だけ筋トレ部に置いているという訳だ。
「疲れてるのはわかるけど、睡眠は毎日ちゃんと取らないと……って、おい」
見渡すとうつらうつらしてるのは持田だけじゃなかった。野沢や松川といった女子も眠そうに船を漕いでいる。順番に肩を叩いて起こしていく。
「土井、藤原。
こっちの男子二人は俺の方を見る事もなくずっと机に向かって何かを書いていた。覗き込んでみると国語のプリントだ。あれ? 俺こんなプリント出したっけ?
「す、すいません。塾の宿題があって……」
ハア……。つい深い溜め息を吐いてしまった。うちのクラスの半数以上の生徒が塾に通っている。それも一つだけじゃなく塾とは別に英語教室にも通っていたり、吹奏楽の連中は楽器のレッスンだったりと複数の習い事をしている生徒も少なくない。
みんな忙しい。
俺は家が貧乏だったから習い事はやらせて貰えなかった。中学の頃は夕方のアニメの再放送を見て、それから二、三時間勉強して、飯と風呂をすませ十時過ぎには大体寝ていたと思う。塾や習い事の話で盛り上がるクラスメイトが羨ましかった。だけど、今の生徒たちを見てるとあれで良かったのかもしれないと思えてくる。
これじゃまるでブラック企業の会社員だ。
息つく暇もなく次の予定が迫ってきて、後ろを振り返る余裕もない。
「今日の
開きかけたファイルをわざとらしくパンッ! と音を立てて閉じて、高らかに宣言する。
「雪遊びをしよう!」
『徒然ww 百五十五段 世に従はん人』
コートと手袋をを着用させて皆で中庭に出た。まだ誰も踏み荒らしていない真っ白を前に胸が踊る。今から夢を叶えさせて貰おう。
「先生、雪遊びって何するの?」
「先ず横一列に並ぼうか」
ズラッと一直線に並ばせる。
「先生には夢があってな。何の跡もついてない雪の絨毯に自分の足跡をつけるのが小さい頃からの憧れだったんだ」
雪国の人達には理解出来ないかも知れない。しかし愛知県民にとってそれほど雪は貴重なのだ。雪が積もるのは三年に一度あるかないかだ。
「せっかくだから勝負をしよう。あの花壇がゴールで、一番綺麗な足跡を残した奴が優勝だ。出来るだけ真っ直ぐに平行に。よーい、スタート」
俺の合図でそれぞれ一歩を踏み出していく。
天気予報も積雪を予想していたから、生徒達は皆長靴だ。俺の革靴も防水スプレーをかけてあるし、気にせずに雪を捉えていく。
ギュッ、ギュッと粉雪を踏みしめる音が心地よい。
ゆっくりと、一歩ずつ味わうように歩んでいく。
寒さが集中力を研ぎ澄まして。
俗世を切り離して、生徒達と俺だけになって。
光さえもそのスピードを落として、まるでトンボが少年の肩を止まり木にしてその羽根を休めるように、銀世界は静止していく。
「えっへへ、いっちばーん!」
俺がまだ半分も行っていないのに、関口はもうゴールして誇らしげにブイサインをしていた。だからそういうルールじゃないって。
性格が出て面白いな。
真面目な稲葉や大山は何回も振り返りながら一歩ずつ。
のんびり屋でマイペースな女子の松川はのそりのそりと牛歩の様に。
何でもそつなくこなす男子学級委員の岩崎なんかは前を見据えて
近藤や持田に至ってはふざけてケンケンでジャンプしたりするから、バランスを崩して雪のキャンバスに人型のスタンプを
程なく俺も花壇のレンガに辿り着いて、のんびり派の到着を待つ。
最後に松川がゴールして再び全員が横一列になった。振り返らせて、足跡と向かい合わせる。
「全員ゴールしたな。じゃあ結果発表だ」
俺も丁寧に歩いたつもりなんだが、それでも微妙に曲がっていた。意外に難しいな。
一番綺麗な足跡は最後にゴールした松川のものだった。レールの様に真っ直ぐ、平行に、等間隔で、誰の目から見ても文句なしの一番だ。
「松川の優勝だな。拍手!」
普段あまり目立たない松川は恥ずかしそうに下を向いた。自己主張しないおっとりした子だから皆は知らないかもしれないけど、彼女はどんなことだって丁寧できめ細かい。提出されるノートはとても綺麗にまとめられていて、毎回気持ちよく花マルをあげる。その分早くはないが、出来映えは太鼓判だ。
「歩いてみてわかったと思うけど、ゆっくり歩けばしっかりと綺麗な足跡が残る。急ぐのが悪い訳じゃない。友達とふざけながら楽しくやるのが悪い訳じゃない。それに、目まぐるしく世間は変わっていって昨日がすぐに古くなる、そんな時代だ。ゆっくり歩く余裕なんてないかもしれない。社会に出たら尚更だ。何でも結果を求められて期限を決められて毎日走り続けなくちゃならない。一年なんてあっという間だ」
時間の流れる速度は絶対に一定じゃない。
学生時代はスローモーションの魔法がかかっている。その大切な時に塾だレッスンだと詰め込むのは正直もったいないと俺は思う。だって、魔法は直ぐに解けてしまう。
「だから、忙しさに追われて自分が今どこにいるのかわからなくなった時は、今日の事を思い出して欲しい。そんな時は立ち止まって自分の足跡を振り返って欲しい」
――キーン、コーン、カーン、コーン――
「っと予鈴だ。一時限目は数学だったな、教室に戻ろうか」
ぞろぞろと校舎へ入っていく生徒達の背中を立ち止まって見送る。
「あれ? 先生は?」
「一時限目は他のクラスの授業もないから、俺はもうちょっとここにいるよ」
一人中庭に残り、生徒達の足跡を順番に見ていく。
一歩の幅が広いのはせっかちの関口だ。あいつは階段でも二段飛ばしが基本だからな。その割りに結構真っ直ぐになっていたから器用だ。
左右の幅が広いのは望月だ。本人は気付いてないけど少しガニ股なんだよな。お父さんに歩き方がそっくりで、後ろ姿はクローンみたいだ。
足跡なんてお構い無しでグッチャグチャなのは近藤と持田。あいつらがセットになるといつも目茶苦茶だ。本当に仲がいい。
全部可愛いハートマークになってるのは渡辺。一歩ずつ立ち止まって雪を払ってハートマークの足跡を作っていた。あいつも我が道を行くタイプだよな。
そして定規で引いたような綺麗な平行線は松川。理系が得意だから研究者とか似合うんじゃないかな。凝り性の松川にぴったりだと思う。
白い息を吐いて、真っ白なキャンバスに描かれた個性たちを見つめる。
雪は降り続ける。
積もる雪が、足跡を段々と埋めていく。
時間は進み続ける。
迫る明日が、全てを古くしていく。
子供達はものすごいスピードで大人になって、色んな事を失っていく。
だから、俺はこの足跡を忘れないようにじっと見つめる。
大人になって変わっていくのだとしても、俺だけは十四歳の彼らを忘れないように、この足跡を見つめる。
それが教師としての、俺の役目だと思った。
【徒然草 百五十五段 現代訳】
春が終わり、夏が来て、夏が終わるから秋になるのではない。春は雨の度に夏の空気を孕んでいき、夏の空には既に秋の空気が混ざっている。秋はたちまちに寒くなって、冬が来たかと思えばすぐに小春の暖かさとなって、草は青づき梅の花も蕾んでいく。葉が落ちてから花が咲くのではない、内から萌え出る花に押されて葉は落ちるのだ。新しい命の息吹きが土のなかで歌い出すから古い枝葉は一斉に落ちていく。人の一生のサイクルはこのような自然のスピードより遥かに早い。季節が移り行くのは決まった順番がある。しかし、死は順番を待ってくれない。死とは未来に待っているものではなく、過去から追ってくるものだ。誰もがいつか死ぬとわかっているが、まさか明日すぐに死ぬと思っている人など殆どいない。死は忘れた頃にやってくるのだ。遥か遠くまで続く浅瀬が、潮が満ちて磯になってしまうのに似ている。
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