二百一段 退凡・下乗の卒都婆、外なるは下乗、内なるは退凡なり。

【徒然草 二百一段 原文】 


 退凡たいぼん下乗げじよう卒都婆そとば、外なるは下乗、内なるは退凡なり。




【本文】


 学校の屋上と言えば、漫画やアニメだとカップルが逢い引きしたり弁当を一緒に食べたりとか、はたまた友情の殴り合いなど青春を謳歌する舞台の一つだが、吉田中学をはじめほとんどの公立中学では安全の面から立ち入り禁止になっている。都会では屋上に庭園があったりプールがあったりする私立中学もあるそうだが、なんとも縁遠い話である。


「修理終わりました」


「あ、ご苦労様です」


 以前巡回した時に、屋上へ出る扉の鍵が壊れているのを見つけた。教頭先生に打ち上げて業者を呼んで修理の立ち合いをしていた所だ。ついでに鉄板を取り付けて南京錠も追加して貰った。最後に黄色の紙に赤い字で大きく「立ち入り禁止」と書いた貼り紙をして処置完了である。

 ここまでする必要があるのかと言われそうだが、万が一でも生徒に危険があってはならない。うちの生徒達は危ない事をしないと思うが、今は俺が中学生だった頃よりも世間がうるさいからな。

 本当、面倒な時代になったものだ。

 「立ち入り禁止」とか、設備に「使用禁止」とか書いてあっても、構わずにルールを破って事故が起きたら管理責任を問われる事になる。こんな理不尽な話はない。

 でも実際いるんだよなあ、「立ち入り禁止」と書いてあっても普通に入ってくる人間。しかもそれが悪いこととも思わないで当然であるかの様に振る舞い、更には注意すると謎理論を振りかざすのだからもうどうしようもない。

 


 『徒然ww 二百一段 退凡たいぼん下乗げじよう卒都婆そとば、外なるは下乗、内なるは退凡なり。』



 二年生の三学期、一月末には「立志式」という大きいイベントがある。

 昔の日本は十五才を元服とし、大人になる節目としてきた。その元服を祝うのが立志式で、全国の中学校でもこの立志式を行っている学校は多い。

 その内容は式典を開いたり、記念製作をしたりと各地で様々だが、うちの学校では「立志ウォーク」と名付けて三十キロの道のりを歩く行事となっている。要するに歩行訓練だ。

 体を鍛え精神を鍛え己を見つめ直し大人になる自覚を促す、というのが題目である。しかし、一生に一度の生徒達とは違い二年生のクラスを受け持ったらその度に三十キロ歩かなければいけない教師の身にもなってほしい。まだ若いからいいが、五十を超えて三十キロも歩くとか想像したくない。見つめ直す以前に歳をとって衰えていく自分を直視したくない。


 三学期二日目の今日はその立志ウォークの為の健康診断を行う。保健室に心電図の機械を運び入れて結構大掛かりだ。万が一があってはいけないからな。二年生全員を対象に行い異常が見つかれば歩く距離を短くしたり、不参加となる場合もある。


 「そろそろ時間だな。じゃあ男子、保健室に行くぞ。廊下に並んで。女子は待機な。蔵野先生が呼びに来るまで自習だ」


 当然、健康診断は男女別だ。四組と五組の男子を連れて保健室へと向かう。

 心電図検査をやった事がある諸兄はわかると思うが、あれが俺はくすぐったくて苦手なのだ。胸に吸盤のついた端子をくっつけていくのだが、素肌につける為ひんやりとしてくすぐったい。高校での心電図検査の時に思わず「いやん」なんて変な声がでてしまって、しばらくクラスメイトからオネエ呼ばわりされたのは苦い思い出だ。


「だから! どうして男子と女子が同じ距離なんですか?」


「落ち着いてください山本さん。もう何十年と続いてきたものですし……」


 ん? 何か騒がしいな。

 廊下で二人の女性が揉めていた。二年二組の副担任、香取先生と、父兄だろう中年の女性だ。揉めているというよりは、香取先生が一方的に絡まれているといった感じに見える。

 生徒達に先に保健室へ行く様に伝えて二人の間に入る。

 

「どうしたんですか?」


「PTA会長の山本さんが立志ウォークの事でクレーム、じゃない、ご意見があるようで」


 あ、この人がPTA会長か。今年の会長は善くも悪くも有名なのだ。

 何年か前にも会長を務めていて、今年また下の子が入学したとかで周りからの支持もあり再度会長をやってくれている。それはありがたいことなのだが、このPTA会長、かなり学校側に意見をしてくるらしいのだ。良い方向に改善した事例も少なくないらしいが、かなりのフェミニストのようで日頃から男女平等を唱えてうるさいそうだ。というか、教頭先生なんかは「会長は男女平等というより女尊男卑じょそんだんぴだよ」なんてよく愚痴っている。PTAの窓口は教頭先生だからな、今の香取先生の様にいつも捲し立てられているのだろうと思われる。


「クレーム? 香取先生、私がクレームを言っていると?」


「いえ! 言葉のあやです。ご意見ありがとうございます」


 PTA会長の見た目は銀縁眼鏡を光らせて「ザマス」とか言いそうなキツい印象、一方の香取先生は俺の二つ年下で小柄で大人しそうな女性だから、まるで虐められているようにしか見えない。


 ――キーンコーン カーンコーン――


 今にも泣きそうな香取先生だが、校舎に響くチャイムの音に表情をパッと明るくさせる。


 「予鈴だ! 三年生の授業があるんで失礼します」


 美術教師は主要五教科と違って授業数が少ないから二人の先生で全学年を見ている。ペコリと頭を下げて足早に三年校舎へと消えていった。おいおい会長とふたりきりかよ。


「卜部先生は生徒会の顧問でしたよね?」


「はい。生徒会の顧問をしています。なのでPTAの事は教頭先生に……」


 キツい女性の相手は苦手だ。教頭先生に丸投げするに限る。が、作戦は失敗に終わる。


「生徒会からも言ってくださいよ。男子と女子が同じ距離を歩くなんておかしくないですか?」


「立志ウォークの事でしょうか? えっと、別におかしくないと思いますけど」


「ずっと差別だと思っていたんです。女の子は体力的にも男子より弱いんだから、立志ウォークだって女子は男子より短い距離にするべきです」


 何を言ってるんだ? 差別していないからこそ同じ距離なんだろうに。それじゃ平等じゃなくて教頭先生の言う通り、女尊男卑だ。


「生徒から打ち上げられた事ならともかく、父兄からの提案を生徒会として取り上げる訳にはいきません。私も健康診断があるので失礼します」


 ざくりと話を打ちきってスタスタと歩き始めるが、山本さんも俺の隣に並んで食い下がってきた。


「生徒達だって言葉にしないだけでそう思っているに決まっています! 慣習だからと声を挙げられないだけなんです!」


 生徒達の何を見てそんな事を言うんだ。アンケートをとった訳でもないだろうに。


「とにかく、教頭先生に掛け合って貰えますか。今の時間なら職員室にいますから」

 

 ここで俺が了承したからといって教頭先生が首を縦に振らない限り歩く距離が変わる事はないし、それ以前に俺も他の先生方も納得はしないだろう。

 「男子検査中のため女子入室禁止」と貼り紙のされた扉を開けて保健室へと逃げ込む。俺にあの人の相手なんて無理だ。初めて向かい合って話したが、なるほど、噂通りの人だったな。

 

 保健室では既に二年四組の男子達が上半身裸になって検査を始めていた。ちゃんと服も畳んでいて医師と看護師の指示に従っているようだ。やれやれと一息つこうとしたが、あのフェミニストはそれを許してくれない。ガチャリと扉が開き、堂々と山本さんが保健室へと入ってきた。その手には女子入室禁止の貼り紙を持っている。ええ? 何なのこの人?


「卜部先生! まだお話の途中なんですが」


 生徒達は一瞬ギョッとするが、心電図検査で脱ぐのは上半身と靴下だけでいい。水着よりも露出が少ないから気にせずに検査を続ける。しかし、そういう問題ではない。


「山本さん! 男子の検査中だと書いてあったでしょう!」


「男子なんていつも脱いでいるでしょう? わざわざ入室禁止にする事ではありません」


 だからそういう問題ではないのだ。逆だったら大騒ぎするくせに。そういうのを紛れもない差別というのだ。


「それは我々学校側が決める事です! 出てください、セクハラで警察を呼びますよ!」


「セクハラ? 何故男子の裸を見るのがセクハラになるのですか。むしろこんなむさ苦しい所にいる私が被害を受けています。臭いったらありゃしない!」


 夏ならまだしも、冬場の午前中に匂う訳ないだろう。加齢臭だって、俺ならともかく生徒達の年齢で出るわけがない。って誰がおっさんやねん。俺だってまだ二十代だ。

 あんまりな言い草に俺の堪忍袋の緒もプッツンだ。手荒い真似はしたくないが、さすがに摘まみ出そうと一歩踏み出した時、再び扉が開いた。


「穏やかでない声が聞こえたが何事だろうか?」


 三年生の大路だった。セーラー服のスカートの下にジャージの長ズボンを履いている。実に色気がないが、恋する乙女も冬の寒さには勝てないらしい。

 美人の先輩の登場にはさすがに二年男子も慌てふためくが、当の大路は何食わぬ顔だ。咄嗟に肌を隠そうとする男子を尻目に言葉を続ける。


「美術の授業で判子をつくっていたのだがな、彫刻刀で指を切ってしまって絆創膏を貰いに来たんだ。しかしそうか、今日は立志ウォークの健康診断だったな。すまない男子諸君、用事が済み次第退室するから気にせずに脱衣を続けてくれ」


 腕を組んで動じないカッコいい先輩を気取って見せる大路。絆創膏を取りには行かず、腕を組んだまま足を広めに開いて、いわゆるえっへんスタイルで山本さんと対峙する。

 

「元生徒会長の大路さんなら丁度いいわ。貴女からも言ってちょうだい。こんなに男がいたら臭くてたまらないわ!」


 味方を得たりと山本さんは更にヒートアップした。立志ウォークの距離が男女一緒なのは差別だとか、保健室が臭くなるから男子の健康診断は体育館でいいとか大路に力説する。もう無茶苦茶だ、こんな真冬に暖房無しの体育館で上半身裸になったら風邪をひいてしまう。


「なるほど、確かに臭いな」


「でしょう? 汗臭いったら……」「あなたの香水が臭くてたまらん」


「えっ?」


「女の私からも鼻につく匂いだ。大体卜部先生ならともかく、私の林が臭い訳ないじゃないか」


 まさか自分が臭いと言われると思っていなかったのか、大路の言葉に山本さんは色を失う。あと、さりげなく僕をディスるのはやめてください。あと、まだお前の林じゃない。


「な、何を言うの、男子の味方をするなんて!」


「男子のというか、私は生徒の味方だ。なんたって元生徒会長なのだから」


 ヒステリックさを増していく山本さんに対し、大路は淡々と話していく。あ、俺の味方はしてくれないんですね。


「呆れた! 大路さん政治家になるのよね? だったら男女平等は基本じゃなくて?」


 政治家、という言葉に元生徒会長は眉毛をピクリと動かし、表情を一瞬だけ険しくさせた。


「ほう、山本PTA会長は討論をお望みか。では私も論ずるとしよう。まず男女平等と言うが、話にならんな」


「は? 男女平等なんて当たり前の事でしょう?」


「人間は皆平等でなければならん。男だ女だは関係ない」


「――っ!」


 山本さんの反論をバサリと斬って捨てる。どうやら大路の政治家としてのスイッチが入ってしまったようだ。


「家庭に入る男性だって少なくない。キャリアアップを切望する女性だって多い。もう男女がどうのと言っている時代ではないのだ。女だからとか、男のくせにとか、セクハラ発言以外の何物でもない。最近ジェンダーフリーという言葉が流行っているが、本来はこれが無意識に人の根底にあるべきものなのだ。わざわざ声を挙げる事でもないな」


 ジェンダーというのは社会的な性別の区別の事だ。大学の医学部が女性の合格者を不合格として男性比率を上げたというニュースがあったが、これなんかはジェンダー意識が悪い方に振れてしまったいい例だろう。ジェンダーフリーとは男でも女でもなく、一人の人間として同列に考えましょうという思想の事である。


「勿論、女性は男性と比べて非力であるし、妊娠出産もあるからそこは考慮しなければならない。しかし、生理だって何ともないくらい軽い人もいれば、二日三日動けなくなってしまうほど重い人もいる。要は尊重されるべきは個人なのだ。立志ウォークだって男女ではなく、個々の健康状態で距離を決めるべきだ。その為にこうして健康診断を行っている。私は昨年立志ウォークで三十キロを歩いたが、個人的には男子と同じ距離を完歩出来て自信がついたがな。私は運動が得意ではないから時間もかかったり翌日は足がパンパンになったが、とても嬉しかったのを覚えている」


 ジェンダーフリーに乗っ取り、まずは男女の区別なく同じ課題を与えるべきだ。そこから個人個人の状況を省みて課題を少なくする、というのが正しい姿ではないのか。女子の歩く距離を短くしてしまったら、チャレンジする権利を奪ってしまう事になる。それこそ差別だ。

 ぐうの音も出ない山本さんに大路は鼻の頭を掻きながら冗談で締めくくる。


「極論を言うと制服も男女同じの方が面倒臭くないと思うのだが、私は学ランは御免だ。セーラー服の方が可愛くて好きだ」


「……可愛くないわよ」


「え?」


「スカートの下にジャージなんて着てたら可愛くない。確かに私はスカートの下にジャージやタイツをはいてもいいっていう校則にして貰ったけど、まさか本当にジャージを着る子がいるとは思わなかったわ」


 実は五年前までスカートの下に何かをはくことは認められていなかった。それを変えたのは山本PTA会長だ。寒いのに素足では風邪をひいてしまうと学校に訴え、通学中のみならず授業中でもジャージやタイツを着用してもいいと校則を変えたのである。


「む、そうだな。ジャージでは可愛くない、恥ずかしい限りだ」


「そうよ。貴女は女なんだか……いえ、スタイルがいい・・・・・・・んだからタイツにしなさい。その方が可愛いわ。さて卜部先生、今日の所は帰ります。失礼しました」


「山本さん、教頭先生には会われて行かないのですか?」


「はい。今後は主人と子供達に相談してから学校に来る事にします。失礼します」


 扉の前で深く頭を下げ、保健室から出ていった。大路の言葉に考え直してくれたようである。


「ありがとう大路、助かったよ」


「政治絡みの思想の話だからつい熱くなってしまった。子供げない事をしてしまったな。では私も失礼する」


 最後に一度林を視界におさめると扉を開けて退室した。それを機に男子達も再び動き始める。

 ん? 大路の奴絆創膏取りに来たとか言ってなかったか? 追いかければ間に合うかもしれない、絆創膏を持って俺も保健室を出る。

 廊下を見渡すが大路の姿は無かっ……いや、扉の横で顔を両手で覆いしゃがみこんでいた。


「きゃー! 林って意外に逞しいんだぁ……録画録画、心のビデオに録画よ真姫。5Kの最高画質で脳内再生するのよ」


「大路」


 俺が声を掛けると慌てて立ち上がり、すぐにえっへんスタイルになって取り繕った。


「ううううう、卜部先生? どどどどどうした?」


「ほい、絆創膏」


「ああ、忘れていたな。すまない、感謝する」


 どもっていたのも一瞬の事で、すっかりカッコいい三年女子の顔になって絆創膏を受け取ると、廊下を三年校舎に向けて歩き出した。ジャージを膝上まで捲ってあって、露になったふくらはぎがピンと張って寒そうに見えた。




【徒然草 二百一段 現代訳】


 インドにある霊鷲山には二つの卒塔婆が立っている。

 山の麓に「車両乗り入れ禁止」、少し入った所に「関係者以外立ち入り禁止」と書かれているそうだ。



【解説】 


 卒塔婆、というのは元々、釈迦が説法をしたインドの霊鷲山に建てられた物が始まりだそうで、今回の原文はお墓にある卒塔婆ではなく、オリジナルの霊鷲山の事を指した物だと考えられます。ちなみに卒塔婆はインドの霊鷲山の仏塔ソトゥーバをモチーフに作ったもので、ソトゥーバ→そとば→卒塔婆、と変化していった物だそうです。



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