三十七段 ひきつくろへるさま

【徒然草 三十七段 原文】


 朝夕、隔てなく馴れたる人の、ともある時、我に心おき、ひきつくろへるさまに見ゆるこそ、「今更、かくやは」など言ふ人もありぬべけれど、なほ、げにげにしく、よき人かなとぞ覚ゆる。


 うとき人の、うちとけたる事など言ひたる、また、よしと思ひつきぬべし。




【本文】


 聖夜、クリスマスイブ。その夕方。

 街は華やかな雰囲気に包まれ、流れてくるクリスマスソングが気持ちを弾ませる。カップルは腕を組んで寄り添い、家族連れは子供の手が両親に繋がれて、実に幸せそうだ。


 みんな死ねばいい。


 まさか彼女が出来たのにクリスマスイブを一人で過ごすとは思わなかった。


(はあ……。カッコつけちゃったなあ)


 ため息と一緒に中空に寂しさを吐く。

 抄子ちゃんにとって、俺とのクリスマスよりも、最後になるかもしれないお母さんとの家族旅行を優先すべきだ。それはわかっているし、そうなるようにしたのは自分だ。

 しかし、寂しいものは寂しい。

 おまけに今の状況も寂しさに拍車をかける。抄子ちゃんと過ごすからとクリスマスケーキを予約したのだが、キャンセルや変更が出来ないと言われ、受け取りのために一人でケーキ屋に並んでいるところだ。何が悲しくて一人でホールのケーキを食べなきゃいけないと言うのか。

 少ない友人に声を掛けようとも思ったが、近場にいるのは既婚者と彼女持ちしかいないからやめた。開き直ってクリぼっちを楽しむことにしたのだが、列の人達の幸せそうな顔が正直恨めしい。


「ええ? 当日分のケーキは無いんですか?」


 もうすぐ俺の順番、というところでレジ前の男性客が声をあげた。どうやら予約無しでケーキを買いに来たらしい。だがこのケーキ屋は人気店だ、毎年イブとクリスマスは一週間前に予約を締め切ってしまい、予約がなければ購入出来ない。

 

「どうにかなりませんか? 勝負かけてるんです! 憧れの先輩とデートなんです。先輩と付き合えるかどうか、今日にかかっているんです!」


 ほう、どうやら彼は今日告白する予定らしい。成功率を上げる為に何としてもこの人気店のケーキが欲しいようだ。そんなに必死にならなくてもクリスマスイブにデートの約束が出来た時点で相手の気持ちなど決まっているだろう。

 リア充は爆発するべきだが仕方ない。一肌脱ごうか。


「これで良かったらどうぞ」


 列からぬけ出し、予約の控えの紙を男性客に差し出す。


「いいんですか? あ、貴方は……」


 若い男性客は見たことがある顔だった。以前レンタルビデオ屋でオススメのAVを尋ねてきたあの青年である。


「AVソムリエ!」


「その名前で呼ぶな!」


 周囲の視線が俺達に集まる。聖なる夜になんて単語を口にしやがるんだ。


「じゃあおっぱい仙人!」


 こいつ俺に恨みでもあるのか。


「違うわ! いや、少しも違わないけど違うわ! ほら、俺が予約したので良ければ譲ってやるよ」


 抄子ちゃんはチョコがあまり得意ではない。だからブッシュドノエルではなく普通の苺のデコレーションを予約した。


「ありがとうございます! 本当にいいんですか?」


「恋人と食べる予定だったんだけど、彼女に急用が出来ちゃってさ。一人じゃ食べきれないし、貰ってよ」


「フラれたんですね……」


「違うわ! だから急用だっての!」


「あの人、彼女にドタキャンされたんだって」

「そりゃあそうよ。AVばかり見てるからよ」

「確かにおっぱい好きそうな顔してるわ~」


 周囲のヒソヒソ話が酷い! なんだよおっぱいが好きそうな顔って。男は全員おっぱいが好きに決まってんだろ。つまり男性諸兄は鏡を見ろ、映ってるのがおっぱい好きな顔だ。


「とにかく、ケーキは譲る。じゃあな」


 控えの紙を青年に押し付け、ドアへと早歩きで向かう。取りあえず店を出たい。視線が痛い。


「え? お金は?」


 代金は予約の時に払ってある。安くはないが、青年は見たところ学生のようだ。俺よりも金は持ってないだろう。


「いいよ、通りすがりのサンタからのプレゼントだ。メリークリスマス」


 キザな言葉を置いて店を後にする。精々彼女と仲良くするがいい、ま、俺には関係ないけど。


「待ってください! ソムリエ! ソムリエ!」


 青年がケーキの袋を下げて追いかけてきた。うむ、ソムリエだけなら悪い気はしない。


「ありがとうございました! 僕はN大学二回生の安達泰盛あだちやすもりと言います。お金は払います」


 N大学は俺や北条先生の母校だ。俺達の後輩になる。言われてみれば、確かにおっぱい好きそうな顔をしている。


「お金はいいよ、その分デートに使いな」


 一度カッコつけたのにやっぱり金ちょうだいなんてみっともない真似は出来ない。


「お金には多少余裕があるんです。予約したレストランもフリーペーパーの読者プレゼントで当たった物ですし、バイトもしていますから」

 

 レストランでディナーとは羨ましいな。最近の地域密着型のフリーペーパーって無料のレベルを超えていると思う。グルメや美容のお店情報が満載で、眺めているだけで暇を潰せるほどだ。


 ――トゥルルルル――


 安達青年が財布から札を出そうとするが、スマホの着信音がその行為を中断させる。スマホの画面を見た瞬間に青年の顔がにやけた。デート相手からの電話のようだ。


「もしもし先輩? はい……えっ? でもレストランは予約して……はい……わかりました。じゃあまた……はい、よいお年を」


 通話は切れたようだが、しばらく青年はスマホを耳にあてたまま固まっている。どうやらドタキャンされたようだ。気の毒すぎて咄嗟に慰めの言葉を掛ける。


「そう気を落とすな。ショックだろうが女なんて他にいくらでもいる」


「性欲モンスターさん……」


「だから俺の呼称を卑猥な単語で構成するんじゃない。卜部だ」


「では卜部さん、今日お暇なんですよね? レストランキャンセルするのも勿体無いし、フラれた者同士、ディナーに行きませんか?」


「俺はフラれてねーっての!」


 

『徒然ww 三十七段 ひきつくろへるさま』




 フレンチレストラン「ルミエ」


 フランス語で「光」を意味するその名前の通り、店内は明るく華やかな雰囲気で、イブを過ごすにはぴったりのお洒落なお店だ。ここに来るのは初めてだが、いつか抄子ちゃんを連れてこようとチェックはしていたのだ。まさか男と二人で来るとは思わなかった。

 時刻は五時半。夕飯には少し早いが、この後イルミネーションの綺麗な所で告白する計画だったらしい。その為に早めの時間にレストランの予約をしたようだ。客はまだ少ない。お洒落なキャンドルを挟んで安達青年と席につき料理を待つ。


「へえ、卜部さん吉中の先生なんですね。僕の通ってた南高校の同級生にも何人か吉中出身の奴がいました」

 

 今大学二年という事は俺が吉中に赴任したときの三年生という事になる。一年目は二年生の授業を担当していたから、多分安達青年の同級生もほとんど覚えていない。富田光希の姉ちゃんがその年代だったと思うが、申し訳ないがあの頃は社会人一年目で必死だった。自分の担当以外の生徒はあまり印象にない。


「バレー部の生徒ならわかるが、それ以外は覚えてないかもしれない。南高に行った生徒だと山口とか小山はわかるよ」


 筋トレ部が出来たのはつい最近で、それまでは背が高いからとそれだけの理由でバレー部の副顧問だった。俺はバレー未経験の上に運動神経ないから口だけの副顧問だったけど。

 

「小山とはたまに遊んでましたよ。あいつ東京の看護師の学校に行ったんです」


「あー、そう言えば看護師になってナースでハーレムを作るんだとか言ってたな。そっか、夢叶えようとしてるのか」


 小山はうちのクラスで言うと渡辺杏みたいな、本当は優しいのに照れ隠しでチャラい奴を装って軽口を叩くような生徒だった。看護師の夢だってナースとか関係なく人の役に立ちたいという一心だろう。思わぬ所であいつの近況が聞けて嬉しくなる。


「今頃ナースの卵といちゃついてるんですかねえ。そうだ、教師ってどこで女の子見つけるんですか? 出会い少なそうだけど、彼女いるんですよね?」


「ん、職場内恋愛」


「え? 先生同士なんですか? 大丈夫ですか?」


 安達青年の言う「大丈夫?」とは周りの反応の事だろう。


「オープンにしてるけど、意外に大丈夫なんだよな。まあ、学校でイチャイチャしてる訳でもないし、二人きりでも学校ではほぼ敬語だし、たまに生徒達が冷やかしてくるけど、他の先生方も何も言わない」


 校長先生に報告した時も「おめでとうございます」とにこやかに言われただけだった。しかし父兄の中にはあまり快く思わない人もいるかもしれない。学校の中ではきちっと線引きすべきだろう。


「写真とかあるんですか?」


 世の中には恋人の写真を見せたがらない人も多いとは思うが、俺はどちらかと言えば自慢しまくりたい方だ。スマホを操作し、とっておきの競泳水着姿の抄子ちゃんを見せる。青年は目を剥いた。


「は? 何この女神?」


 抄子ちゃんは控え目に言っても可愛いしナイスバディだ。羨ましかろう羨ましかろう。


「Dカップだ」


 聞かれてもいない情報をドヤ顔で付け加えておく。俺の彼女は世界一だ。 


「こんな理想の彼女がいるのにAVを借りる必要があるんですか?」


 だってまだ体の関係は無いんだもん。キスまでしかしていないんだもん。しかし折角マウントを取っているのだ、正直に言う必要はない。


「逆に聞くけど、彼女に自分の性癖を全て暴露出来るか? あれもしたいこれもしたい、そんな欲求を創作物で発散しているんだ。実に人間らしい事だと思うけどな」


「AV鑑賞が人間らしい……名言です。さすがAVソムリエ」


 いや、俺も勢いで喋ってるから自分で何言ってるかよくわかってない。

 それにしても。


「なんだ、フラれたのに意外に元気そうだな」


 ドタキャンの電話を受けた時は辛そうな顔をしていたが、もうケロッとしている。


「実は……今日誘った先輩は本気じゃなくて、他に好きな子がいるんです」


「え? どういう事?」


 詳しく聞いてみると、本当は高校からの同級生の事が好きだそうだ。今も同じ大学の同じサークルで仲も良く、安達青年は友達以上恋人未満の関係だと思っていたらしい。だがその子は安達青年がサークル内の美人の先輩の事を好きだと勘違いしているらしく、何かにつけてくっつけようとしてくるらしいのだ。今回もその子に言われて冗談のつもりで先輩を誘ったら、まさかオーケーを貰ってしまったという事である。結局断られた訳だけど。

 

「だからドタキャンされて本当はホッとしてるんです。今度、その同級生をちゃんと誘ってみます」


「そっか。じゃあその子と上手くいく事を願って、乾杯」


「はい、ありがとうございます。乾杯」


 食前のノンアルコールのシャンパンで乾杯をして一気に飲み干した。こういうイブも、まあ悪くはない。

 スープと前菜が運ばれ、普段食べる事のないフランス料理に舌鼓みをうっていると、やがて店内が段々と混み始めてきた。少し離れたテーブルについた家族連れの父親と目が合う。誰かと思えば北条先生とそのご家族だった。


「あ、北条せん……え?」


 手を挙げて挨拶をしようとしたが、北条先生はプイッと顔を背けてしまう。あれ?

気付いてない訳ないよな? バッチリ目が合ったんだが……。


「ねえお父さん。あの男の人、お父さんと同じ職場の人じゃない? 確かうらべ……」


「違うよ明奈、よく似ているが別人だ。卜部先生には可愛い彼女がいるからね。クリスマスイブに男二人でディナーなんてそんな寂しい事する訳ないじゃないか」


 寂しい男なんだよ俺は。実際寂しいんだよ悪いか。

 北条先生の真意を計りかねていると、俺のスマホがピロンと鳴った。北条先生からメールだ。


 ――卜部君フラれちゃった? 卜部君の名誉の為に今は知らない人の振りをします。後で話を聞くから電話ください。何なら飲みにでも行こうか――


 優しい! そうだ、北条先生には抄子ちゃんの旅行の事とか話していないんだった。大分前に「クリスマスイブは蔵野先生と過ごすんですよ~」なんてノロケていたからな。抄子ちゃんと何かあったのかと思ったようだ。


「え? でもお父さん、他人の空似にしては似すぎ……」

 

「全然似てないよ。ほら、卜部君はあんなにおっぱい好きそうな顔じゃなかっただろう? N大卒の人は私も含めて品があるからね」


 だからなんだよおっぱい好きそうな顔って。


「お父さんもおっぱい好きそうな顔だけど」


「え?」


「N大行った先輩何人かいるけど、皆おっぱい好きそうな顔してる」


 おっぱい好きを連呼するな! しかし、年頃の娘とおっぱいなんて単語を交わせるのはスゴいな。決して微笑ましくもないし羨ましくもないしああなりたくもないが、とりあえずスゴい。 

 

 「卜部さん聞きました? N大学酷い言われようですね。アハハハ」


 安達青年がおっぱい好きそうな顔で快活に笑い飛ばした。って他人事みたいに言うな。お前の大学だよ。


「とにかく、本当の卜部君は今頃彼女と甘いひと時を過ごしているはずさ。でも似ている人がいると気になるな。席を遠くに変えてもらおうか」


 店員を呼んで離れた席へそそくさと移っていった。後でメールしておこう。件名はそうだな、「偽者の寂しい卜部です」でいいだろうか。


「トベ先生こんばんは。 抄子先生はどうしたの?」


 北条先生が離れてゆっくり食事が出来るかと思ったら新しい客が俺達のテーブルにやって来た。二年四組うちのクラスの富田光希だ。やっぱり女の子がいる家庭だとクリスマスにこういうお洒落なお店に来るもんなんだな。うちは兄貴と俺の男二人だったからクリスマスでも外食なんてしなかった。


「メリークリスマス富田。抄子先生は家族旅行だよ。富田も家族でディナーか?」


「うん。……あれ? 安達さん?」


「あ、光希ちゃん。久し振りだね」


 二人は顔見知りのようだ。


「トベ先生と友達なんですか?」


「ああ。AVコーナーで……」

「大学が同じでな。その縁で知り合ったんだ」


 教え子に変な事を吹き込むな。慌てて訂正する。違うか、事実だから訂正ではなく捏造しておく。


「トベ先生もN大だったの? うちのお姉ちゃんもN大なんだ。待ってて安達さん、お姉ちゃん呼んでくる」


 富田は自分のテーブルへ戻っていく。安達青年は富田の姉ちゃんと知り合いらしい。ん? N大の同級生?


「安達、富田の姉ちゃんってまさか?」


「そうです。さっき話した僕の好きな子、富田芽衣子めいこです。そっか、妹ちゃんも吉中なんですよね。いやあ、世間って狭いですねぇ」


 安達青年は何度か富田の家に遊びに行った事があるらしいのだ。それで妹の事も知っているのだという。友達以上恋人未満というのも本当なのだろう。しかし友達の壁って結構分厚いからな。一度友達ポジションに収まってしまうと、そこを超えるのは容易い事ではない。


「卜部さん、芽衣子の前ではAVとかそういう話題は控えて貰えますか? あいつ、オクテというか、エッチな話は苦手なんです」


 嘘だよ! 富田の姉ちゃんエッチな事に興味津々だよ! 大体ほぼ初対面の女の子にAVの話なんかするか!


ヤス? どうしたのアンタ? 先輩とデートじゃなかったの?」

 

 富田と入れ替わりで姉の芽衣子がやって来た。長い髪を高い位置でポニーテールにまとめており、身長も高くスタイルのいい子だった。どこか既視感デジャヴを感じたが、あれだ、安達青年が借りていったあのDVDの女優に似ているんだ。


「ドタキャンされた。よいお年を、だってさ」


 考えてみればよいお年をって酷いよな。年内はもう会うつもり無いって事だもの。脈無し通告を受けたようなものだ。


「ええっ? 何で?」


「さあ? やっぱり男としての魅力がないんだろうな」


「そんな事ないよ。ヤスかっこいいもん」


 あれ? 俺、消えた方がいい?


「……芽衣子こそ、イブに家族とご飯なんてもったいない。誰かいい人いないのかよ」


「わ、私の好きな人は、私よりも美人の先輩とデートの約束してたから……」


「それって……」


 僕はここにいます。


 なんだよ、結局お互い好きなんじゃないか。俺の存在を忘れているのか、二人でピンクな雰囲気を形成していく。

 はあ、仕方ない。


「富田芽衣子、チェンジだ」


 立ち上がり、代わりに富田の姉ちゃんを無理矢理座らせる。


「う、卜部先生? あ、ご無沙汰してます。妹がお世話になってます」


「すっかり大人になったな富田芽衣子。教師としてこんなに嬉しい事はないよ。安達、これを使え」


 近くのテーマパークのチケットを財布から取りだしてテーブルに置く。イルミネーションやプロジクションマッピングが有名なテーマパークで、イブの日は特別なプログラムを行うらしい。抄子ちゃんと見るつもりだったが、俺がチケットを持っていてもしょうがない。


「安達、さっきの話な。今度じゃなくて、今するべきだと思うぞ。じゃあな」


 そうだ、今誘え。だって今が一番早いんだからな。若いんだから躊躇わずに突き進めばいいのだ。


 テーブルを離れ、富田一家のテーブルの空いた椅子に座る。


「トベ先生? お姉ちゃんは?」


「どうみてもお互い好きあってるのに一歩が踏み出せないみたいだからな。発破かけといた。恐らく今夜キメるだろう」

 

「ああ、あの二人じれったかったもんね。ホント、トベ先生って人の世話焼くの好きだよね。自分の幸せもちゃんと考えなよ」


 やはり中学生は若いな。幸せというのは自分で見つけるものではないのだ。


「光希。幸せっていうのは他の誰かがくれるものだ。卜部先生が誰かの事を思えばその分誰かが卜部先生の事を思ってくれる。そうやって人は幸せになっていくんだ。ささ先生、一杯どうぞ」


 お父さんは富田をそう諭すと、俺の前に置かれたグラスにワインを注ぐ。今日は車ではないし、一杯だけならいいだろう。


「頂きます富田さん。すみません、大事な娘さんを男にけしかけるような真似をしてしまいました」


「芽衣子ももう二十歳になります。彼氏ぐらい出来るでしょう。娘が産まれた時にとっくに覚悟していますよ」


 寂しそうにフッと笑うとワインを一気に飲み干した。腰を上げ、空になったそのグラスにワインを注ぎ返す。

 

「どうぞ。子供って、あっという間に大きくなりますねえ」


 申し訳ないが、俺の記憶の中に富田芽衣子は朧気にしかない。彼女には教師らしい事は一つもしてあげられなかった。生徒達はすぐ大人になる。だから俺達教師は、目を凝らして彼らを見ていないといけない。教師として、彼らの成長を目に焼きつけておきたい。二年四組うちのクラスの富田を前に、今一度そっと誓う。


「という訳で富田、今日は俺がお前のお姉ちゃんだ。光希! この合鴨のロースト、チョーイケてるね!」


「ふえぇぇぇ。こんなゴツいお姉ちゃん嫌だよお……」






 


 富田一家と別れ、アパートへと歩いていた。五キロほどあるが酔い醒ましには丁度いいだろう。

 あの後、安達と富田芽衣子はテーマパークに行ったようだ。仲良く手を繋いで店を出ていった。お節介だったかもしれないが、このまま上手くいけばいいな。


 ふと、富田の言葉が頭をよぎる。


 ――自分の幸せもちゃんと考えなよ――


「自分の幸せねえ……」


 そりゃあ俺だって不幸になりたいわけじゃない。でも、いざその場面になるとつい他者を優先してしまうんだよな。

 人生ちょぼちょぼの損ぐらいが丁度いいのではないか、そして、自分がちょっと損した分、周りが幸せなら俺も幸せなのだ。俺はそう思うのである。


 ――幸せっていうのは他の誰かがくれるものだ――


 その通りだと思う。だけど、今日の俺を幸せに出来るのは誰かじゃない。世界に一人しかいない。


「さむっ……十二月ってこんなに寒かったっけ」


 風が冷たくて、思わずマフラーをキツく巻き直す。

 何だろう、どうしようもなく寂しい。安達の想いが実って、それは喜ばしい事なのに、逆に俺の心には寂しさが広がっていく。

 女々しいなあ。旅行に行けって言ったのは俺なのに。


 だけど。


 それでも。


「会いたいよ抄子ちゃん」


「なーに?」


 後ろから返事がした。


「え?」


 いるはずないのに。

 今頃家族で旅館に泊まっているはずなのに。


 振り返る。そして抱き締めた。


「抄子ちゃん、何で?」


「私だけ一泊で帰ってきちゃった。お母さんも、お父さんも妹もだけど、あんないい人に寂しい思いさせちゃダメよって。それに」

 

 ギュッと強く抱き締める。彼女もギュッと強く抱き返す。


「私も寂しかったから」


 その言葉に感情が爆発して、不躾に唇を吸い上げる。

 くっついてしまうぐらいに抱き締め合って、もう寒くはなかった。



――つれづれww(上) 完――




【徒然草 三十七段 現代訳】


 つきあいも長く、気心の知れた相手でも、不意に気を使い、初々しい振りをするのを見て、「今更そんなよそよそしい真似をしなくても」なんて言う人もいるが、親しき仲にも礼儀を重んじていて心配りの出来る人だと感じる。


 また、実はあまり親しくないのに場の空気を壊さない様に仲の良い振りをするのも、気配りがあって見ていて心地よい。



【解説】


 江戸時代に庶民の間で爆発的な人気があったつれづれぐさ。

 つれづれぐさは、百三十六段までをつれづれぐさ上、百三十七段からをつれづれぐさ下とし、巻末に編集者の跋文ばつぶん(あとがき)を添えて版下(出版)されました。

 本作もそれにならい、これから後の物語をつれづれww(下)とさせて頂きます。

 後半もどうかお楽しみ頂ければ嬉しいです。

 

 最後までお読み頂き感謝です。


  


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