二百十一段 頼るべからず
【徒然草 二百十一段 原文】
身をも人をも頼まざれば、
人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の
【本文】
十二月半ばのとある晩。俺の部屋にて。
真っ白なダイニングテーブルを挟み、抄子ちゃんと向かい合っていた。と言っても視線はノートパソコンに固定されている。師走という言葉通り俺達は仕事に追われていた。
「兼好君、新しいページ送っておいたからいい感じに加工しておいて」
「了解」
一週間後の研究授業で使う資料を作っていた。抄子ちゃんのパソコンから飛んできた文字だけのパワーポイントにイラストを貼ったりしてそれっぽくしていく。
「研究授業」というと教師全員が年一回行う悪しき風習の様に捉えられているが、うちの市では少し意味合いが異なる。
他の市町村で行われている様な一般的な研究授業というと、同じ学校の教師全員と他校の校長先生や指導主事の先生の前で授業をし、皆で反省会をして次の授業に活かしていく、という物だ。年に一回、教師全員に回ってくるという恐ろしい行事らしい。しかし、うちの市では十年ほど前にこの研究授業を時間の無駄としてやめてしまった。現場では正にこの判断を史上空前の英断と評し、ベテランの先生なんかは飲み会の席で若い先生に、「昔は研究授業というのがあってな」なんてよく話のネタにする。
では今の研究授業はというと、新人の卒業試験のようなものだ。六年目の教師が一人前として授業が出来ているか、それを教育委員会の偉い人や市議などがチェックをする。いわば監査である。俺は一学期にこの研究授業という名の監査を終え、今回は抄子先生の番という訳なのだ。評価が低いと再授業が待っている。一回でクリアするべく必死で資料作りをしているのだ。
「あ、もうこんな時間。兼好君、今日は終わりにしようか。ありがと」
時刻は十一時を回っていた。PCを片付け、紅茶を淹れて一息つく。肩が凝っているのか、抄子ちゃんはぐるぐると腕を回す。
「お疲れ様。これ終わったら冬休みだしさ、もう一頑張りだよ」
研究授業の翌週には終業式、そして長期休みが待っている。
「そうだね。彼氏と過ごすクリスマスなんて初めてだから嬉しい」
そう、今年のクリスマスは一人ではないのだ。ムフフ。
「色々準備してるから期待しててよ」
流石にイブとは言えホテルを取るのはやり過ぎだろうとやめた。下心見え見えなのもどうかと思うし、家でまったり過ごそうと思う。まあ、やることはやるつもりだけどムフフ。
「うん、楽しみにしてるね。クリスマスを楽しく過ごすためにも頑張らないと。あ、通知表も書かなきゃ。いいなあ兼好君、また生徒達から通知表貰うんだよね?」
夏休み明けに通知表は近藤に返却した。恐らくまたくれるだろう。今度はオール5になっているといいな。
「多分ね。また泣くのを我慢しなくちゃ」
「羨ましいなあ。私は兼好君ほどクラスの子達に慕われてないから」
「え? そんな事ないでしょ? 俺だったらこんなに可愛い先生が担任だっていうそれだけで毎日学校に行く理由になるよ」
何なら今だって俺は抄子ちゃんに会いに行くために学校に行ってるんだぜベイビー。
「慕われるってそういうのじゃないでしょ……あー、目がシパシパする」
抄子ちゃんは辛そうに目頭を抑える。ずっとモニターに向かっているから疲れがたまっているのだろう。おまけにあの胸だ。肩だって俺より凝るはずである。俺は椅子から立ち上がり抄子ちゃんの背後に回ると、その華奢な肩を強めにマッサージしていく。
「目って使いすぎるとなかなか回復しないからね。今日はもうスマホとかも見ない方がいいよ」
目の疲れから首、肩が痛くなる事もあるという。筋トレをすれば肩凝りなどは軽くなるが、目だけは鍛えようがない。
「……失明は嫌だな」
抄子ちゃんがポツリとこぼした。
「失明? そんなに目が痛い?」
「あ、違うの。私じゃなくてお母さんが目の病気で、急に手術を受けなきゃいけなくなっちゃって……」
詳しく聞いてみると病気は大分酷いらしい、月末の二十七日に手術を控えているという。病院には年の瀬もあまり関係がないようだ。教師も部活などで冬休みは半分以上潰れるが、医療関係や消防警察なんて正月も無いようなものだろう。
「段々視界が狭くなってきてるみたい。今はまだ見えるらしいんだけど、このままだと確実に失明するから手術しなきゃいけないって。でも、手術が失敗する可能性もあるって」
失敗すると失明の危険があるらしい。だから最後になるかもしれないからと手術の前に、お父さんが家族で旅行に行こうと計画を立てたという。しかし、これを抄子ちゃんは断ったらしい。
「なんで? 旅行に行った方がいいんじゃない?」
「だって、旅行する予定の二十三日から二十五日なんて冬休みでも部活があるし、研究授業のレポートも期限は二十五日までなんだもん。とてもじゃないけど行けないよ。それに、初めての兼好君とのクリスマスだから」
俺とのクリスマスなんてお母さんとの旅行に比べたら二の次でいい。そう説得しようとしたが、彼女は仕事もあるからと首を縦には振らなかった。
『徒然ww 二百十一段 頼むべからず』
翌週。抄子ちゃんの研究授業も無事に終わり、終業式を控えたある日。五組の国語の授業での事。
「卜部先生」
「何だ林」
授業の区切りに林が挙手をした。何でもない様に応えたが、正直に言うとフッてから少々気まずい。
「学級委員として聞きますけど、蔵野先生の彼氏って卜部先生ですよね?」
ほら際どい質問してきたよ! ……ん? 学級委員として?
「学級委員として? クラス全体の質問って事?」
「はい。クラスを代表して聞いてます」
どういう事だろうか。五組の生徒達を見渡すと皆真剣な表情をしている。冷やかしとかそういう類いではないようだ。大っぴらに公言している訳ではないが、恐らく俺と抄子ちゃんが付き合っているという事は皆感づいてるはずだ。ひた隠しにするのも無理があるだろうし、正直に答えておく。
「ああ。まだ三ヶ月ほどだが、蔵野先生とお付き合いをさせて貰っている」
俺の返事にざわつく事もなく、林が質問を続ける。
「最近の蔵野先生は元気が無いように見えますが、卜部先生は何か知りませんか?」
「元気が無い? そうか?」
確かに研究授業の準備で疲れてはいたが、気持ちまで沈んでいる様には見えなかった。
俺の色の無い返事に、抄子ちゃんが顧問を勤める水泳部キャプテンの
「私達からは元気が無いように見えます。ため息も多いし、部活でも上の空みたいで。トベ先生と上手く行ってないのかな、なんて」
「そんな事ないぞ。研究授業でバタバタしていたけど、準備も二人でやっていたし、昨日だって一緒に晩御飯食べたけどずっと上機嫌に見えた」
研究授業のレポートはまだ残っているが、準備に比べたら大した仕事ではない。もう峠は越えたと言える。そんな危機感のない俺に奥田が厳しい言葉を投げ掛けてきた。
「彼氏の前だから無理してるんじゃなくて?」
「無理? そんな、俺に対してまさか」
「うちの担任ってさ、トベ先生と違って頭硬いじゃん? いつも完璧じゃなきゃいけないって思ってる。教師としても、彼女としてもさ。だから無理してるんだよ。彼氏の前だからこそ頑張ってるって、見ててわかんない?」
見ていてわからなかった。少なくとも俺の前ではいつもの抄子ちゃんだった。しかしこの一年、俺より五組の生徒の方が抄子ちゃんと一緒にいる時間は長い。子供の観察眼は大人のそれより鋭い時もあるし、実際生徒達の言う通りなんだろう。
だとすると、やっぱりお母さんの件を割りきれていないのだ。
「……立ち入った話になるが、お母さんが目の手術を年内に受けるらしくてな。失敗したら失明するかもしれないそうだ。心配なんだと思う」
「えっ? 嘘?」
「抄子先生のお母さんが……マジで?」
途端にざわつき始める生徒達。予想もしなかった事だとは思うが、この反応は少し異常だ。
「確かに抄子先生にとっては深刻だが、お前達がそんなに過剰な反応をする事か?」
「夢が、蔵野先生の夢が叶わなくなっちゃう!」
江崎が悲鳴の様な声で短く叫んだ。抄子ちゃんの、夢?
「どういう事だ?」
「以前、蔵野先生に何故教師になろうと思ったのか聞いたんですよ」
要領を得ない俺に林が教えてくれた。
抄子ちゃんが教師を志した理由、それはお母さんにあるらしいのだ。小学生の頃、保育園児の妹さんとお母さんを生徒に見立て、よく授業ごっこをやっていたらしい。その授業っぷりをいつもお母さんが誉めてくれていたという。お母さんの「抄子はきっといい先生になれるよ」という言葉で教師になると誓ったそうだ。
だから教師になったら生徒第一号であるお母さんに自分の授業を見て貰うのが夢、そう五組の生徒に話していたらしい。
もしお母さんが失明してしまったらその夢も二度と叶わない。
「そんな事ってないよ、むごいよ」
「でも失敗するって決まった訳じゃないんだろ?」
「何とか出来ない? ねえ、トベ先生!」
全く知らなかった。教師になろうとした理由も、彼女の夢の事も。そして、こんなにも抄子ちゃんが五組の生徒達に愛されていた事も。
「俺は彼氏失格だな」
そばにいるだけでいいと思っていた。一緒にいればそれで幸せだって。でもそれじゃ駄目なんだ。ただ甘えているだけで彼女を幸せになんて出来る訳ないんだ。
それに、俺は一人じゃない。この教室にはこんなにも頼もしい子供達がいる。抄子ちゃんの事を大好きな子供達がいる。
「みんな、協力してくれるか?」
終業式の日、十二月二十二日。
四組の子達からオール5の通知表も貰いご機嫌の俺は、職員室から上等な椅子を五組の教室へと運んでいた。隣には緊張した面持ちのマイマドンナ。彼女は深くため息をついた。
「はあ~。まさか研究授業をもう一度やってくれなんて言われるとは思わなかったなあ」
「それだけ前の授業が良かったって事じゃない? 俺も手伝った甲斐があったよ」
先週の授業発表があまりにも好評で、教育委員会のお偉いさんから是非もう一度授業を見せてくれとのラブコールがあった。特別に終業式の後に再び研究授業を行う事になったのだ、という事に
「兼好君も手伝ってくれたし頑張って準備はしたつもりだけど、そこまで良い授業だったかって言われると疑問なんだけどな……。それにしても、そんなに偉い人が来るの? それ、教頭先生の椅子だよね? パイプ椅子じゃ駄目なの?」
痔に悩んでいる教頭先生は、自腹で買った革張りの高級そうなふかふかの椅子を使っている。相談したら
「かなり偉い人みたいだよ」
来賓は超VIPである。失礼のないように細心の注意を払わなければならない。
「うへえ。緊張してきたな。私はしょうがないにしても、生徒達が可哀想だね。帰りが遅くなっちゃう」
生徒達の了承は得てある。というか、このサプライズは生徒達が仕掛人だ。
五組の教室に入り、後方に椅子をセットする。生徒達は既に席に着いておりにやにやと笑みを俺に向けてきた。俺も親指を立てて笑顔を返す。
しばらくして来賓が到着。
校長先生に案内され、抄子ちゃんの妹さんと、お父さんに支えられながらお母さんが教室に入ってきた。
せっかくだからな、ご家族全員を招待させて貰った。
「え? 何でうちの家族が……? え?」
状況が飲み込めずキョロキョロと挙動不審になる抄子先生。学級委員の林が号令をかける。
「起立! 蔵野先生、お母さんの事聞きました。夢を叶えて欲しくて、卜部先生に相談して家族の人を呼んで貰ったんです。礼! お願いします」
「「お願いします」」
「着席」
礼をし生徒達が着席するが、まだ抄子ちゃんの頭は着いてきていないようだ。俺に視線で説明を促してくる。
「五組の子達から最近抄子先生の元気がないって相談されてね。皆で考えた結果お母さんの前で授業して貰おうかってなったんだよ」
幸いお母さんの病気も視界の不調だけで外出は普通に出来た。ご家族に連絡をとって校長先生に許可を貰ったという訳である。
「あ、あとね。明日から年内の水泳部の部活は俺と江崎で何とかするから、旅行も行ってきなよ」
冬の水泳部はどっちみちプールでの練習はなく体力向上の基礎錬だ。それならうちの部と一緒にやればいい。
「うん。筋トレ部にまぜてもらう事にしたから。だから、気にしないで旅行に行ってきてください」
「それに、研究授業のレポートも年明けでいいってさ」
「校長先生? 本当にいいんですか?」
「これだけ生徒達に慕われているんです。むしろレポートはこれで十分ですよ」
そう答えて抄子ちゃんに柔らかな笑みを返した。やっぱりうちのボスは最高だ。
さて、お邪魔虫は消えるとしよう。あとは生徒と抄子ちゃん達だけの時間だ。
「じゃあ、ごゆっくり」
ドアを開けて教室を出ようとする俺の背中に、抄子ちゃんが声を掛ける。
「兼好君」
俺は振り返って精一杯かっこつけて言った。
「メリークリスマス」
再び背中を向け、教室を後にする。
「ありがとう! 大好き!」
恋人の愛の言葉に、今度は振り返らずに黙って手を挙げて応える。教室内は冷やかしの声で途端に騒がしくなった。
「ヒューヒュー!」
「大好きだって! 抄子先生カワイイ!」
「よっ! ご両人!」
「コラッ! 静かにしなさい! 授業を始めます!」
五組の教室から聞こえてくる楽しそうな授業の声を聞きながら冷え冷えとした廊下を歩く。冷たい空気が肌を刺すが、俺の心は暖かいもので満たされていて気にならなかった。
一時間後、校門で生徒の一人を待っていた。
白い息を吐きながら林が歩いてくる。普段ならそのポケットに突っ込んだ手を注意するところだが、今日は特別に見逃してやるとしよう。
「林」
「あ、卜部先生。今日はありがとうございました」
先に礼を言われてしまった。こいつには敵わない。
「こっちの台詞だよ。本当にありがとう」
「別にお礼を言われる事じゃありません。二人きりでクリスマスを過ごさせない様にっていう、フラれた相手への嫌がらせですよ。ご用はそれだけですか?」
「ああ。礼を言いたかっただけだ。気を付けて帰りなさい」
「はい。失礼します」
この前の中庭での事が嘘みたいに、晴れ晴れとした顔で颯爽と校門を出ていく。
「ありがとうな」
去っていくその背中に、もう一度お礼を言った。
【徒然草 二百十一段 現代訳文
貴方は何も期待してはいけない。
愚か者は他力本願で人に頼るから失敗した時に誰かのせいにしたりするのだ。
権力があるからといって期待してはいけない。その力はいずれ衰える。
お金があるからといって期待してはいけない。いつか只の紙切れになる。
才能があるからといって期待してはいけない。孔子だって生まれた時代に振り回された。
人望があるからといって期待してはいけない。孔子の一番弟子の顔回も不遇な人生だった。
主人に可愛がられているからといって期待してはいけない。些細なミス一つで処罰されるだろうから。
部下が優秀だからといって期待してはいけない。きっとそのうち裏切られる。
愛されているからといって期待してはいけない。人の心は必ず変わるものだ。
約束したからといって期待してはいけない。約束なんてむしろ守られることの方が少ない。
自分にも他人にも最初から期待しなければ、ラッキーな時は素直に喜ぶ事が出来るし、失敗したとしても誰も恨まずに済む。心の幅が広ければ両手を広げたところで何にも当たらないし、心の奥行きが広ければ過ぎても戻っても行き止まりにあたる事もない。心が狭いとすぐに衝突しやすく、また傷つきやすい。
気配りが出来なくて当たりが強い人は何かにつけて反抗的で、いつも誰かと争っている。逆に心穏やかな人は誰とも争わず一つの損もしないものだ。
人は天地そのものである。天地は無限であり果てがない。人の心もまた然り。寛大であれば一喜一憂する事もなく、煩わしい事も縁遠くなる。
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