二十九段 静かに思へば

【徒然草 二十九段 原文】


 静かに思へば、万に、過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。


 人静まりて後、長き夜のすさびに、何となき具足ぐそくとりしたゝめ、残し置かじと思ふ反古ほうごなどつる中に、亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる、見出でたるこそ、たゞ、その折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなるぞかし。手馴れし具足なども、心もなくて、変らず、久しき、いとかなし。




【本文】


 すっかり寒くなり本格的な冬の到来を肌で感じ始めたある日。三時限目の授業が終わり廊下を歩いていると、英語の先生が俺を呼び止めた。

 二年四組うちのクラス野沢のざわすずが保健室で休んでいるという。

 

「野沢が?」


「はい。普通に授業をしていただけなんですが、突然大声で泣き出してしまって」


 クラスメイトや英語の先生がどうしたのかと尋ねても泣きじゃくるばかりでらちが空かず、保健室に連れていったという。

 朝のSHRショートホームルームでは元気そうだったんだけどな。


「わかりました。様子を見てきます」


 英語の先生と別れ保健室へと向かう。

 うーん、何だろう。体調が悪いならそういうだろうし、何かメンタル的な事かもしれない。野沢は結構気が強い女の子で、言いたい事は言うタイプだ。それがただ泣きじゃくるだけなんて一体どうしたんだろうか。


 ドアを開けて保健室に入ると、野沢は椅子に座ってまだしくしくと泣いていた。


「野沢、大丈夫か?」


「ひっく……ごめんなさい先生……心配かけて……」


「謝る事じゃない。どうした、俺に話せる事か? 聞かない方がいいか?」


 女の子特有の悩みだったりしたら俺にはお手上げだ。そうなら保健の先生に任せるしかない。


「ひっく、あのね、ベルが……うちのベルが……」


 詰まりながらも話してくれた。

 飼っていたベルが亡くなったらしい。享年十六才で、野沢が物心ついた時からずっと一緒だったという。一ヶ月ほど前から調子が悪く獣医に見てもらっていたが、昨晩家族に看取られ息を引き取ったそうだ。

 悲しくて悲しくて辛すぎるけど学校を休む訳にもいかない。涙を拭って登校し気丈に振る舞っていたが、タイミング悪く今日の英語の授業の教科書の内容が飼い猫を病院に連れていく、というものだったらしい。つい思い出して、堪えきれずに泣き出してしまったようだ。

 俺は小学校の時にクワガタを飼っていたくらいで、意思疏通の出来る愛玩動物というものを飼った事がない。飼い猫を亡くした野沢の気持ちは正直わからないが、ずっと一緒にいたなら家族も同然だろう。今は例え様のない程の喪失感で彼女の心は空っぽのはずだ。


「わかった、無理しなくていい。落ち着いたら教室に戻ってもいいし、駄目そうなら帰ってもいいよ。家の人に連絡して迎えに来て貰えばいいから」


 保健の先生に野沢をお願いし、保健室を出る。

 

「おっと、時間がないな」


 次の授業は四組の道徳だ。急いで準備して教室へ向かう。


 何とかチャイムが鳴る前に教室へと滑り込んだ。日直の号令で礼をする。


「先生、鈴は大丈夫?」


 野沢と仲の良い本多春奈ほんだはるなが聞いてきた。彼女達は同じテニス部で、よく二人セットでいる事が多い。


「ん、飼っていた猫が昨日亡くなったらしいんだ。大分キツいみたいだから帰るかもしれないな」


「ええっ? ペットが死んだら休んでもいいの?」


 俺の返事に稲葉を始め数人が驚きの声をあげた。


「忌引きは使えないから、普通に欠席扱いだな。稲葉、ペットが亡くなって休むのはおかしいか?」


「おかしいっていうか、ビックリしただけだよ。それで休めるんだって」


 確かに最近よく話題になっているな。ふむ、今日の道徳は教科書をやめてこれにしようか。


「よし、じゃあ今回の道徳は討論にしようか。テーマはこれだ」


 黒板にテーマを大きく書いた。


 ――ペットが亡くなったら会社や学校を休んでもいいか――



『徒然ww 二十九段 静かに思へば』 

 

 

 机を全部後ろに寄せて椅子だけを前に出し座らせる。


「まず肯定派と否定派に別れてもらおうかな。廊下側が肯定派で、窓側が否定派な。はい、別れて」


 パンッと手を叩く。乾いた音を合図に生徒達はガタガタと移動を始めた。

 ほう、結構差がついたな。

 肯定派三十人、否定派五人と数では圧倒的に肯定派が多かった。


「じゃあ多数の肯定派から意見して貰おうかな。何で肯定するのか、誰か意見が言える人は言ってくれ」


 真っ先に手を挙げたのはバレー部の相田だった。まるでブロックでもする様にピンと伸ばした手が綺麗だ。


「今ってさ、ペットでも火葬してお葬式するのが普通じゃん? 野沢さんの場合は家族がいるからいいけど、一人暮らしだったらペットの亡骸をほっとけないし、ちゃんと弔いが済むまで休むのも仕方ないんじゃないかな」


 最近はペット専門の葬儀会社とかもあるらしい。遺骨を先祖代々の墓に入れるなんてのも珍しい話じゃない。

 もはやペット、特に犬や猫はほとんど人間と同じ扱い、紛れもない家族だ。生徒達もそう思っている様である。


「確かに亡骸をきちんとするのも飼い主の責任だからな。他に肯定派の意見はあるか? 葬式とか、そういうの以外で」


「あ、あのね」


 ためらいがちに望月が手を挙げる。


「正直に言うとね。私はそんな事ぐらいで、ペットがいなくなったぐらいでって思っちゃった。だって鈴にはまだお母さんもお父さんもお兄さんだっているもの」


 望月の家は父子家庭だ。小学校の時に母親を亡くし父一人、娘一人の二人暮らしである。彼女の家庭をかえりみれば、反射的にそう思うのも無理はない。


「じゃあ何で望月は肯定派なんだ?」


「私の境遇なんて鈴には関係ないもの。私がこうだからあなたもこうしろとか、そんな事言うほど私達はもう子供じゃない」


 むしろ、オッサン達の方がそういう事を言っているのではないか。俺達の時代はこうだったとか、甘えるなとか、俺はもっと頑張ったとか。確かに先人の経験談は貴重だが、望月の言う通りそういうアドバイスが全く意味を為さない時もある。


「僕もペットなんて飼った事ないから、野沢の気持ちにはなれない。だけどさ」


 スポーツ用のガチッとした眼鏡をクイッと持上げて、野球部の小西が望月の言葉を補足する。


「想像する事は出来る。今回は野沢がとても大切な家族を失ったってこと。それを自分に当て嵌めたなら、いいから授業を受けろなんて鬼みたいな事言えない」


 本人じゃないのだから完全に気持ちがわかる訳がない。その認識は大事だと思う。わかった気になってうわべの助言をしても役に立たない。自分に置き換え、自分事として考える事で、初めて心が寄り添えるのではないか。


「ちょっと待ってよ。それじゃ俺達が血も涙もない鬼みてーじゃんか」


 たまらず否定派の持田もちだが反論した。


「じゃあ持田。否定派として反論があれば言ってくれ」


「俺達だってペットが死んだら無理しないで休んでもいいとは思ってる。けど、野沢の場合は別だよ。今日なんて特にさ」


「ん? 今日ってなんかあるのか?」


 俺が聞くと持田はハッキリと答えた。


「今日の給食がプリンだから」


「プリン?」


「そうそう、先生知らないかもしれないけど、野沢さんってプリンめちゃくちゃ好きなんだよ。プリンが出るといっつも同じ班の奴にプリンくれくれうるせーんだから」


 剣道部の工藤が追随する。

 否定派をよく見ると野沢と席の近い同じ班の生徒達だった。給食は班ごとで机をくっつけて食べる。同じ班の生徒にいつもプリンをねだっているようだ。


「それに、ベルの事は俺達も良く知ってるんだ」


 以前、社会の授業で班別の研究発表を行ったらしい。その資料が授業の時間だけでは出来なくて、班のメンバーで二回ほど野沢の家にお邪魔して発表資料を作っていたようだ。その時ベルとも遊んだらしい。


「工藤君の膝の上が好きみたいで、いつもそこから動かなくてね~」


「工藤ばっかりズルいんだって。俺だってベルに触りたかったのに」


「杉山君、何故か完全に無視されてたもんね」


 本多や杉山、大山と他の班員も加わりベルとの思い出話に花を咲かせる。


「だからさ、俺達にとっては他人事じゃないんだ。きっと、一緒に悲しむ事が出来る」


「すぐに日常に戻れなんて言わない。悲しい時は素直に悲しめばいいんだ。でも、僕たちだってベルの友達だから、その悲しみを分けてほしいと思う」


「うん。プリン食べながらさ、ベルの事一緒に話したいなって」


「だからね先生。この授業終わったら鈴を呼んでくるよ。一緒に給食食べよって」


 ペットが死んだくらいで休むなんてズルいとか、そう思われないように授業内容を変更したつもりだった。だが、どうやら大きなお世話だったらしい。


「わかった、そうしてくれると助かるよ。野沢の事は任せる」


 結局、否定派の子供達も野沢の事を第一に考えていた。議論としては破綻していたかもしれない。だけど、みんな優しい。それで十分だった。




 

 給食の時間。

 本多に手を引かれて戻ってきた野沢も加わりクラス全員が揃って、日直の号令でいただきますの挨拶をする。


「手を合わしてください。いただきます!」


「いただきます」


 挨拶が終わり皆食べ始めるが、野沢の班は持田が仕切って黙祷をしていた。


 「じゃあベルの安らかな眠りを祈って、一分間の黙祷を捧げます。黙祷」


 野沢が手を組み目を閉じて祈る。しかし、静かに祈っているのは野沢だけだった。その光景が優しすぎて俺は何も言えなくなってしまう。ひたすらに、優しい。


「はい、やめ」


「え……? 何これ?」


 目を開けると、野沢の机の上にはプリンが六つ、狭しと並べられていた。


「今日だけは特別だ。さあ、食べようぜ」


 今度は野沢も交えて、ベルとの思い出を大事そうに大事そうに語り合っていた。




【徒然草 二十九段 現代訳】


 そっと目を閉じ思い出せば、もう二度と戻れない日への恋しさで胸がいっぱいになるのは仕方のないこと。

 夜、誰もが寝静まった後に部屋の片付けをした。とっくに捨てたと思っていた手紙が見つかり恥ずかしくて破り捨てていると、今はもう会う事も叶わないあの子の写真が出てきて思わず心を震わせてしまった。亡くなった人は勿論の事、随分会っていない人でも、古い写真を見たりあの頃の手紙を読むと目頭が熱くなる。写真や手紙以外にも、その人の好きだった色の小物が目に入ったり、好きだった曲が不意に流れたりすると切なくなる。




 

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