九十五段 両説なれば、難なし

【徒然草 九十五段 原文】


 「箱のくりかたに緒をを付くる事、いづかたに付けはべるべきぞ」と、ある有職いうそくの人に尋ね申しはべりしかば、「ぢくに付け、表紙に付くる事、両説なれば、いづれも難なし。ふみの箱は、多くは右に付く。手箱には、軸に付くるもつねの事なり」とおほせられき。




【本文】


 天下分け目の関ヶ原。

 日本列島の中心、岐阜県にある関ヶ原は一六〇〇年に起こった西軍の豊臣勢と東軍の徳川勢との決戦の舞台だが、これに限らず東西で異なる文化の境目は東海地方である事が多い。


 例えば家庭の食卓に並ぶカレーライスの具に使う肉の種類。

 関東は豚肉で関西は牛肉だが、三重県の鈴鹿市を境に分かれるらしい。


 一方、タクシーの色を例に挙げてみる。

 東京では黄色や緑などカラフルな車体が多いが、大阪では黒単色のものがほとんどだ。では愛知県はどうかというと、昔は黒が多かったが最近はカラフルな物も増え始め、今では半々といった感じである。


 カレーライスの肉の様にはっきりと境目があるもの、タクシーの色の様に二つが混在しながら段々と比率が変化していくもの。東京と大阪という二大都市の間に位置するが故の特色があって実に面白い。


 以上を踏まえてクイズを出そう。


 諸君はエスカレーターに乗るときどちらに寄るだろうか。

 エスカレーターに乗るときは歩いていく人の為に片方に寄ると思うが、東京では左に寄って右側を空ける。かたや大阪では右に寄って左側を空けるそうだ。これも西と東で分かれている。

 では、中央にある名古屋ではどちらに寄るだろうか?


 誰だ間をとって中央に乗るなんて答えた奴は。それはただ迷惑なだけだろう。名古屋の人が思いやりが無いみたいじゃないか。



『徒然ww 九十五段 両説なれば、難なし』



 ――名古屋、名古屋です。お降りのお客様は足元にご注意ください――


 名古屋駅に到着。ホームへ降りると一般客の邪魔にならないように生徒達を隅に並ばせる。

 今日は二年生全員で名古屋に来ている。自主研修行事という大層な名前がついているが要するに秋の遠足だ。

 愛知県の公立の中学校ではほとんどの学校が修学旅行は東京に行く。旅行の予定の中に班別で都内を見学する自由行動が二日目にある。その予行練習として我が校では二年の秋に、東京ほどではないが愛知県第一の都市である名古屋で班行動をさせるのだ。


 「くれぐれも一般の方に迷惑をかけないようにな! じゃあ解散!」


 名古屋駅の構内の端、俺の号令で生徒達がそれぞれの目的地へと移動を開始する。

 俺も名古屋城に移動しなければならない。

 自由行動とうたってはいるが、流石にどこでも行っていいという訳じゃない。名古屋城や名古屋市科学館といった学習施設に限られておりその中から生徒達がいくつかチョイスして見学する。そして何かあった時のために各施設には教師が待機する事になっている。俺は今回名古屋城の担当になった。

 二年四組にも最初に名古屋城を見学する班がいくつかある。一緒に行っては自主研修の意味がないのだが、わざと距離を置くのも変だ。生徒達の先頭に立って地下鉄の駅へと歩く。


 「先生、エスカレーターの人達って何で左に寄ってんの?」


 「先を急ぐ人達が歩いていける様にああやって片側を空けておくんだ。ちなみに大阪だと右に寄って左を空けるらしいぞ」


 地下鉄へのエスカレーターを前に、うちにクラスの生徒からの質問に答える。

 ちなみにこの片側空け、右に寄って左を空けるのは実は関西だけなようだ。関西より西の中国地方や九州が左空けという訳ではないらしい。関西だけの文化の様だ。

 生徒達に答えた通り、エスカレーターの左側に乗って手すりを掴む。

 

 「皆も左側に寄るんだ。他の人の迷惑にならないようにな」


 生徒達にそう呼び掛けるが、うちのクラスの堀川が右側をずんずんと降りて俺の隣に着くと止まった。


 「おい堀川、右側を……」


 「先生、エスカレーターは歩いちゃ駄目なんだぞ」


 確かに注意事項としてエスカレーターは歩いてはいけないと書いてある。でもみんな左側に寄って右側を空けている。


 「それはそうだが、しかし常識として――」


 「先生、ほら、あの人」


 俺の言葉を遮った堀川の視線の先、俺達の前にはお腹の大きい若い女性が立っていた。大事そうにお腹を抱えている。


 「赤ちゃんより大事な常識なんてないよ」


 「――っ」


 俺はバカか。


 皆がそうしてるから。そんなものをルールを破る言い訳にしていいはずがない。


 もし急いで駆け降りた人があの妊婦にぶつかりでもしたら大惨事だ。

 気を付けていればいいという話ではない。

 ルールとは最悪を避けるためにある。そこに利便性などが口を挟む隙間なんてないのだ。


 後ろからスーツの男性が右側を歩いてくる。堀川に阻まれて後方で止まり舌打ちをするが、俺と同じ様に前方の妊婦に気付いてバツが悪そうに下を向いた。


 「堀川の言う通りだ。ごめん、先生が間違ってた。エスカレーターは歩いちゃいけない」


 校外での研修だから絶対に一般客に迷惑をかけてはいけない、なんて神経質になりすぎていたようだ。子供だから常識を知らないだろうなんて思っていたが実際はどうだ、子供達の方がよっぽど思いやりがあるじゃないか。

 社会に出た時のために教師として教えなければいけないのは常識ではなく、思いやる事の大切さだ。しかし、それは社会で人の目を気にしている内に段々と失っていくものなのかもしれない。


 「安全に関するルールは守らなきゃ……ちょっ! 何するんだよ!」


 ワシャワシャと乱暴に堀川の頭を撫でてやった。堀川は抵抗するがお構い無しにもっと撫でてやる。


 「ありがとな、お陰で目が覚めたよ。堀川はイイコだな」


 「イイコぉ? 俺はもうコドモじゃねえって!」


 子供扱いにムッとしたのかキッと俺を睨む。それでも俺は嬉しくて、ワシャワシャと撫でるのを止めない。


 「すまんすまん、訂正する。堀川はイイ男だな」


 イイ男、と聞いてたちまち堀川は表情を崩していく。


 「にひひ。イイ男か、それならいいや」


 そう言って口角を引き上げると、堀川の頬にはまだまだ子供らしいエクボがはっきりと浮かび上がった。




【徒然草 九十五段 現代訳】


 「箱に蓋をして紐でとじるとき、右と左のどちらで結べばいいのでしょうか?」と専門家に尋ねたところ、「右と左、どちらも説があるのでどちらでも構いません。手紙などを入れるレターケースとして使う場合は右、道具などを入れる道具箱として使う場合は左を結ぶ事が多いそうです」と仰せられた。






 

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