三十段 亡き跡悲しき
【徒然草 三十段 原文】
人の亡き跡ばかり、悲しきはなし。
年月
思ひ出いでて
【本文】
夏休み中も当然部活はある。
校舎からはコンクールを数日後に控えた吹奏楽部の楽器の音が聴こえ、グラウンドからは大会に向けて最後の追い込みをかける元気な声が響いていた。
我が筋トレ部&ダイエット部も大会こそないが、月水金の午前中を練習日としてある。筋トレもダイエットも日々の積み重ねだからな。
そんな練習日の午前中、クラブハウスの一角、トレーニング室にて、俺は生徒達に混ざってベンチプレスをしていた。
「今日はいけるかもしれない。笹原、百キロやってみるから補助頼む」
八十キロがやけに軽く感じる。三年生の笹原にサポートを頼み、バーベルを百キロにセットする。
ベンチプレスとはベンチに仰向けに寝た状態から広めの手幅でバーベルを持ち胸に引き付けてから腕が伸びるまで上げる、筋トレの中でも代表的なエクササイズの一つだ。主に大胸筋と上腕三頭筋に作用する。
ブリッジで体勢を決め、バーベルをラックアップ。息を吸いながらバーベルをゆっくり下げて自分のみぞおちにフレンチキスさせた。胸に触れた無機質な感触を合図に息を止め、足を踏ん張り一気に上げる。
「だああぁぁっ!」
腕を伸ばし、見事百キロに成功。バーベルをラックに戻す。
「すごいです先生!」
笹原も緊張を解いて拍手で成功を祝福してくれた。
俺は食べても太りにくい。百キロ上がるまで五年かかったが、三十五キロからスタートしたベンチプレスの長年の目標を達成出来て感無量だ。
トレーニングを終えて、皆でプロテインを飲む。トレーニング後は速やかにプロテインを摂取する必要がある。
「そういえば、先生って何で筋トレ始めたんですか?」
ストロベリー味のプロテインを飲みながら、笹原が俺に聞いた。
あれ? 生徒達には話した事なかったっけ?
「きっかけか? タバコをやめたからだな。タバコやめると味覚が戻って食べ過ぎるから太るって言うだろ? だったら筋トレ始めたらちょうどいいんじゃないかってな」
「何それ? やっぱりトベ先生って変わってるね」
奥田妃菜が呆れた顔で言う。そんな変かな? 俺はずっとヒョロヒョロだったから、ムキムキには密かに憧れたてたんだ。
「じゃあさ、何でタバコ止めたの?」
「ん、東日本の大震災」
「311の? どう言うこと? 先生東北にいたの?」
「いや、俺はずっと愛知県だよ、大学もな。長くなるけど、それでいいなら話そうか」
『徒然ww 三十段 亡き跡悲しき』
あの日、居酒屋のバイトで明け方に帰ってきて爆睡していた俺は、微かな揺れで目を覚ました。
震度2ぐらいだったと思う。ずいぶん長く揺れるなあとは思ったが、やがておさまったので起き上がる事なくそのまま二度寝した。
この時はとんでもない事になっているなんて思いもしなかった。
ちゃんと起きたのは夜十時を過ぎた時だった。
なんとなしにテレビをつけて、目に飛び込んできた二文字。
壊滅。
東北の各都市の被害状況、そこには壊滅と書かれていた。
意味がわからなかった。
壊滅って何だよ、壊滅……壊滅?
おいおいゲームじゃないんだからそんな訳……。
テレビを見続けていると、どうやら本当らしかった。
昼間の地震が東北を中心に震度七の大地震だった事。それによる津波が沿岸部の街を飲み込んだ事。
テレビもよくわかっていないようだった。とにかく情報が少なくて、各都市と連絡がとれない。
たまたま撮れたような津波の映像が三つ、それが朝まで延々と流れ続けていた。ずっと同じもののループだったが、それでも俺はテレビの前から動けずに見続けた。
朝になって、テレビ局のヘリコプターが各地の映像を映し出した。
壊滅というのは大袈裟でもなんでも無かった。むしろ、壊滅なんて言葉じゃ足りないぐらいだった。
土、日とバイトもなく、用事も無かった。前日までは遊びに行こうと思っていたが、テレビから流れてくるあまりの被害状況に、俺の心は沈みきっていた。
俺の親戚は西日本にしかおらず、東北には知り合いも一人もいない。だけど、そういう問題じゃなかった。
津波に流されたが何とか生き延びたという男性の、家族とはぐれてしまったというあの泣き顔がいつまでも頭に残り続けた。
何をする気にもなれず、そして何が出来るわけでもなく、ただ二日間テレビを見続けた。
月曜日、気分は上がらなかったが大学の講義に行かなければならない。支度して駅へ向かう。
駅の前のコンビニでタバコとコーヒーを買うのが日課だった。その日もいつものように缶コーヒーをレジに持っていき、タバコを注文した。だけど、罪悪感を感じてタバコをキャンセルしたんだ。東北の人達は大変な目に合ってるのに、俺がのほほんとタバコを吸ってるのが申し訳なくて。缶コーヒーのお金だけ払って、タバコ代は募金箱に入れた。
この時にタバコを止めた。それから今まで一本も吸っていない。
駅も、電車も、大学も、何も変わっていなかった。いつも通りの日常。遥か離れた愛知県では俺の心以外には影響がないみたいで、気味が悪くなったのを覚えている。
講義の後、友人に声を掛けられた。夜に飲みに行こうという誘いだ。酒に強くもないし、気分も低かったから断りたかった。大体何でこんな時に飲みに行けるんだとか思ったが、結局押しきられて飲みに行く事になった。
酔う気分じゃなくて、ソフトドリンクで友人に付き合う。タバコが無いとこんなにも手持ちぶさたなんだなあと改めてタバコのいいところに気付く。タバコはとにかく暇を潰せるのだ。ただの何の意味もない呼吸を、それとなく意味ありげに見せる。しかしそれは、タバコをやめれば他の事が沢山出来るって事だ。
グラスの氷をぐるぐると回して暇を持て余していると、友人が言った。
「俺、向こうが落ち着いたら復興のボランティアに行こうと思ってる」
その一言で、視界が晴れた気がした。
そうか、そうすればいいんだ。俺にも出来る事があるじゃないか。なんだ、こいつも俺と同じように胸を痛めていたのかと思うと、こいつが友人で良かったって思えた。
当然すぐには発てず、結局ボランティアとして仙台に向かったのは五月の半ばだった。
二ヶ月が経っていたが、まだまだ沿岸部は瓦礫の山ばかりだった。道路だけは片付けられなんとか車が入れるようにはなっていたが、個人宅なんかは手つかずの状態だった。
俺が他数名のボランティアの人達と片付け作業の手伝いをする事になったのは、田村さんというお宅だ。
五十過ぎの夫婦で、俺と同い年の息子さんと家を津波で亡くしたとの事だった。その敷地は泥と瓦礫に占拠されていた。
作業に入り、地面に突き刺さった二メートル程の金属の棒を抜こうと握った時、奥さんが泣き崩れた。
よく見るとその棒は、バーベルの軸として使うシャフトだった。
息子さんは筋トレが趣味で体を鍛えていたらしい。ベンチプレスも百キロを超えるようなムキムキの人だったらしい。
このシャフトは旦那さんが息子さんの事を思って家の前に突き刺した物だそうだ。墓標の代わりなんだ、そう旦那さんは笑った。抜いてくれと、俺に頼んだ。
そして、それを、俺が抜いた。冷やっとした感触が俺の心に触れた。
それを皮切りに作業は開始され、五日間かけて田村さんの敷地を更地にした。以前の家があった様子は田村さん夫婦の記憶にしかない。まともな写真も見つからなかったのだ。ただ何もない土地、目の前にはそれがあるだけだった。
俺と他のボランティア有志数人が、田村さんの思い出を、今までの人生を更地にしたのだ。それなのに田村さん夫婦は、俺たちの手をとってありがとう、ありがとうと涙を流しながら感謝してくれた。俺には自分がいい事をしたのかもよくわからなくて、地元に帰ってから思い出して泣いた。
「だからな、こうしてバーベルを握ると、あの時の冷やっとした感触をたまに思い出すんだ。そして、たまに心が平らになる。たまに、泣きそうになる」
話終えると、生徒達は黙り込んでしまった。
彼らには重すぎた話かもしれない。でも、あの時の俺の気持ちを少しでもわかってくれるといいなと思う。
やるせなくて、不甲斐なくて、どうしようもない、若造の感情。
あの地震が、遠く離れた愛知県の若者の心をも酷く壊したということ。
結局、俺は何も出来なかった事。
「やっぱり先生、変わってるね」
奥田が口を開いた。
「ん、何が?」
「だってさ、その話聞くと自慢の先生だよ。なのに自分が最低だったみたいに話すんだもん。それはね、胸張っていいよ先生! 誰にだって出来る事じゃないよ!」
「そうですよ先生。超かっこいいです!」
笹原も俺を誉めてくれた。
どうやら生徒達には俺が弱々しく見えたらしい。心配させる訳にはいけない。精一杯笑い飛ばす。
「まあな、なんせ顔がカッコいいからな俺は!」
「顔の事は言ってないって!」
「この雰囲気イケメン!」
生徒達のブーイングで、その日の部活は終わった。
あれ? みんな酷くない?
コンビニで昼飯を買って帰宅。郵便受けを確認すると葉書が一枚。
見てみると、田村さんからの暑中見舞いだった。毎年、律儀に年賀状と暑中見舞いをくれる。
裏返すとそこには写真があった。あの土地には平屋の決して大きくはないが新築の家が建てられていて、夫婦が家の前で笑顔で写っていた。
そして元気な字で一言、「前進中!」と書かれていた。そう、元に戻るんじゃない、田村さんは前に進むんだ。だったら俺も、ちゃんと前に進もう。
田村さんへのお返しの暑中見舞いの葉書に、ベンチプレスで百キロ挙げた報告を手書きで加えて、ポストに投函した。
【徒然草 三十段 現代訳】
人が死ぬ事ほど、悲しい事はない。
葬儀や四十九日等の法要の間は目まぐるしく時が過ぎる。その早さ足るや何とも言い難いものだ。
葬儀が終わってから初めて、悲しくなり、いなくなった事を受け止める。
泣いていると、「いつまでも泣いていても何にもならない。忘れてしまえ」なんて言う人がいるが、忘れられる訳がない。他人事ではそのように言ってしまえるのだから、やはり人の心とは気味が悪い。
しかし、それでも、記憶は薄れていく。段々と忘れていく。墓参りだってそうだ。最初のうちはあんなに足しげく通っていたのに、今では月と草ばかりがお参りをするだけである。
故人を偲ぶ、その人自身も、いつかは死ぬ。孫の孫の代にもなれば、昔の人がどういう人だったなんて聞いても面白くも何ともない。しまいには墓に入っている事も忘れられる。
何度も嵐に耐えた千年生きた松も、そのうちに薪にされて燃やされる。
偉い人の古墳何かも、壊されて田畑になる。
死んだ人は、死んだ事さえも葬り去られる。
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