第16話 沖田総司、いざ!(下)

 文字通り、時が止まった。


 一切の音が消え、雪さえ落ちるのをやめていた。風もない。淀むというのではなく、まるで凍りついたようだった。


「宗次、どうした」

 一歩出た歳三も、異変に気づいて振り向く。後ろにいた山南が、何か言おうとして口を開いたまま、動きを止めていた。


「さあ、ゆけ」

 いつの間にか、〈狐〉は人の姿へ変じていた。宗次郎の横に立って道場の入り口を指す。


「なんだ、これは!」

 歳三を押しのけて出てきたのは、先ほどの浪人者だ。ささやかな宴の所為か、顔を赤く染め周囲を見回して怒鳴り散らす。

「ふざけるな! いい加減にしろ!」


 宗次郎は、一歩踏み出した。

卒爾そつじながら、もと但馬豊岡藩御家中、山名惣右衛門そうえもん殿とお見受けいたします」

「なんだ、先程の坊主か」


 襷掛けに股立を取り、大刀を手にした宗次郎。その背後に同じく脇差を構えた八重。さらに、ふたりの横には総髪に野袴、袖無しの皮羽織という胡乱な男。しかも、その胡乱な男はふわりと宙に浮くと、音もなく広くもない庭先へと降り立った。足元の雪には、跡ひとつ付いていない。

 山名惣右衛門は、裂けそうなほど目を見開いて、おのれの頬をはたく。


「もう一度お尋ねします。但馬豊岡藩御家中であった、山名惣右衛門そうえもん殿で間違いありませんか」


(こいつで間違いないから、さっさと始めろ)

(でも、一応確認しないと)

(忘れるな。を止めるにはかぎりがある)

(ちょつと黙っていてください!)


「確かに、拙者は但馬豊岡藩浪人、山名惣右衛門だ。何用だ!」

「では」

 と、宗次郎は八重の手を引いた。

「こちらは吉井八重どの。亡き吉井孫之丞殿のご息女です。私は──」


 その時だ。大きなものを呑み込んだような気がした。それが身のうちで育って、勝手におのれの口を使い始める。


「私は、沖田と申します」

(宗次郎です!)

──黙っていろ。


「これは敵討ちの果し合い。此度こたびの討手、吉井八重どのの介添人を務める者です。そして、あれに控えるのは」

 と、さらに勝手に手が動いて歳三を指す。

「見分役の土方歳三。立会人として遺漏なきよう見届けます」

 そして、宗次郎は八重を抱えると、庭へひらりと飛び降りた。


「山名殿、どうかお覚悟めされい。八重殿の祖父殿、父孫之丞殿の仇である貴殿をこの場にて討ち果たす。おのれの不行跡を恥じ、尋常に勝負いたせ!」

 宗次郎は鞘を投げ捨て、抜身を構えた。

(ちょっと待ってください!)

「八重、抜け」

「はい!」

(八重さん!)

 広縁にいる歳三は、唖然としてこちらを見ている。


(これは私の身体です! 早く出ていってください!)

(黙っていろ、気が散る)

(なんで邪魔するんですか!)

(今のおまえに、人が斬れるか?)

 言われて、宗次郎は一瞬怯んだ。


 その間を読んだか、山名は下緒さげおを解くと手早く襷を掛ける。同じく股立ちを取って、大刀を抜きながら庭へ下りてきた。

「ならば、父と同じく返り討ちにしてやろう」

「父は、到底おまえなどが討てる腕ではない。騙し討ちに決まっています!」

 八重は、見えぬ目を彷徨わせ、山名の声を頼りに脇差を構える。

「沖田様! どこですか!」


 宗次郎は動けなかった。〈狐〉に抗うと力が拮抗し、刀を持つ手がぶるぶる震える。

(やめるんだ。おまえは目を閉じていろ。わたしがおまえの腕を借りる。いま、人を殺める必要はない)

(自分のやることに、私は目を瞑りたくはありません!)

 舌打ちが聞こえたようだった。

(背けたくとも、今に背けぬようになる)


「来ぬなら、こちらから行くぞ!」

 山名が、奇声を上げで打ち掛かってきた。宗次郎は、やっとのことで一撃を受け流したが、足元を雪に取られる。


──強情はよせ。

 あ、と思った瞬間、〈狐〉がおのれを支配した。滑ったまま空を蹴り、宙返りで八重を背に庇う。

(目を閉じていろと言っている)

 宗次郎は、それ以上抗わなかった。〈狐〉に任せ目を閉じる。そうして再び開いた時、不思議と景色が異なっていた。


 山名惣右衛門は刀を構え、こちらへ打ち掛かってくる。そのゆっくりとした動きは、写し絵のように滑稽だった。

 宗次郎は余裕で半身を開いて避けると、隙だらけの胴を一閃した。

 え、というように山名がたたらを踏む。

「八重、いまだ!」

 倒れようとする山名へ、八重を支えながら手にした脇差の切っ先を向けた。


 そうして、勝負は呆気なくついた。

 宗次郎は身体を固くして震えている八重を下がらせ、倒れ伏す山名のとどめを刺した。


 途端、全身から〈狐〉が抜けていった。

 代りに血臭と、手についた血糊の感触、刀の重さに、思わぬほどの衝撃を受ける。


「宗次郎、大丈夫か!」

 歳三が駆け寄り、宗次郎の肩を掴む。その手に、雪が舞い落ちた。


 時の戻りは、奔流のようだった。雪と風と大勢の人の気と、堰き止められていたものが宗次郎の周囲へ一気に戻ってきた。


「何だ!」

「宗次郎、どうした!」

「沖田さん!」

 山南と、近藤親子、およしが奥から叫ぶように駆け寄ってくる。八重が声を上げて泣き出した。


 宗次郎は、刀を指から一本一本指を離し、もみくちゃにされる中で〈狐〉を呼んだ。返事はない。

(どこですか!)

「寄越せ」

 歳三は、宗次郎の持つ大刀と、八重が落とした脇差を拾う。

「あの人は!?」

 歳三は無言で指差した。

 雪のかかる広縁の真ん中、〈狐〉は仔犬へ戻り、後脚で頭を掻いていた。




(続く)


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