第15話 沖田総司、いざ!(上)
そうして、明けてしまった
宗次郎は、夜具を蹴って飛び起きた。
雀が鳴いている。寒さに縮み上がりながら身支度をする。およしの鼻歌と、みそ汁の香りが台所から流れていた。
昨夜は、真夜中まで仔犬の〈狐〉と睨み合っていた。これからどうするのだと詰め寄ってもどこ吹く風で、後ろ足で首を掻いたり、腹のあたりを毛繕いしたり。
そうこうしているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
当日だというのに、敵討ちの支度は進んでいない。
討手の吉井八重──十二才の盲目の少女は、試衛館の面々にすっかり馴染んで、賄いのおよしと元気に切り盛りしていた。
一方、
(それなのに)
宗次郎は座敷の隅を見やる。
〈狐〉は仔犬の姿で、猫のように丸くなりまどろんでいた。満ち足りた様子で、時折尻尾が左右に泳いでいる。
「もう、いい加減にしてください」
月桂寺の晩以来、〈狐〉はうんともすんとも言わなくなった。
話しかけても呼びかけても、片目を半分開けて尻尾を半振りするだけで、ひとことも発しない。あれほど漏れてきた〈狐〉のこころも、冬の寒さにすっかり凍りついてしまったかのようである。
「心配することはないと、お狐さまが夢に現れて教えてくれました」
見えぬ目をさまよわせ、嬉しそうに八重が言ったのは昨日のことである。
八重は
「母の形見です。明日はこれを着て、父の刀を持って、共にに本懐を遂げるつもりです」
同じ行李の中には、形見となった父親の両刀も納まっている。
「案ずることはないと、慰めてくださったのです。沖田様も同じ夢を見たのですよね」
「……はい」
言ってしまって悔やむ。
「よかった。沖田様にお任せすれば大丈夫だと、お狐さまはそうも言っていましたから」
「いったいどうすればいいんだ、私は」
身を縮めて顔を洗いに井戸端へ行くと、桶を片手に先客がいた。引き返そうと思ったがそうもいかない。
「どうするんだ、宗次」
敵討ちの立会人を頼まれた土方歳三は、額のあたりに筋をつくっている。
「知りません」
「あれはどうした」
「私はもう
「今度は達磨になったのか??」
「違います!」
午前は何ごともなく過ぎた。近隣の通い弟子に稽古をつけ、ようやく
時の鐘がなる頃、
「どうりで冷えるわけですね」
「寒い時には熱々のぶっかけだよ」
およし特製の
「父上、積もりそうですな」
「うむ。勇さん、悪いが門から玄関まで
猫舌の歳三は、ちびちびと饂飩をすすりながら、もの言いたげに宗次郎を伺っている。
「私がやってきます」
いたたまれず早々に箸を置くと、玄関先へ回った。納屋から筵を出して一枚、一枚滑り止めに敷いていく。
と、その雪に誘われるように、近づいてくる人影があった。
浪人者のようだ。肩を怒らせて試衛館の冠木門を潜り、まっすぐこちらへ向かってくる。年の頃は四十前後。細い目が釣り上がった、癇性そうな男だった。
宗次郎は驚きのあまり、口をぽかんと開けた。〈狐〉が妖術で見せた男。八重の父親を騙し討ちしたあの卑怯者。
「坊主、この道場の
男は肩の雪を払いながら、あからさまに眉をしかめる。
「拙者は作州浪人、
宗次郎は、腰が抜けそうになった。
「八重さん!」
台所で洗い物の手伝いをしている八重を、宗次郎は引っ張った。
「宗次郎さん、どうなさったんです」
「およしさん! ちょっと八重さんを借ります!」
「沖田さま?!」
「支度をしてください」
「え?」
「山名
「どこにですか」
「ここです」
「ここ……?」
「
宗次郎は手短に状況を伝え、着替えて待っているよう八重に言う。
「様子を見てきます。山南さんが
道場破りは厄介だ。近頃は腕試しよりも、小銭稼ぎに仕掛けてくる。
無論、負けて看板を獲られては元も子もない。しかし、勝ち方にも工夫が要る。
軽く遇らってよい気持ちで帰ってもらうか、完膚なきまでに叩きのめすか。
人物を見て、道場主である近藤周助が対手を指名するのだ。
ちなみに前者は山南敬介が、後者にはよく宗次郎が指名された。
宗次郎が部屋へ戻ると、座敷の真ん中に、〈狐〉が犬のように座っていた。小さな前脚をそろえて顔を上げ、その金色の眼を宗次郎へひたとすえる。
(来たか)
「これを待っていたのですか」
(こうなるとはわからなかった。ただ、
「ならば、そう言ってください!」
(信じたか?)
その通りだった。たぶん、おのれは信じなかっただろう。
ならば、身なりを改めねばならない。芝居のような白無垢はなかった。いつもの絣の着物に小倉織の袴。
「あなたも来てください」
最後に〈狐〉を掴み、懐へ入れた。
「沖田さま、入ってもよろしいですか」
宗次郎は、思わず微笑んだ。
母の形見という薄紅色の小袖。やはり襷をかけて袖をくくり、額には汗止めの
役者絵のように凛々しい
八重は、手にした大刀を差し出した。
「父上の刀です。これを使ってください」
小太刀の名手であった父孫之丞愛用の一振りだ。持ってみると軽く、抜いてみると腰高の反りがとても優美だ。
「八重さんはどうするのです」
「大刀は手に余ります。わたしはこれで」
胸に抱くのは、同じく父の形見の脇差。
(さあ、行け。そろそろ立会いが終わる)
(山南さん、勝ちましたか?)
(巧く競り勝ったぞ。あの男、意外に食えぬ奴だな)
思わず宗次郎もにやりとする。
(いま、酒を出して互いの武勲を称えあっている)
それも恒例だ。あることないこと吹聴されては敵わない。恨みの残らぬよう、丁重にもてなし、お帰り頂くのが常であった。
宗次郎は八重の手を引き、道場へと向かう。
広縁に出た時、突き当たりの道場の板戸が開いた。
歳三だ。二人の出で立ちに目を丸くし、何か言おうと口が開く。
「どうした、土方さん」
その後ろから山南の姿が、そして──。
(山名
時が止まった。
(つづく)
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