第14話 土方歳三、神仏に祈願する
「歳三さん、話があります」
沖田宗次郎が声をかけてきた時、土方歳三は、なぜか「しまった」と思った。
江戸小石川にある天然理心流道場
諸肌脱ぎで洗面を終え、手拭いを肩にかけてから振り返ると、やはり宗次郎の懐から、仔狐がおのれを見上げていた。
背中の毛が逆立つ。
「何だ」
「お願いがあります」
〈狐〉が来る前ならば、相好を崩して宗次郎のお願いとやらを聞いたのだが、今は思わず腰が引く。
「言ってみろ」
「今月の晦日なんですが、あの……お暇、ですか」
生憎、睦月末日は──、特に用事はない」
「実は、ちょっと手伝ってもらいたいことがあって。その、大したことではないのですが」
歳三は、思わず仔狐に目をやった。懐に潜り込み、覗く耳先が、ぴくりぴくりと動いている。
「こいつ、絡みか」
「ええ、いえ、ええ、……いえ、あの」
上目遣いになる。
「人助け、です」
袖を通しながら、歳三はふんと笑った。
「山南から聞いてるぞ。敵討ちだそうだな」
宗次郎は、ほっとしたように肩から力を抜く。
「ご存知でしたか。それで、歳三さんにもお願いしたいことがあって、その……」
「さっさと言え」
その場で足踏みするのは、慌てた時の宗次郎の癖だった。
「立会人です」
「立会人」
意味がわからない。
しかし、宗次郎は安心したように、満面の笑顔になった。
「はい。敵討ちの立会人です。歳三さん、よろしくお願いします!」
「
物凄い形相で飛び込んできた末弟に、為次郎は見えぬ目を眇めた。声と勢い、荒々しい足音で十分だ。そもそも、歳三の振舞いは昔からわかり易い。
日野宿にも近い歳三の生家である。庭先に建つ盲目の長兄、為次郎の住居であった。
そろそろ八ツ半(午後三時頃)をすぎ、お天道様も傾いてきたろうから、程よく
成人したのだから、いい加減は落ち着いて欲しい、と思う。
「どうした、歳三」
それでもお気に入りの末弟に、為次郎は笑顔で座るよう示した。
真冬だというのに汗臭い。余程急いで来たのか、ぜいぜいと息切れがしていた。
盆を引き寄せ茶を入れようとすると、ひったくるように土瓶を持って、音を立てて飲み干した。
と、満ち足りた溜息をつく。
「俺、敵討ちの立会人をすることになりました」
「なんだって⁉︎」
「宗次の頼みで、そういうことになったんです」
「宗次郎さんは、一体、何に巻き込まれているんだい」
「だから、兄さん。先月相談した」
狐憑きと言おうとして、歳三は
「そうそう。おまえが言っていた御札ならば、高尾山へ人を頼んで貰ってきたぞ」
「
折りたたんだ書き付けを足す。
「これはお不動様の御札真言だ。その古狐へ向かって唱えれば、たちまち退散するだろうとな」
歳三は、今ほどおのれの行状を悔いたことはなかった。
案じてくれているのはわかる。しかし、この長兄でさえ、おのれの話を信じていないのだ。
(また、お大尽とこの歳三が、なにかやらかしたらしいぞ)
(狐憑きだとさ。和尚から聞いたぞ、聞いたぞ)
(ああ、むかしっからあいつはバラガキで、手に負えなかったなあ)
(お大尽とこの惣領もご苦労なこった)
声が聞こえてきそうだった。
そうなればと、見切るのは早い。
「兄さん、
「どうした、いきなり」
「どうなんですか」
「本当さ。むかし、越後の上杉が多摩を攻めようとした際だ。滝山城を北条に渡す代わりに、日野の佐藤さんを中心に、まあ、家来のようなものになったらしい。だが、五百年も前のことだから、今の
「また、来ます」
御札を引っ掴んで、どたばたと出て行った。
為次郎は、吹き込む寒風に眉をしかめ、
「あれじゃ、嫁取りなんざできやしない」
ため息をつくと、開けっぱなしの戸を閉めに立った。
「というわけで、埒があかねえ」
二枚の
「つまり土方さん、朝方に沖田さんから敵討ちの立会人を頼まれ、その足で多摩の実家へ行き、さらに小石川まで戻ってきたというのですか」
呆れた健脚振りだ。片道八里(三十二キロ)はあるだろう。
むっとした歳三に、山南はあわてて札を手に取った。
「不動明王と荼枳尼天ですね」
「塩を盛って祈れ、だそうだ」
山南も宗次郎の狐憑きに半信半疑であるとわかっている。だが、仔犬が育たないことを訝しがってもいた。
「それで、立会人とは何をすればいい」
「なにも。果し合いが滞りなく、卑怯に及ばぬよう見守る役目です。介添人や助太刀とは異なり、果し合いそのものには一切手出しをしてはいけません」
「黙って見てろ、というのか」
「後々の検証が大事だからです。討ち果たしても、認められなければ意味がありません」
実際は、百を超える立会人が、大勢の見物人とともに固唾を飲んで見守った例もある。
「それで、日取りは決まったのですか」
「今月末日」
「助太刀は、八重さんの遠縁の方がされるそうです。沖田さんは、どうして土方さんに立会人を頼んだのでしょうか」
言って、山南はふと思い当たる。
──山南さんは、人を斬ったことはありますか。
(まさか)
いや、まさか。
(第一、宗次郎は元服前の半人前ではないか)
「私の勘違いだと思うのですが、まさか、沖田さんが自分で介添人をするとか」
「宗次が? まさか」
笑い飛ばそうとして、歳三は真顔になる。二人は顔を見合わた。
「確かめてくる」
宗次郎の部屋へ行きかけ、ふと何かに呼ばれた気がした。道場へと足を向ける。
板戸を開けると、隅の方に綿入れ半纏が丁寧に畳んであった。
五間四方である。武者窓から淡く月光が差し込み、宗次郎がひとり立っていた。手にした木剣を構え、息を整え、型をひとつひとつ浚っている。しばらく見ていたが、歳三はわざとぞんざいに声をかけた。
「夜更けに何やっている」
驚いた目が振り返った。
宗次郎は、歳三の面持ちから、何かしら感じ取ったようだった。
「それで、俺が立会人で、おまえが介添役か。
「私は歳三さんはやめた方がいいって言ったのです」
「俺が言いたいのは、なんでおまえがそこまで関わる必要があるのか、と言うことだ。見ず知らずの娘の為だろう」
但馬豊岡藩に沖田家の係累がいるなどと、今まで聞いたこともない。
「それとも、あの〈狐〉に
「わかっています」
「第一、おまえはまだ元服前だろう」
「腕には自信があります。やれます」
歳三とて、そこに異論はない。
「何をむきになっている。果し合いとなれば、人を斬ることになるかもしれないんだぞ」
一瞬だった。
宗次郎は水面滑るように動き、次の瞬間、歳三の喉元へ木剣の
思わず
「やらなければならないんです」
「
「私がやりたいんです」
二人は暫し睨み合った。
やがて歳三は、指を伸ばして木剣の先を払った。
「勝手にしろ」
宗次郎は
歳三は、しばらくその場に突っ立っていたが、
「なんで俺が」
吐き捨てるように言って、一旦奥へと消えた。
程なく戻ると道場の四隅に何かを置き、板間に座る。
こっそり井戸で清めた全身は、氷のように冷たかった。
御札を前にこころを静める。
「のうまく さんまんだ ぼだなん きりか そわか」
さらに不動明王をこころに描き、印を結び直した。
「のうまく さんまんだ ばさらだん せんだんまかろしゃだ そはたや うんたらた かんまん」
繰り返しながら、加護を祈った。宗次郎と八重という娘。気に入らないが、十把一絡げで歳三は祈る。
唱えるうちに、こころが澄んだ。腹が立つのに変わりはないが、おのれの
板戸の間に見守る眼がある。わずかな隙間からじっと覗く金色の〈眼〉。
無論、歳三は気づいていない。
(つづく)
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