第17話 また会う日まで

 試衛館は大騒動になった。


 奉行所へ知らせ検分を待つ間、庭先を清め、門に詰めかけた物見高い江戸っ子を押しとどめ、宗次郎と八重、二人を休ませようとしたが、誰もが興奮おさまらず、右往左往していた。


 もみくちゃになりながら、宗次郎は戸惑ってもいた。

 道場破りに訪れた山名惣右衛門そうえもんが、いつの間にか庭先で討たれていたのだ。しかし、誰一人その奇妙さに疑問を持たないのである。

 「よくやった」と、賄いのおよしは八重を抱きしめ、感じ入っておいおいと泣いている。近藤親子は、宗次郎の機転を「天晴れ」と褒めてくれた。

 山南敬介はというと、今後のご詮議の流れを語ってくれ、一部始終を見ていた土方歳三は、憮然とした面持ちのまま宗次郎を睨んでいた。


 つまり、山名は道場破りに試衛館を訪ね、たまたま八重の仇敵とわかり、たまたま宗次郎が介添に入って敵を討った──めでたし、めでたしというわけだ。

 恐らく〈狐〉の仕業だろう。時が止まった間、同じ夢でも見せられたのだ。


 翌朝やってきた奉行所の役人は、八重の仇討免状と届け済みの証である書替を改め、連絡があるまで江戸を出ぬように、とだけ申し渡して帰っていった。

「御本懐、誠にめでたきことに存ずる」

 若い役人は、さらに年若い八重へ丁寧に祝いの言葉を残していった。


 八重はというと、気が緩んだのか熱を出して寝込んでしまった。

「あたしがついてますよ」

 と、およしがつきっきりだ。


 宗次郎の方は、人を斬ったという実感が湧かずにいた。師匠の近藤周助は、そのことをひどく気にかけていた。


「寝ろ」

 歳三は、宗次郎をむりやり夜具へ押し込めた。

「まだ日が高いのに、眠れませんよ」

「いいから、餓鬼は寝ていろ」

「もう子供じゃありません」

 目だけ出し、宗次郎は続けた。

「でも、歳三さん。少しだけそこにいて頂いてもいいですか」

 からかうと思ったが、歳三はじろりと睨んだだけだった。

 〈狐〉は、あの直後に姿を消した。

 近くにいるとわかっているが、やはり何か物足りない。

 人助けが上手くいったら、願いを叶えてくれると言ったが、覚えているかな──そんなことを考えているうちに、とろとろと寝入っていた。




 雪が降っていた。

 頬に触れたひとひらが溶けていく。雪なのに冷たくもなく、寒くもなかった。


「やっぱり、夢だ」

 見回すと、甲州街道の真ん中だ。

 〈狐〉と初めて会った、下布田宿を過ぎたあたり。懐の握り飯にふと気づく。

 宗次郎は見覚えのある包みを出すと、路傍の石に座って開いた。

 握り飯は三つ。一つ二つと食べ、三つめを手にした時、

「その握り飯、食ってはならぬ」

 宗次郎は、声の主を見上げた。

「ずっとお聞きしたかったのですが、あの時、なんで食べてはいけないと言ったのですか」

「ほかに言うことはないのか」

「あー、えっと。これでまた半刻、ひとに戻れる時が増えますね。おめでとうございます」

 〈狐〉は、大して嬉しそうではない。

「あと、二十二回。すぐですよ。でも、時がないってどういう意味なんですか」

 〈狐〉は僅かに黙した。

「限りが四百年。それを過ぎては戻れない」

「限りがあるのですか」

「おまえの命と同様にな」

「あとどれほどですか」

「七年か、八年か」

 償い終われらねば、来世はない。

 宗次郎は、残った握り飯を差し出した。

「では、急がねばなりませんね」

 〈狐〉は無言で握り飯を受け取ると、空に放った。

 するとそれは花火のように砕け散り、飯粒ひとつひとつが星のようにキラキラと光って舞い落ちるではないか。

「きれいだなあ」

 思わずつぶやいたその時、夢は途絶えた。




 その晩、沖田宗次郎は土方歳三を誘った。子ノ刻、真夜中の月桂寺である。

 歳三は、理由を問わなかった。そんな時刻に呼び出す用といえば、しか思い浮かばない。


 月桂寺は豊臣秀吉、徳川家康に仕えた月桂院所縁ゆかりの寺だ。試衛館から歩いてほんの少し。広い境内に人影ひとつなく、晴れた夜空に糸のような三日月。


 宗次郎は、綿入れ半纏を首まで引き上げた。互いに息が白い。

「歳三さん、いろいろと巻き込んでしまってすみません」

「こうやって最後まで巻き込むわけか」

 宗次郎は、ふふと笑った。

「歳三さんて、似てますよね」

「誰に、だ」

「似てなどおらぬ」

 ぎょっとして振り返ると、そこに〈狐〉がいたた。

 変わらぬ姿。足元は草履ぞうりに真白の足袋たび裾縁すそべりを施した野袴のばかま、袖無しの皮の長羽織。

 いつ、どこから湧いて出たのか。

「誓約は果たされた。今度はおまえの願いを聞きに来た。もし今望みがなくば、のちでも構わぬ」

「今、お願いします。八重さんの目を治してください」

 宗次郎は迷わず即答した。八重と出会った時から、そうしようと決めていた。

「八重さんは母上も、父上も亡くしました。せめて目が治れば、国許に帰っても安心して暮らせると思います」

 〈狐〉は念を押す。

「本当にそれでよいのか。願いは今でなくとも構わぬ。一度きりだ。決めてしまえば変えることはできない」

「わかっています」

「本当によいのだな」

 宗次郎は、しっかりと頷いた。

「お願いします」


 〈狐〉が頷いた途端、闇の中で何かが動いた──ような気配がした。それから小さなつむじ風が抜けて、かちりとどこかの錠前が開く。


 誓約は果たされたのだ──宗次郎は悟った。


 〈狐〉を見上げる。

「では、お別れですね」

「そのようだ」

 〈狐〉は、その場で徐々に姿を変じた。青白く輝きながら、人と獣と二つの姿が交わっていく。

 やがて馬ほどの大きさの妖狐となると、首を伸ばして宗次郎を見下ろした。豊かな四股の尾が泳ぐ。金の眼は、ひたと宗次郎を見つめていた。


「いつか」


 〈狐〉は言った。


「いつか、必要とあらば私の名を呼ぶといい。必ず、駆けつけよう」


 宗次郎は驚いた。


「必ず、ですか」

「必ずだ。なぜかおまえとはこころの裡で通じている。なにか意味あることなのだろう」


 そうかもしれません──宗次郎は〈狐〉に呼びかける。

 寂しと思う。懐から消えた温もりが懐かしい。


「では、これからも私と一緒なのですね」

(いつか、会いにいく)

「それも視えるのですか」


 〈狐〉は答えなかった。毛が触れるほど近くへ駆け寄ると、金の眼を見上げて言った。


「ありがとう」


 手を伸ばし〈狐〉の尾に触れ、逃げようとするのを両手で掴み抱きしめる。金茶と白と黒の混じった、長い硬い毛の奥にある、柔らかな和毛にこげを感じながら、頬を寄せた。


 あたたかな日向の匂いがする。


 抱きしめて、祈るように心の中のありったけの感謝を伝えた。


(ありがとう。あなたに会えてよかった。頑張ってくださいね)

──ああ。そうするとしよう。


 それは〈狐〉にとっても初めて伝えた、控えめな、心からの感謝の念であった。

 〈狐〉のこころが流れてくるのを感じ、宗次郎は笑む。


 別れが来たのだ。


 〈狐〉は音もなく夜空へ飛ぶと、別れを惜しむかのように幾度か輪を描き、そうして光条を残してどこかへと消えた。


 歳三は、その場で一部始終を見届けた。不思議なえにしが消えていくのを、ただ無言で見送った。




 それからひと月。

 八重の目は癒え、視力を取り戻した。国許から親族も到着し、すべての詮議と手続きを終えた。国許の沙汰もめでたく、吉井家は末期養子が認められ、後々八重と二人で家を継いでいくことになるらしい。


 国許へ旅立つ日、宗次郎は日本橋にいた。

 かたい冬晴れの、門出にふさわしい朝だった。

 初めて会った時よりも大人びた顔つきで、旅装束の八重は深々と頭を下げた。鴇色の着物に袖合羽。背にはやはり、父の刀を背負っていた。


「ご帰国、おめでとうございます」

「ありがとうございます。沖田様には、本当にお世話になりました」

 と、声を落とす。

「あの不思議なお狐様、その後どうしたのでしょう」

「さあ」

 宗次郎は空惚けた。

「夢に見ませんから、ひと仕事終わってどこかへ行ったのではないですか」


 八重は、潤んだ目で明るく笑った。


 よくわからぬ出会いから、よくわからぬ誓約をした。よくわからぬ償いの助っ人をしながら、不遜な〈狐〉が次第に好きになっていた。

 また、会えるだろうか。


「どうか、お達者で」

「沖田様もご健勝で」

 八重は親族に促され、歩み出す。何度も振り返りながら太鼓橋を越えて、やがて人波に紛れ見えなくなるまで、宗次郎は手を振り続けた。


(終わったな)

 声がした──ような気がした。

(ええ)

 宗次郎は応える。

(また、いつか会いに来てくださいね)

 応えはない。

(私は、待っています)


 晴れ渡る空を見上げた。風は冷たいが、滲むような雲が一筋。


 春はもう、すぐそこに来ていた。




(つづく)



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