結、そしてはじまり
慶応四年、徳川の治世最後の年。明治と変わるその年の五月。江戸は千駄ヶ谷。
寺社地と武家屋敷が多い静かなあたり。世情の騒がしさから、ほんの少し隔てられた植木職の親方の住居、その奥の離れ。目指すは
若い、痩せた男が床に就いていた。
沖田総司である。
鳥羽伏見の戦闘以前に、大坂から幕府の軍艦で江戸へ戻っていた。
新選組は事実上解体した。井上源三郎は鳥羽伏見で亡くなり、近藤勇は下総へ土方歳三と向かったまま、戻ってきたのは土方だけだった。
(なにかあったのだろう)
誰も触れないのは、凶事だからと悟っている。
おのれも、ここにへ身を隠していた。やがて、薩長がやってくるのか、命が尽きるのが先か。
正月以来、あわただしい毎日だったが、とても長いような気がする。数えて、まだ五月。初夏になろうとしている。
体力が日を追って消えていくのがわかる。
それでも、江戸の春は嬉しかった。
広い空と、どこまでも続く瓦屋根。久しぶりに品川沖から見た時は、涙をこぼしそうになった。
もう、考えるのはやめていた。日々の始まりと終わりと、翌朝目覚めることがなによりも嬉しく、苦痛でもあった。
そんなある日の午后だ。日差しの中を近づくものがあった。
足音もなく近づき、縁側のすぐ側でとまる。そうして、障子戸がするするとひとりでに開いた。
やっぱり──総司は笑った。
「ああ、あなたですね」
寸分変わらず、そこに〈狐〉がいた。
足元は草履に真白い足袋。裾縁を施した野袴は絹地のよう。長い袖無しの皮羽織に総髪と、相変わらず何者なのか、得体の知れぬ出で立ちであった。
〈狐〉は、一切表情を動かさず、かれの枕元へ座った。
昨日別れたかのように、宗次郎は聞く。
「それで、間に合いましたか?」
「いいや」
「そうですか。残念です」
「そうだな」
京にいても、時折、〈狐〉の気配を感じることがあった。
「気付いていたか」
(ええ、あなたもですよね)
「誓約とは厄介だな」
(そうでもないですよ)
「そうだな。これもよいと思えるようになった。このまま、世の流れを最後まで見届けるのも悪くない」
(ひとつお願いがあるんです)
声にするのが億劫なのか、心が呼びかけてくる。
(なんだ)
(土方さんのこと、時々、見てあげてくれませんか?)
怯んだ〈狐〉に、柔らかな笑い声が応じる。
(あなたが苦手なのは知っていますけれど、時々どうしているか、私の代わりに見てあげてください)
どうかお願いです、と続けた宗次郎に、諾との頷きが伝わったようだった。
(よかった。あなたと会えて)
「そうか」
〈狐〉は責められると思っていた。こうなると知っていたなら、なぜ言ってくれなかったのかと。
(私は後悔したこと、ないんですよ)
真実とわかる。一旦誓約したからこそ、宗次郎の嘘はわかるのだ。お互い様だとわかっていても、そのことが〈狐〉には堪らなかった。
「おまえは──」
言葉にならず、〈狐〉は宗次郎の痩せた手を取った。その手のひらに、冷たいものが落ちていく。
〈狐〉は、おのれを責めていた。
本人が望んだこととはいえ、時折様子を見に行っては、病んでいく宗次郎の姿が切なかった。
わかっていたのに、なぜ止めなかったのかと。止めたとしても、変わらぬ結末でも。
あの時、
あの時、
あの時。
「──
不意に、宗次郎がはっきりとした声でおのれを呼んだ。ぱちりと目を開き、深い眸でおのれを見上げる。
「帯刀殿、吾は恨んではおりませぬ」
「……おまえは」
幼児のような声音だった。
宗次郎ではない。宗次郎は小さくなって、深い
聞いたことがある。しかし、遠い記憶はあやふやで、それでも確実に〈狐〉の心を掻き乱す。
貴方は──。
「
宗次郎は、無邪気に笑った。
「ようやく時が至りました。そろそろ、ともに来世へと参りましょうぞ」
かちりと、音にならない何かがはまる。
(よかったです……ね)
宗次郎の声がする。喜んでくれていた。心から。
同時に、命の灯火が消えていく。見る間に揺らいで小さく吸い込まれ、最後に白い
その行く先を見届けながら、〈狐〉はいまだ尾に残る温もりに誓う。
その笑みを、何があっても忘れぬと。
宗次郎を忘れぬと。
罪と業とをすべて背負って、そうしておのれは生きてゆくのだと。
一瞬、離れを淡い光が包み、鳥の声も虫の音も消え失せた。
どれほど経ったか。一声、一音と戻り始め、程なく変わらぬ皐月の午后へと復していった。
風が吹き抜ける。
沖田総司、幼名宗次郎。慶応四年五月晦日没。享年二十五とも、二十七とも伝わる。
かれと〈狐〉の
(おしまい)
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