第8話 沖田宗次郎、あやかしと共鳴する
その日の夜半、無人の試衛館道場である。
寒すぎる松板張りの床に、綿入れ半纏を着込んだ宗次郎と、
〈狐〉はあやかしらしく、寒さとは無縁らしい。相変わらずの裾縁を施した野袴と、長い袖無しの皮羽織のみ。足袋はおろしたてのように真っ白だ。ゆったりと構え、目の前で、がちがちと寒さに震える宗次郎に気付かぬかのようである。
すでに年の瀬も近かった。江戸の寒さは、これからが本番だ。
四半刻(三十分)余り無言で睨み合ったあと、ようやく〈狐〉が口を開いた。
「時を無駄にするな。私がこの姿で居られるのは、
「し、し、しって、い、います」
歯の根が合わぬとは、宗次郎のことだった。
〈狐〉は、金色の目をすがめたあと、身をかがめた。
「なにを怒っている」
「お、おこってなど、い、いません!」
「寒いのか?」
「さ、さ、さ、さむくなど、あ、ありません!」
「来い」
ぐいと手を引かれたと思った瞬間、暖かな毛皮に包まれていた。狐色というより金茶に近い。外側の剛い毛はちくちくと肌を刺してくるが、指を這わすとその奥の白い柔らかい毛が気持ちよく、何よりも暖かい。
「撫でるな」
〈狐〉は、馬ほどの大きい獣の姿に戻っていたが、声に変わりはない。
宗次郎は、ほっとため息をついた。
「あの、昼間のあれは、なんだったのですか」
「何がだ」
「歳三さんを、からかったでしょう?」
「揶揄った?」
「私にも見えていました。どういう妖術か知りませんが、いきなり動けなくなって、人形みたいになったのに、なぜか私の口からは、あなたの声がして、歳三さんを
〈狐〉は無言だ。
「私には危害が及ばないから安心しろとか言って、それから狐の姿に変わって、歳三さんが驚くのを楽しんでいましたよね」
「──
伝わる〈狐〉の声は深い。宗次郎は身体を離して、金色の目を睨み上げた。
「それは私の方が聞きたいくらいです」
「そうではない。なぜ、おまえにも、あの男にも、私の
──どうしてだ。
また、〈狐〉の心が響いた。
戸惑っていた。驚きと安堵、疑いに諦め。それから例えようもないほどの、淋しさ……? ぽっかりと空いた穴のような、埋めようもないほどの荒んだこころ。
宗次郎は何かに駆られるように、〈狐〉を腕いっぱいに抱き込んだ。
途端、温もりとともに流れ込んで来るものがあった。
人や景色だ。声や音やにおいまでもが立ち上る。
宗次郎は流されまいとして、必死に踏ん張った。
どれほどそうしていたか。ふと気づくと周囲は春のように暖かく、ぼんやりと明るくなっていた。
鼻先を、ちらり、ちらりと花弁が舞っていた。
──たてわきどの。
呼ばれて、宗次郎は目を上げた。
──たてわきどの。
幼い子供が立っていた。昔風の装束を着込んで、軽く首を傾げている。ふっくらとした頬が愛らしい。凛々しいというよりは、控えめで優しげな面立ちの子供だ。
年に不釣り合いな静かな笑を浮かべ、何か言いたげに立っていた。
──たてわきどの。
いつもそうだった。
幼い頃に相次いで父を、祖父を亡くし、その背に大きすぎる官職と、名門一族郎党の行く末を背負っていた。
世は戦国。主家の棟梁には余りに頼りなく、おのれの領地、領民、野心を預けることなどできなかった。
あの時は、これが正義だった。仕方がなかった。避けられなかったのだ。
おのれと幼い当主を天秤にかけ、そうして選んだ結果だった。
しかし──。
宗次郎は、おのれの頬が濡れていくのを感じていた。
誰が泣いているのだろう。誰のために泣いているのだろう。
おのれと〈狐〉との境が曖昧になっていく。悲しみと痛み、そして悔悟の念がただ、ただ増していく。
──孫童子丸どの。
感情の奔流に押し流され、頭の天辺まで沈み込んだ。
気づいた時、宗次郎はひとり道場に取り残されていた。
(つづく)
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