第10話 沖田宗次郎、仇討ちの介添役となる
そうしてその年は暮れていき、明けて安政六年睦月──。
世情は、騒がしさを増していた。
一方、小石川小日向の天然理心流道場試衛館は、師範代である沖田宗次郎が明けて十六歳となった以外、これといった変化はなかった。
強いて言えば、〈狐〉である。
師走のあの日。不思議な光景を見て以来、宗次郎の前から姿を消していた。
「あの仔犬はどうした」
案じて尋ねてきたのは、師匠の近藤周助だった。
「さあ」
「迷子にでもなったか」
淡白に首を傾げる宗次郎に、周助は怪訝そうに眉を寄せた。
「戻ってきます。必ず」
その宣言をどう取ったのか、周助は宗次郎の肩へ温かい手のひらを置いた。
松も明けぬうち、変化は向こうからやってきた。
のんびり寝正月に励んだ後、鹿島、香取大明神を祀った神棚の前で、恒例の初稽古が行われた。
通いの門弟や、居候、三多摩からの門人も加わり、鈍った身体を温めたあと、これもまた恒例の酒宴となった。
休みの前に、およしが詰めてくれた心ばかりお節──ほぼ煮染の重箱を出し、雑煮は近藤周助自ら餅を焼いた。給仕をつとめるのは、最年少の宗次郎だ。
実のところ、酒は苦手だった。美味いとも思えないし、気分が悪くなることこのうえない。
歓談をしている様子を眺めたり、それぞれの自慢話を聞くのは楽しかったが、酒杯を勧められる頃には、一目散に退散した。
──もういいから、奥に居ろ。
そんな時、土方歳三がこっそり耳打ちしてくれる。同じ下戸なのに、歳三は酒を舐めながら最後まで付き合っていた。
そういえば、と宗次郎は思った。
〈狐〉の姿が見えなくなったあと、歳三が宗次郎へ言った。
──あれは、行っちまったのか。
歳三には、他の人に見えぬものが見えていた。聞こえていた。だから、正直に答えていた。
──いいえ。戻ってきます。必ず。
確信はあった。それに、感じていたのだ。
〈狐〉は居る。近くにいる。少しだけ離れておのれを見ている。あの金色の目で、だぶん、今日も。
周囲を見回すが、誰もいない。寂しいような、冷たいすき間風のような、そんなものを感じて名を呼ぶが、いつも黙して返ってはこなかった。
さて、午過ぎには宴もたけなわとなり、心得たように歳三が目配せをしてきた時だった。
──表に行け。
突然、それが命じてきた。
(今まで、何をしていたんですか! どこへいって……)
──行け。客がいる。
聞こえているのか、もの問いたげな目をして、歳三がこちらを見ていた。
宗次郎は手にした膳を置くと、急いで母屋の玄関へ急いだ。
「宗次郎、
近藤勇が、台所から声をかける。
「はい! 行きます!」
走りながら襷を外して玄関の式台へ降りる。
すると、門の前でうろうろしている子供の姿が目に入った。
(客って、あの子供ですか?)
返事はない。宗次郎は下駄をつっかけて駆け寄った。
子供は十二、三ぐらいの男児。丈の短い小袖から、細い手足がにょっきり生えているようだ。袖口で鼻水を拭いたのか、糊のようにてらてら光っている。首には煮染めたような手拭い。寒さよけのようだった。
「うちになにか用ですか?」
子供は、文字通り飛び上がった。
「あの、ここ、しえいかん、ですか?」
子供は紙切れを掴んでいた。
「そうです。試衛館という名前の剣術の道場ですが」
子供は、あきらかにほっとした。赤い鼻先をこすって啜り、紙切れを読み上げる。
「えっと、おきたそ、そ、うじろう、って人いますか?」
「沖田宗次郎は、私だけれど」
「え? ほんとに?」
「私です。なにかご用ですか?」
その時から予感はしていた。嫌な予感だ。
「おれ、源助町のなめくじ長屋の梅松っていいます。吉井さまのところの八重さんがきてほしいって」
「八重どのが?」
吉井八重は、なめくじ長屋に住む少し年下の少女だ。仇討ちのために父親と二人国許を離れ、長屋暮らしで
しかも、八重は〈狐〉の償いの相手。おのれが手を貸すと誓約した一件だった。
「八重どのに、なにかあったのかい?」
首を振る。言おうか言うまいか、迷ってからわっと泣き出した。
「よ、吉井さまが、……死んじゃったんだ!」
「どうして」
──行け。ぐずぐずせず、八重に会え。おまえは、八重の介添人となることを誓約したはずだ。
(……え⁈)
宗次郎は言葉に詰まった。
(どういうことですか)
──行けばわかる。
〈狐〉のもの言いがひっかかった。
(まさか、知っていたのですか?)
──父親が死んだのだ。子が仇を討たねばならん。
宗次郎の頭から、すっと血の気が引いた。
「まさか、あなたは知っていたんですか」
思わず声に出た。
「あの時から、八重殿のお父上がこうなることを知っていたのですね」
目の前で、梅松が目を白黒させている。宗次郎がひとり、虚空へ向けて叫んでるのだ。
「なぜ、あなたは……」
言葉に詰まる。
なぜ、あの時、言ってあげなかったのか。
──無駄だ。命運は動かし難い。
それでも〈狐〉は、わずかにためらったようだった。
──おまえは、誓約した。
宗次郎は、おのれの部屋へ駆け戻った。
障子を開けると、仔犬が前足をそろえ、金色の目で見上げていた。
目を合わさぬようそっぽを向きながら、寒さ避けの広袖を掴み、父の形見の脇差を差し、最後に仔犬をつかんで懐へ入れた。
「おい、宗次!」
いつまでも戻らないのを心配したのか、廊下の先から歳三の顔が覗いた。
「歳三さん、ちょっと出かけてきます。近藤先生に申し訳ありません、とお伝えしてください」
おのれながら憮然とした声だった。歳三は、懐の仔狐に目を落とし、やがて頷いた。
「先生と勇さんには、俺から言っておく」
「門前に子供がいるので、なにか食べさせてあげてください」
「わかった。気をつけろ」
「はい!」
宗次郎は、正月の町中を急いだ。羽子板遊びの羽音や、晴天にはたくさんの凧が上がっている。長いしっぽがふわりふわりと泳いでいた。晴着の娘たちが、正月らしい華やぎを添えて往来を行き交っている。
──怒っているな。
宗次郎は答えない。
──そうだ。わかっていた。
脛が痛くなっても歩を緩めない。
宗次郎は日比谷を目指し、ひたすら歩き続けた。
(つづく)
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