第11話 〈狐〉、そのまこと
四百年。
四百年、生きている。
沖田宗次郎が源助町の裏長屋、なめくじ長屋へ駆け込むと、吉井家──八重の家は、戸口まで大勢の人であふれ返っていた。
通り過ぎた木戸番の爺さんも、心なしか目元が赤い。
宗次郎が歩み寄ると、長屋の住人らは一歩引いて通してくれた。
「八重どの」
少女は、父親の枕元に座っていた。
床が延べられ、横たわる顔までが小袖で覆われている。枕頭には刀、枕飾りに線香が一本立っていた。それでもかすかに血臭がする。
「八重どの」
八重はのろのろと顔を上げ、宗次郎の声に応える。正座した背は真っ直ぐのびているが、固く結んだ両の手はかすかに震えていた。
「すみません、八重さんと二人にしてください」
言ったのは宗次郎か、〈狐〉なのか。
近所の住人らは、八重に声をかけながら、一旦外へ出てくれた。
(八重に、わけを聞け)
宗次郎が応えなかった。察して、〈狐〉の気配が潜っていく。
「何があったのですか」
宗次郎はためらいながら、八重の手に触れた。姉の
八重はびくり震えた。
宗次郎へよく見えぬ目を向け、何かを言おうとして、
「あ」
言葉にならない。口を開いては止め、止めてから振り絞るように声を上げ、そうして無言のまま、宗次郎の手を掴んで涙を流しつづけた。
宗次郎は、掴まれた手の上におのれの手を重ねると、何も言わずに時を待った。
四半刻(三十分)ばかりそうしていたか。やがて八重は幾度か大きく息を吐き、涙を拭って手を離した。
「ごめんなさい。ほとんど見ず知らずの方なのに」
〈狐〉を通して関わりがあるとはいえ、あくまで夢の中でのこと。当人さえも知らぬことだ。実際に宗次郎と会ったのは、ただ一度限りである。
宗次郎は、首を振った。
「八重どの、お父上に何があったのです」
八重は、口唇を噛んで俯いた。
「昨日のことです。父は昼過ぎに出かけたまま、夜になっても帰りませんでした。何かあったのかもしれないと、長屋の皆さんが探してくださって、そうしたら今朝になって」
日陰町通から
すでに息絶え、無残な様子で運び込まれたのだ。無論、下手人はわからず、見た者もいなかった。
「奉行所の役人は、辻斬りではないかと言っています」
到底、信じていない口調だ。
「父の刀を狙ったのではないかと。襲われ、慌てて逃げ、逆に斬り殺されたのではないかと」
怒りに満ちている。
「父の刀は盗まれておりません。それを言っても、役人は辻斬りの一点張りです。それに」
八重は、骸となった父へ指を伸ばす。
「それに父は、家中では知らぬ者のいない遣い手です。
(なんだって⁉︎)
八重の父、吉井孫之丞とは一度しか会っていない。しかし、襲われて背中を見せて逃げるような人には見えなかった。
「それに、
嫌な予感がした。
〈狐〉がこころに割り込んでくる。跳ね除けようするが、
──見ろ。
(嫌です)
──事実を見ろ。
おのれの視界が転変した。妙に景色が歪んで、まるで木の上からでも見下ろしているようだ。遠く、色も音もない。
八重の父、吉井孫之丞が誰かと話している。
浪人者のようだ。吉井よりも少し若い。細い目が釣り上がった、癇性な男。ほんの二言、三言言葉を交わし、二人は一礼して別れた。
その時だった。
相手の男が振り向きざま抜刀し、吉井の背後から斬りつけた。
吉井が抜刀半ばで二太刀目を受け、地面に崩れ落ちる。
卑怯な、と呻く声が聞こえたようだった。
(なんですか、これは!)
──見た通りだ。
凄惨な場面に、気分が悪くなる。それよりも、宗次郎は込み上げる怒りを抑えられなかった。
(見ていたのですか)
──視えていた。
(見ていたのに、なぜ)
なぜ傍観していたのか。あれほど不思議な力を持ち、人を
──できぬ。
(できないって、それは……)
──視ることはできる。伝えることはできる。しかし、自ら関わることはできぬ。
自らが動き救けることは、〈狐〉にとって禁忌であった。
──しかし、おまえを通じて
(そんなことで、どうやって人助けをしてきたのですか!)
言って、宗次郎へ悟った。
だから、二人。四百年でたったふたり。私には、もう、あまり時はないのに──。
(え……?)
するりと〈狐〉のこころが流れ込んだ。水のようにまざり、おのれの中で溶けていく。〈狐〉が止めようとするのを感じ、宗次郎は強引になかへ踏み込んだ。
(ここは──)
荒んで枯れた
薄明である。
宗次郎は、走った。
走っても、地を蹴る音さえしない。静寂というよりも、死に絶えた風景だ。
宗次郎は駆けた。
あてはなかったが、行き先は分かっていた。
どれほど駆け続けたか、荒野の果てに一本の
その下に〈狐〉。人の姿となって古風な装束をまとい、腕に
ただ抱き、何も見ていない目を見開き、時折その顔前を白い
宗次郎は近づくこともできず、その場に立ち尽くした。
仄かな光に照らされ、白い
「沖田さま?」
腕を掴まれ、我に帰る。
八重が揺すっていた。
突然無言になった宗次郎に不安を感じたのだろう。八重はまた、泣き出していた。
宗次郎は混乱する。
何をどうすればよいののか、わからない。
親を亡くした八重の思いも分かりすぎる。あの枯れ果てた〈狐〉のこころも、ただ痛く、苦しい。
なぜか頬が濡れていく。
誰が泣いているのか、ますますわからなくなる。
(あとは、……お願いします)
無言で
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます