第4話 土方歳三、弟分を心配する
土方歳三がそれを見たのは、真夜中、女の家から試衛館へ戻った時だった。
勝手口から上り、寝間に使わせてもらっている三畳間へ向かう時、道場から妙なにおいがしたのだ。
においといっても、香りや臭気ではない。なんとなくの気配、というのが最も近い。
歳三は、忍び足で道場へ向かった。
物騒なご時世である。ものずきな盗賊かもしれない。
夜這い、ということはないだろう。飯炊きのおよしさんは、すでに三人の子を育てきった年で、ほかに女っけはない。真夜中に寒稽古──もない、はずだ。
幸い、月夜であった。
片手に木剣をつかみながら、そっと戸の隙間から中をのぞき込んだ。
──……なんだ、あれは。
ひとりは沖田宗次郎だった。
歳三にとっては、弟分のような侍の子だ。九つ下だが、早くから試衛館では内弟子として剣を学び、正直、天才とはあの小僧のことだと思っている。
十六になっても剣術以外はおっとりしていて、姉のみつ殿お手製の綿入れ半纏を着込み、板間の真ん中に座っていた。
その正面にいるのは、
(きつね、……だ、よな)
歳三は、幾度も目をこすった。少し酒を舐めたが、酔うほどではない。
もう一度、えいやっと目を瞑ってから見直したが、宗次郎の前にちょこんと前脚をそろえて座っているのは、牛ほどの大きさの真白のきつねだった。
(いや、牛というよりも)
馬か──と、どうでもよいことを考えているうちに、その姿が突如変わり始めた。
(な、なんだ、あれは⁈)
あれよあれよという間に、男の姿になっていったのだ。
総髪の、背筋の伸びた大人の男である。
しばらくは輪郭がぼんやりしていたようだったが、やがてくっきりとしたひとがたとなって、宗次郎の前に端座していた。
歳三は、腰を抜かしそうになった。
しかし、宗次郎はというと、まったく動じる様子がない。その狐とも、人ともいえぬ何かと、親しげに言葉を交わし始めたようなのだ。
やがて、男は少し居住まいを正し、声高に言った。
「大願成就の暁には、必ずおまえの望みをかなえよう!」
つむじ風が吹き抜けたような気がした。
そうして、一瞬目を離した隙に、それは小さな狐に戻っていた。今日、宗次郎が懐に入れて連れてきたあの獣だ。
宗次郎は、両手で抱き上げると、ふたたび懐に入れた。
歳三は、あわててその場を離れ、廊下の角に身をひそめた。
戸が開き、軽い足音が遠ざかる。
歳三は息を詰めて見送る。寒いはずが、背筋を冷や汗が流れていた。
「宗次、おまえ」
「なんですか、歳三さん」
振り返りながら、宗次郎はあくびを噛み殺した。
翌日の朝餉も終わり、半刻もすれば誰かが稽古にやってくる時刻だ。
試衛館は、町人であっても農民であっても、学びたい者を拒むことはない。というか、拒んでは道場が成り立たなかった。
「おまえ、あー、近頃身体の具合はどうだ?」
「先月、風邪っぽかったですけど、もう治りました。歳三さんもご存知ですよね」
流行り風邪らしく、もらった歳三の方が熱を出していた。
「いや、そういうことではなく」
「どういうことですか?」
にこにこと尋ねてくる宗次郎に、歳三は「なんでもない」と言ってその場を離れた。
宗次郎の懐にいる仔狐が、睨んでいるような気がしたのだ。
まさか、面と向かって「おまえは狐憑きか?」とは聞けない。
しかし、どう考えても、どう思い返しても、あれは狐が化けているとしか思えなかった。
こんなことは、滅多な相手には相談できない。
(
──歳、大丈夫か?
とでも言って、額に手を当てられそうだ。
周助先生や、井上の源さん、およしさんはどうだ。
どこかの坊主か、拝み屋かと考えているうちに、ふと、よいことを思いついた。
歳三は、「家へ行ってくる」とだけ言い残し、故郷である武州多摩郡石田村へ向かった。
歳三の生家土方家は、土地では“お
父親は生まれる前に亡くなり、母も五つ、六つの頃に亡くしている。
末子である歳三は、家を継いだ次兄とその妻に育てられた。
長兄の為次郎は石翠と号し、盲目ながら胆力のある剛気な人物であった。俳諧や浄瑠璃を好む趣味人でもあり、歳三はこの二回り近く歳の離れた兄から薫陶を受けて育った。
「どうした、歳三」
為次郎は、土方家の庭先に建てた離れ屋に起居している。
本人の希望通りに建てた、二間の小さな屋だ。
歳三は、幼い頃から母屋よりもここが好きだった。為次郎も入り浸る歳の離れた弟をかわいがり、俳諧やら長唄やらの手ほどきをしてやってきた。
「兄さん、相談があります」
「おことさんのことかえ?」
おこと、とは為次郎が勧める歳三の許婚候補だ。三味線屋の娘で、声がいい。本人同士にその気はないが、為次郎は乗り気この上なかった。
「違います。試衛館の宗次郎のことです」
「ああ、宗次郎さんかい。元気にしているかい?」
宗次郎の人当たりのよい気質は、誰からも好かれていた。
歳三は、どう切り出そうかためらった。
「あー、兄さんは、あやかしやら幽霊やらをどう思いますか」
為次郎は見えぬ目をさまよわせた。
「それと宗次郎さんと、どう関わりがあるんだ」
盲目の所為か、ひと一倍勘がいい。
「実は、兄さん」
歳三は、昨夜目にしたことをこと細かに為次郎へ伝えた。
為次郎は、話が進むに連れて腕を組み、眉を寄せ、歳三が話し終わると、喉の奥で小さく唸りをあげた。
「本当に、おまえは酔っていたわけじゃないんだね」
「もちろんです。そう思えば、
歳三は、用がなければ生家に寄り付かない。小石川の試衛館か、姉の嫁ぎ先でもある日野宿の佐藤家へ入り浸っている。
「それともうひとつ。俺には狐に見えるそれが、皆には仔犬に見えているようなんです」
為次郎は、ふむと考え込む。
「宗次郎さんは親しげというんだね」
「懐に入れて可愛かっています」
ふむ、と考える。
「宗次郎さんに害を為す気はないなら、おまえが側にいてやってはどうだ」
「俺が?」
「そうだ。宗次郎さんは剣は強いが、まだまだ世間知らずだ。
今度は、歳三が考え込んだ。
確かに、それが一番よいかもしれない。本当に狐憑きならば、祓ってやらねば大変なことになる。
「わかりました。そうします」
十日ほどしたらまた寄りますと言い残し、歳三は生家を立った。
(なんでまたこんなことに)
戻ったら宗次郎から聞き出してやると、歳三は姉の嫁ぎ先である、日野宿の佐藤家へ足を向けた。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます