第8話
ネリはもしかしたら、わたしの見た幻想だったのだろうか。秋の初めにネリと出会って、話をして、授業を抜け出して、踊って、キスして、全部がわたし一人の妄想だったのだろうか。
ヨルは唯一残った鉢植えのクロッカスの世話をしようと籠に鋏を詰めて庭に向かった。明後日にはもう帰省する。その前にやらなきゃならないことがある。
いつも通りの、お庭に、黒い人影がポツリと佇んでいた。
「ヨル」
透き通る声はネリのものだった。
「久しぶり、ヨル。昨日も夕方に来たけど会えなくて……先生にヨルの帰省は明日からって聞いたから、今日会えるかなって思ったの」
ネリは私服だろうか、膝上の黒いワンピースを着て、酷くやつれた顔をしている。
「どこに、行っていたの? ネリ」
「ごめんね、急に居なくなって。クラスの子、思ったより過激だったわ……サボったくらいであんなに無視するなんて」
「抜け出したのが聖歌の練習だったもの……みんな、本気だったから」
「ヨルは大丈夫だったわよね。ずっと同じクラスの子にいじめられるなんてなかったわよね。あたし、みんなにはあたしがヨルを無理に連れ出したって言っておいたんだけど……」
「そのくらいじゃ、あの子たち、納得しないわ」
「そう……本当にごめんなさい……」
「いいのよ……」
ネリは視線を鉢植えに落とす。クロッカスが紫色に開いていた。
「クロッカス、ここのだけが咲いたのね」
「ネリ、どうしていなくなったの」
「……」
まだ冷たい春の風がふわりと吹いて、ネリの黒髪を抜けていく。その時に、ネリの左耳にキラリと光るものが見えた。
それが何かはわかった。
「ピアス……? いつの間に?」
「ずっと空いてたわよ?」
せめて、イヤリングであって欲しいと願ったのも束の間、ネリはあっさりと裏切った。
ネリは髪を両耳にかけて見せた。左耳には噛まれて縫った傷痕とそれ以上に痛々しい銀のピアス。右耳は軟骨にも空いていて、チェーンでピアスを繋げている。
ネリに傷をつけた犬は死んだ。ネリがそう望んだから。なのに、それなのに、ネリは自身で耳に穴を空けたんだ。そんな矛盾、おかしい。ネリがそんな過ちを犯す? ありえない。おかしい。崇高な少女であるネリはそんなことしない。許せない。
ネリの白い頬を引っ叩いた。乾いた音が庭の中に響く。あまりに突然でネリは地面に転び、胸ポケットの中のものが広がった。
ヨルはその可愛らしいピンクの手帳を拾い上げた。
「やめて!! ヨル!! 触らないで!!」
手帳の隙間からは、黒っぽいカードが二枚が出てきた。ヨルがそれを手に取ると、ネリの顔は青ざめる。これは、エコー写真だ。数ヶ月前に義姉が見せてくれたのと似ている。男の子なんだよって。
「赤ちゃん、いたの」
「なによ、それ」
「好きな人がいたの。前の学校の先生……ダンスを教えてくれた……付き合ってたらね、退学になってしまったのよ」
ネリは立ち上がりながら話す。
「お互い、本気だったのよ。だから……編入したら他人同士だから……」
目に涙をいっぱい溜めて、叩かれた頬と鼻も赤くして、震えている。
「ヨル、黙ってたのはごめんなさい……でも、あたし、今日はあなたにそれを……」
「最低」
ヨルはネリを睨んだ。この不埒な女は同級生の誰よりも穢らわしい。
「やっぱり……あなたもそうなのね、ヨル」
ネリは顔を伏せ気味にこちらを睨んだ。
「そうね……あなたは醜いもの」
「意味わからないわ。あなたなら受け入れてくれるって思ったのに……!!」
ネリはヒステリックに叫んで、ヨルから手帳と写真をひったくる。
「あなたも同じだわ!! あたしの幸せも、母になることも祝福しない!! 堕したあたしを慰めることも、励ますこともしない!! みんなと同じ、蔑んだ目で見るのよ……!!」
体が重たい。冷え切っていく。
「わたしは、飾らない……そのままのネリが美しいから崇拝してたわ。あなたが気高い少女だったからこそ、わたしの宗教に相応しかった」
「勝手に崇めないで!! あたしは神でも何でもないのよ!!」
この女は、普通の女だった。見た目と、最初の話だけに、馬鹿なわたしは騙されていたみたい。
「そうだったみたいね」
ヨルは籠から鋏を出す。今日、本当はクロッカスを切って、一輪だけど花瓶に挿して、ネリの部屋へ持っていこうと思っていた。でもその必要はもう無いみたい。
「やめて……ヨル……来ないで……いやっ」
全てを悟ったネリは、手帳を握りしめて、泣きながら震える。足は竦んで逃げられないみたい。
やっぱり、ネリはただの女の子だった。ガタガタ震えてる。
ヨルはネリに向かって鋏を振り上げた。
「ばいばい、ネリ」
知らないふりはもうやめる。
ヨルは、無造作に引きちぎったクロッカスを片手に、反対の手でネリの首元に触れてみた。すっかり冷えた血で手が汚れてしまう。
「あなたの血、一度見てみたいと思ってたの。どれだけ綺麗なのかしらと思ってたけど、あの子と同じ……ね」
花壇の上、黒い土の上で、ネリの恐怖に慄いた白い顔だけが不気味に浮かんでいて、光を失った黒い瞳には黄昏が閉じ込められている。ヨルは汚れた指をネリの黒いワンピースで拭った。
死体を運んだ時に、ネリの左の太ももには知らない言葉でタトゥーが彫られていたことに気がついた。どこまで、ネリはわたしを裏切るのだろう。
それなら真実を教えてあげる。
「あのね、ネリ。クロッカスの球根の毒性は大したことないのよ。大きな犬が少し食べたくらいじゃ死なないの。犬が死んだのはたまたまだわ」
そう言って、紫のクロッカスをネリの胸元に置く。
「でも、クロッカスはあなたによく似合うわ。ネリ」
ヨルは立ち上がって、大きなスコップを手に取る。じきに、日が暮れるだろう。早くこれを片付けなきゃ。
ため息を吐いて立ち上がり、ヨルは作業に取りかかった。
ネリへクロッカスを どりゅう @paffco
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