第三章 「妻を娶らば」

第一節 あざみという名

(1)


 名前はあざみ、三十三歳、岸上あざみ、娘にこんな名前をつける親ってねえ、いい加減にして欲しい。あざみで生きていけっていうんでしょうかねえ、子どものころからもう腹をくくっていたように思う。

 そこそこの公立高校で成績も馬鹿にしたものじゃなかった。でもあざみって名前がもうあたしの職業を決めてしまっていたのかなあ。そこそこ男好きのする顔で、話は聞き上手、アルコールも好きらしい。条件整いにけり。


 と思っていたら、なんだろう、担任の年取った教師が労働組合の関西支部の事務職の仕事を押し付けてきた。今のうちに固い職につけておこうという親心か。 

 しかしそうはいかないのが世の中、あたしはそこの上司に初恋、立派な男だと憧れた。立派なら妻子持ちの身で関係もつはずはないのだが、暗く輝くあたしの瞳に参ってしまったのね、これが。

 彼も実はぶきっちょらしかった。最初の試みでは早漏で失敗。始めてできたと思ったらこれが大当たり。妊娠。彼は大パニック。どうするったって、こっそりやるしきゃないでしょ。相手は別人だと偽って堕胎の罪をかぶった。あざみの不覚。泣き狂った。一夜にして白髪が発生した。



 馬鹿だった、と反省して地味そうな印刷会社にアルバイトで入った。そのときは水商売のことは考えもしなかった。あたしが折角まじめに働こうとしているのに、すぐにちょっかいが入る。好きそうに見えるってのもよくない。

 そのうちの一人が金持ちでしかも稼ぎのいいグラフィックデザイナーだった。顔は普通。できればいい男がよかったけど、「あたし、全然あなたのこと愛してないから」って言っても、それでもいいと返事するのね、これが。真面目だし、あたしの言いなりだし、馬鹿じゃない、この男、と思いながら結婚してしまった。条件はできるだけセックスしない。


 子どもは好きだったので、お酒を飲んでぼんやりなったときに子作りした。いろいろ聞いていたし、何となく何かわからないけど下半身に「欲しい」という感覚無きにしも非ずの年頃だった。でも、最初の経験のせいか、まるで愛がなかったせいか、もう嫌なだけ。気持ち悪く鳥肌、痛い、もう我慢だけ。


 まあそんな日々、男の子二人できちゃって何とあざみが普通の主婦になってしまった。主婦仲間では、あの人奥手、で通っていた。

 まあ、でも亭主がひたすら気持ち悪い、っていうのはやはり無理でしょ。させろ、いやだで喧嘩もエスカレートするし、とうとう子連れの家出。

 世の果てのような小さな町の、終着駅のうしろの小さなお店で雇われた。やっと 天職かな、なんて娘時代の諦めの夢を叶えたわけ。


 三十三歳という女ざかり。

 客の一人と関係したけど、でもなんだやっぱり、雑誌に書いてあるのと全然違うんだ、なんて関係。


 ところが、忘れもしない、平成元年七月十日から十一日にかけてあざみは花開いたのよ。三度もね。

 一週間前に初めて現れて、無口で飲んで、しばらくして出て行く。あたしは話しかけたよ。商売だから、ではなく、彼がまるで光源氏もかくやと思われるほどの超ハンサムだったから。歳は少し上くらい、背が高く、すっきりして知的でもあるけど、どこか眸が暗い。笑うとえくぼができる。三回目に街中で出会ったから、もう離さない、と思って、夕食に誘い、それから彼の家についていった。

 あたしが余りにヘロヘロなのは彼も見逃さなかった。キスが深くなると、もろに下半身にきた。驚いた。こんなこと! もうあっという間に燃え上がり、息が足らなくなりそうになり、彼がはいってくるともう降参だったのよ。一直線の快感で果てた。彼が終わらなかったらどこまでいったか。これが雑誌に書いてあったことか。それをあたしが告白すると、彼は笑窪を見せてにっと笑った。



 ぼくがパクヨンヘです。今度はぼくに物語れと。

 そうね、あざみは一月の間に、凄まじい進歩をとげたんです。ぼくも見たことのないほどの性の深みにはまっていってね。ぼくの体が好きで、いつも濡れていたから、パンティがいくつあってもたらないくらいね。

 あざみは息子たちを捨てた。夫はさいわい相手が見つかって問題が少なくなった。ぼくもそりゃ悪い気はしなかったですよ。これほどぼくの魅力にこたえてくれるんじゃねえ。


 問題は別にありました。あざみは酒におぼれるようになったのです、仕事柄。またぼくには妻子があったんです。勿論不仲でした。そのころはちょうど妻の父親が死んで、妻は実家に長く帰っていたのですがね。


 セツコって女で、十年ほど前に結婚したときには充分熟れた年増だったんですが、ぼくには自虐趣味があって、困難であるほど無謀に挑戦するんですよね。つまり彼女にもあざみと同じく二人の子がふたりあって、その子達を捨てさせて、ぼくの子を生ませて、まあ、ライオンのようなものです。

 満足していたのはおたがい最初だけで、当然のように非難か無視かの関係になりました。

 おかしなものですよ、両方とも性欲にあふれているのに、近づけない。同じ家にいるのに同じベッドにいられない。どこか執着はあるのに、お互いに許せない、尊敬しあってない、そんな状態でした。

 ぼくが我慢していたのはやはり自分の子があったからでしょう。セツコにもあざみにも子を捨てさせたのに、われながら勝手なオスライオンですよ。

 ま、そこへあざみが元気良く混ざってきた。その詳細を聞きたいですか? あまりお勧めしませんね。

 あざみと一緒になることをちら、と考えた瞬間もありますよ、そりゃね。多分本当は、あざみとはうまくいきすぎて面白味がなかったんでしょうか。

 セツコは、あれはどういう冷たい女だったのでしょう。謎です。恐らく冷たいところに惚れたぼくも謎ですが。まあ、置いてきた子どものことでぼくを恨んでいた、それはありえます。ぼくがその恨みを軽く見ていたのです。




 ヨンヘのいうセツコ、渡辺節子です。

 彼との生活は、最初の一年間がまるで夢のようで、すぐに地獄のようになりました。とても厳しすぎるのです。延々と文句を言うのです。わたくしも頑固ですから泣いたり謝ったりは致しません。だってそこまで責められるほどのことではないのです、いつも。ちょっとした失敗。ご飯が上手に炊けなかったとか、腕時計をわたくしも忘れたとか。

 三年のちには、夫婦生活をヨンへが避けるようになりました。これには参りました。わたくしはその前のヨンヘとの生活ですっかり性愛に馴染んでいたので、とても困りました。

 それでも別れなかったのは毎日の生活に振り回されていたからだと思います。ヨンヘには問題をひきつける能力があるかのようでした。その対処にいつでも懸命な日々が、別れるという考えからわたくしをそらしていたのです。

 そんな問題の中でも、突出していたのは浮気です。わたくしより十歳若いホステスにすっかりのめり込んでしまい、家には彼女が働く宵の間だけ戻りました。すったもんだは恥ずかしくて言えません。

 それでもまだ別れなかったのは、ヨンヘのややこしい性格にあったでしょう。彼は最初の一年ほどで、あざみを性的に完全に干してしまったのです。一方わたくしからは打って変わって性交を要求しました。

 あざみも気の毒でした。わたくしは歓びもありましたが、強要されてもいました。無理に付き合ってもいました。それ以外の時間は例のようにあれこれについての非難ばかりでしたし。


 前夫のことですか、初恋だったので、遠い幻です。急に思いがけず愛の方向が変化しただけで、今では人生のひとこまにすぎません。当時は、彼の煮え切らない態度がとても悲しかったものです。


 わたくしという人間ですか、伝統的な女性像からはずれました。自分にとって正しい決定をすることにいつも拘っているところがありました。

 正しい決定ってもちろん、わたくしがしたいことですわ。わたくしなりの真実の追究なわけです。もっとも単にわがままとも言えますが、そうは言わさないように正しく生きたつもりでした。


 初恋の早川徹をあくまでも諦めず、彼からはっきりとノーと言われない限りは一筋に追いかけていきました。めでたくゴールイン。息子が二人。

 性欲はありましたが、それが満たされなくてもまるで気にしませんでした。夫にもう少し関心をもってほしかったのは事実ですが、性愛ではありませんでした。

 夫は余り幸せそうには見えなかったのですが、男は稼いでくればいい、という時代でした。わたくしはその点が不満でした。その男女の役割の固定したところが。戦後教育の早い果実ではありました。

 それなりの家庭の形ができていき、これくらいの満足と不満足の割合で共に生きていくのだろうと思うようになりました。


 年下のパクヨンヘとであったころ、わたくしは三十四歳くらいでしたかしら。少し親切にしたところ、強く掴まれてしまったのは意外でしたが、どんな結果になるかも考えずに好奇心から関係を持ち始めたわたくしが世間知らずだったのでしょう。だれもすぐに捨てられると思っていたでしょうが、そこがヨンヘの変なところで、意地になって結婚まですべてを引きずっていったのでした。二人の息子の親権は取られてしまいました。愚かな話です。





第二節 奈保子

  


 山辺奈保子の中で、彼の姿はあらゆる真善美の典型として立っていた。十八歳で初めてそんな存在を見た。

 完璧な半弧を描く弓の射手として、優雅な横顔とまるで弦によりかかってでもいるような、人間ではないかのような角度で、弓道場の板の上にその全身をさらしている彼をみた。心理と物理の張り詰めた後におのずと離れていく矢のあとを、彼は見るともなく静かに眺めやって、しばらくなお残心の姿勢でいた。

 コーンと涼しい、鼓の音が薄闇の彼方で響く。思わず拍手が起こった。


 大学に入学したばかりの奈保子には、鮮烈な人生のシーンであった。彼女は毎朝、一番に道場に行き、すべてを吹き清めた。彼にふさわしくするためであったし、そのためにささげる気持ちでもあった。つましい両親に海辺の家で育てられた奈保子は、多くを望まない、分をわきまえた少女でもあった。


「もう少し右手を上からもってきて」

 いきなり声がした。弓道部の巻わらで矢を放つ練習をしていたときだ。それがだれの声が勿論すぐにわかった。主将の彼とじかに話すのは始めてである。

 はい、と奈保子は小声で答え、彼を見ずにもう一度やり直そうとした。彼の手が彼女のひじにさわり、弦を引きしぼる道筋を導いた。背中にほんの軽くふれて、体勢を訂正した。

「親指の付け根をもう少し強く押す」

奈保子は頷けないが応じる。

「そう、あとは胸を弓の中に入れる気持ちで、自然に右手が離れるまで」

 どっと太い音を立てて矢は深くささった。


 次々に2本ずつ練習する後輩の部員たちを、彼は同じように指導していった。もうすぐ巻わらテストがあることになっていた。奈保子が白い頬を上気させ、大き目の厚めの唇に小さな微笑を浮かべていると、彼が後ろからまた声をかけた。

「山辺さん、毎朝掃除してるんだってね。有難う、なかなかできることじゃない」

「あ、でも近くの下宿ですから。早起きも平気なんです。掃除もなんてことありません」

 これ以上何を言おうと、奈保子が困っていると誰かが彼を呼んだ。一年先輩の女子三人組が、弦に油を塗るための通称わらじという小さな藁細工の作り方を確認しに来た。といってもそれはいかにも彼と話すきっかけに過ぎないのは奈保子にも明らかな様子だった。彼女らは友人でありながら、彼を競い合っているようなのだ。奈保子はまた別の笑みを少し浮かべた。そんな異性への興味とは違う、はっきりと自分に言っていた。



 部の中で、恋愛沙汰の事例が余りに多いような気がした。奈保子にはその話題は縁遠かったので、自然に耳に入る程度の情報しかえられなかった。それでも充分に怪しからん、と思えた。 

 例の先輩女子三人組のひとりは別の男に興味が移り、一年生の女子が惚れたという男子は上級生に夢中でその女子は毎晩泣いているとか、その女子を上級生の男が好きだとか、別にペアが三組もできたが、すぐに破局した。その原因が、男のほうが例の三人組のひとり節子に岡惚れしたせいだとか。時代は昭和五十年のころである。一組を除いてはすべて、充分にプラトニックにとどまる関係だった。

 奈保子には弓道の化身としての彼がますます生活のすべてになったが、弓を彼のように上手になりたいというのが奈保子の感じであった。

 よく観察していると、主将は自分の練習を決してなおざりにしていなかった。一人でよく五十本以上も巻わらで練習していた。奈保子には、美しい白鳥の泳ぎが、実は水面下での懸命な脚の動きによるように、彼への尊敬の裏づけと思われた。


 二年間も彼女の平明な情緒は美しく保たれた。弓道は彼女の生きる張りであったが、何故か上達は遅かった。上級生達は華やかに成長し、道場で鼓の音をさせて拍手を受けていた。主将はすでに座を譲り、就職活動を始めたそうだ。


 秋口のころ、はじめて冷たい風が吹いた。奈保子は街の中心部をバスに乗って家庭教師のアルバイトから帰ろうとしていた。

 向かい側の歩道を、黒い影がポケットに両手を突っ込んで、大またで歩いていた。一目でそれが心を惹きつけた。俯いて、何を考えているのか、その姿が突然愛しくてたまらないのだった。

 主将だわ、早川さんだあれは。

 動悸が体中に轟いた。

 あの人を好きなの? 愛しているの? 世にも愛しい姿であった。愛してる、愛してると奈保子は千回も呟いた。


「ええっ、奈保ちゃん知らなかった? 早川さんと渡辺さん、有名なカップルよ。熱々でだれもそばにも寄れない。渡辺さんが勝ったのね、早川さんのファンの中でも押せ押せだったから」

 そういえば、お似合いではあったなあ、と奈保子は自分の気を静めるために思った。体の線が優美に弓に似ている節子、その華やかだが真摯な勢い。胸板の厚い、弓道の化身のような早川徹。奈保子には遠い、夢にも思ったことのない世界が存在していたのだ。




 彼への思いの純粋さを壊したくなかった。奈保子はすぐに退部した。そのころは節子が役員をしていたので、直接に話した。理由はいえない、どうしても辞めるとだけ主張した。

 節子は美しく化粧した顔を、不審そうに傾けて、どこか怒りを含んでいる笑わない山辺奈保子に何度も翻意を促した。が、自分がそこに大きく一枚かんでいるとは全く思っていないらしかった。それほどに両極にいる二人だった。


 何年もたってのち、偶然に弓道仲間で後輩の男が渡辺節子と出会ったのだが、そのとき噂話のひとつとして、山辺奈保子が故郷の山口に東京から帰ったという話が出た。東京で中学の理科の教師をしていたという。その彼は実は奈保子に気があったせいで、何気ない風にもうひとつ言い添えた。

「山辺さん、ほら、ある先輩に憧れていたんですよね、でも残念なことに先輩には素敵な恋人がいて、それで部を辞めたんですよ」

「そう、あの時てこでも動かなかったものねえ」

節子は自分がその「素敵な恋人」だと言われているとは思いもしないようだった。そのころは、夫の気持ちを掴んでおくのに必死で日々戦っていたのである。徹はどこか上の空で、家族四人で一緒にいても楽しそうには見えなかった。それは悲しいことであった。





第三節 それぞれの異変


(1)


 どうして知ったのかしら、あたしにヨンヘの妻の節子から今頃手紙が来た。あのころから、浮気した夫と一生懸命寝て、平気で長年その後も暮らしたって言う信じられない人だから、こんなことくらいするのもわかる。しかもその内容ときたら。


「というわけで、病を得てからの夫は事務職なので仕事に差し支えはないのですが、わたくしとの生活にさすがに嫌気が差したようです。といいますのも、更年期にはいり、わたくしはすっかりその気がなくなりまして、はっきり夫婦生活をしない旨申しました。夫はあざみさんもご存知のように、荒れ狂っておりましたが、実際にわたくしが相手として不十分になりましたので、諦めモードに入っております。

 でも、男ですからまだそんなことが必要なのです。

 わたくしは、離婚するにしろしないにしろ、ヨンヘがあざみさんとまたあの頃のように親しく満足して暮らせるものならと思うようになりました。

 とんでもない手紙だとはわかっておりますが、わたくしよりずっと若いあなたとならまだ充実した生活が可能かと思います。そちらのご生活は独身とは知っております。

 真面目に申しておりますので、まだそのお気持ちがおありでしたら是非ヨンヘ自身にご連絡くださいませ。嘘ではありません。」


 あたしは怒り狂ってたちまちその手紙を破いた。

 最後はこちらの負け、という形で終わったのが悔しい。その後の男関係はもろに商売がらみばかりで、あのころのようないわば必死な純情と熱情はもう体験できなかったんだから。



 いつのまにか、最初の一年ほどの、彼があたしに執着していたころ、お店がひけるのを中に入らずに木陰に立って待っている、愛しい姿が思い出されてきた。


 まずいよね、今更。幸せなときだけをはっきり覚えていて、だからこの二十年も深刻に恨みにも思わず、連絡も取らず生きてきたのじゃない。

 よし、何もかもオープンにして、会ってみよう。手紙は破いたが、一目で覚えていたヨンヘの携帯に電話する。彼は驚いていた。節子の携帯番号を聞きだし、電話してみる。彼女は喜んだような声だった。


 まあ、会ってみよう、と旧友に会う気分になってきてしまった。

 で、会ってみると、あたしは磨きたててあるし、ヨンヘはいい感じのロマンスグレーだった。ふたりとも一言も言う言葉はなく、にやにやしてじろじろ見詰め合った。別れたときはまったく、警察沙汰だったのだもの、ねえ。


「で、まだ奥さんのこと愛しているわけ?」

「仕方ないから一緒にいるだけさ、一緒にいる意味はもうはっきりないけどね」

「またあたしのこと、干したりして苦しめる?」

「そんなつもりは。ときどきでいいんだよ、もう」


 あたしはヨンヘの長い指に少し触れてみた。どうかな、なにか感じるかしら、と思ったんだけど。ふうん、あたしのホルモンレベルはまだ十分みたいだった。彼の年上の奥さんみたく更年期とは程遠いんだもの。

 それでその日は夕食を一緒にしたくらいで、都合のよい日を決めた。すると待ち遠しいのなんのって。彼も間で一度電話してくれた。恋人のような気分になってきちゃった。いい歳してだけど。

 さあ、ひさしぶりの本番。あたしの寝室で。これはばっちりだったので、あたしはますます彼が大好きになった。乾いていたみたいに。

 次のとき、もうこちらに移ってくるらしい話が進んだ。奥さんは箱に詰めたりしているとかだった。変な人だったけど、やっぱり常人離れしてる。


 次第に荷物も増えて、あたしも不要なものなど捨てて、いい感じだった。そのうち、懸案の性交渉も五回に二回は彼ができない計算になった。

 いいんだ、彼も還暦近いし、万全じゃないだろう。糖尿病をもっているし、心臓も悪いって。元気に見えるけれども。

 おかしいよね。性愛がすべての表現だったし、最後の意味だったのに、けっこう許せてしまう。それも含めて愛しいと思う。昔とは違ってね。この気持ちだけが重要なのかなあ。

 仏壇も神棚もないけど、謙一のために陰膳を供えるようになってもう長い。どこに姿を消してしまったのか、次男は時には来てくれる。それもまた重要なこと。




 早川徹はもう六十台後半になった。

 節子と別れてから、再婚することもなく仕事一筋で生きることにした。息子を二人、勉強させるだけで生活も経済も眼一杯ではあったが、徹自身が積極的でなかったために女性関係は通り一遍のものでいつも終わった。物事を深く考えないように、辛いことは忘れるようにした。


 別れることにはなったが、節子に一途に愛されたことだけは事実として、徹の核心となっていた。

「あなたへのこの愛って、わたくしの誇りなのよ、わたくしと人生を支えてくれている大切なものなのよ」

 節子が新婚旅行で、指先と指先でかすかに触れ合いながら囁いたことを、自分の誇りのように思い出す。しかし、その愛は節子の愛であって、徹のものではなかった。自分がその中には居ないような、そんな愛され方だった。

 誰かのことが思い浮かびそうな気もした。それを封印した。自分と節子がうまくいかないだろうと知っていたかもしれなかった。


 長男の充は消息を断った。すでに十年以上過ぎた。両親や祖先の墓参りを欠かさず、どうか充を護っていてくださいと祈った。最近の検査では、自身に前立腺がんの疑いまで生じていた。全ての流れを考えると、自分の運命の悲しさにうちひしがれそうになる。

 なにひとつ欠点もない、少しおとなしいだけが損をしている、善人の自分にここまで悲運が落ちてくるのは何故だろう、とつい考え始める。しかし、またそれを敢えてやめる。何故なら、考えてわかるものではないことでも、知ることは出来ないながら必ず理由があるはずだから。そう徹にはわかっていた。


 息子達は、母親の節子と連絡しあっているだろう、諦める節子ではない。進学してからは、それはそれで勿論構わない。かれらの権利だ。あたりまえだと思うようになった。

 次男はときどき現れた。運良く楽しく生活しているようだった。どこまでが事実で、どこからが冗談か比喩かわからないような、禅問答をしてお互いの心を隠した。そんなところは似ていた。



 女文字の爽やかな封書が届いた。梅雨も明けて蝉のかしましい日である。

 はるかな昔に見覚えのある文字である。忘れるようにと霞をかけていた面影が透けて見えそうになった。

 学生時代に、飲み会があると徹がよく歌ったひとつ、与謝野鉄幹の有名な「妻を娶らば才長けて見目麗しく情けある」という歌を、当時は節子を思い描いて、理想化してうたったが、節子は実はわがままでいい加減な世間知らずでおごり高ぶった女だった。

 山辺奈保子、一度だけ距離が近づき、人間同士の親しい懐かしい香りを感じた。また退部するときに手紙をもらった。自分からは反応を返さなかった。だれに対してもそうであるように。


 四十年後のその手紙には、さり気なく自分の近況と、昔日の彼女の思いが今も美しい記憶として残っている、と淡々と書かれてあった。そしてあっさりと、独身のままだと人づてに聞いたので一度お会いできたらと思う、彼女もひとりみのままである、とまで直裁であった。


 その後まもなく、徹はがんの手術を受けた。

 奈保子はそのことを予想でもしていたかのように、見舞いに現れた。毎日現れて、甲斐甲斐しく気を配ってくれた。つぶらな瞳と白いほお、少し厚い唇、短い髪、若いころそのままで還暦を過ぎた奈保子がいた。

「早川さん、昔のままですね」

 その唇に微笑みを浮かべながら奈保子が真面目に言う。

「真っ白だよ、髪が。メガネもかけてるし」

「私ね、早川さんとまた弓道をしたいって思ってるんですよ。あれからなさってないのでしょう。私は今度こそ立派に弓を引きたいと思うんです」

「ああ、弓道」

 突然、その感覚がもどってきて、徹はしばらく絶句した。やりたいね、と思わず言った。


 退院するころには、手を握るようになり、徹の自宅では初めて唇を合わせた。優しい楽しいキスであった。

 女性的でありながら、しっかりした奈保子こそ徹の望んでいた女性であった。体力が回復していない徹が手を貸すまでもなく、奈保子はさっさと引っ越してきた。だれに遠慮もいらない二人だった。


 同衾はしたものの、ただそれだけが楽しく思えた。ふたりとも両手で相手を撫ぜさすった。奈保子はため息をもらした。嬉しい、幸せ、と呟いた。まるで何十年もが消えたような感覚でいた。

「私、いくつかの経験はあるんです。でも自分からこんなにささげる気持ちはなくて。相手のなにかがすぐに気に入らなくなって」

「きみはややこしい人なの」

「潔癖ではあるんですけど、そのせいで徹さん以外は受け付けないんじゃないかしら、今思うと」

「でもまだちゃんとしてないし、ぼくが出来るかどうか、わからないよ」

「どうなるかしら、私にもわからない。とりあえずはしっかり養生しましょうね」

「はいはい、先生」

奈保子は大きな笑みをみせて、徹の顔に顔を押し付けた。


 ほとんど体調が戻り、リハビリも順調だったので、ふたりで近所の神社に詣でた。それから双方の親の墓に詣でた。徹は次男の洋二に奈保子との結婚を告げた。

「ええっ、俺も結婚するんだよ」

 意外にも息子も同じことを考えていたのだった。それからふたつの婚姻届を出した。洋二のために、少し体裁を整えた式を質素にあげさせた。節子は来ないので、奈保子が母親役で参列した。洋二はちらちらと継母をみた。同棲してすでに長い花嫁よりも、奈保子の人物が気になるようだった。


 その夜、少し居眠りをしていた徹は奈保子が電話しているのにきづいた。

「というわけで、おかげで思いもかげず洋二さんまで幸せになって、有難いことですわ。背中を押していただいて本当に良かった。ええ、大丈夫です、体調万全ですとも」

「だれと話したの?」

「だれでしょ、キューピットよ」


 しっかりと徹の性器は機能するようだった。挿入するのに何の抵抗もなく、奈保子は小さく叫んだ。徹が動こうとすると止められた。

「しないで、これ以上よくしないで。このままでこの幸せで」

 動かないのに徹が高まってくる。

「出していいわよ、このままがいいの。これ以上よくしないで」     


          この項 了



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