第二章 「受容ホルモン」


第一話  二つの出会い


 ミュンヘン、カルルス広場の噴水際の石の上に、いつものように気楽な昼休みを過ごそうと、ローザは使い込まれてよくしなう薄茶の革バッグを置いた。

 オレンジをひとつ、並べてそっと置く。ダスターコートをするりと脱いだ。

そのとき香ったものが、体臭なのかジャニーンDの香りなのか、自分でももう区別できないくらいだ。どこのドロガリーでも買える安物の香水を変える理由もなくて、五、六年来使っている。

 大きな石はうっとりするような暖かさでローザの下半身を迎えた。ダスターコートを二つ折りにしてふわりと膝の上に重ね、何となく撫で回していた。


「アノ、スミマセンガ」

 やや不安定なアクセントで女の声がした。ローザは、少し遅れて隣の石に腰を下ろした気配の女の、チラリと目の隅に入った黒髪が、思い浮かんだままの瞳で、顔を向けた。


 るりは、大きく開かれた鳶色の窓に対峙した具合になって、思わぬ近さにたじろいだ。

「今、何時頃カ、教エテクダサイ。時計ハ持ッテイルノデスガ、電池ガ切レタラシイノデス。」


 ゆっくりした言い方の中に、どこか女が上の空なのをローザは感じた。が、ただ一瞬のことだった。自動的にトルコ系の険しい顔立ちを予想していたのが、反対の極のようなおうとつの少ない女の顔に出会った途端、記憶の遠い連鎖の先にあるその影響のようなものが呼び起こされたのだ。

 ローザの視線はせわしなくその顔のあちこちを飛び移った。


 るりには余裕はない。呑み込むように、ローザの全身を感得しようと瞳を全開させていた。この瞬間しか無いかも知れないのだ。するとロ−ラは頷きもせずに、薄オレンジ色のコットンらしいセーターの袖口を少しずらして腕時計に目を落とした。

 その膝の上のコートの、彼女のわら色の髪に似た色と、同じ色の眉と睫の張りを、るりは逃さず検分する。スナップ写真ではもっとぼんやりした印象だった、とわかる。


「十二時十五分です」

 そういう声と、唇の動かし方と、頬の線とは、今時珍しい飾り気の無さだ。

アリガトウ、とただこだまのように言って、るりは機械的に時計をいじった。そうしながらも間近に息づく大柄な体の量感を、確かなものとして感じようと息を詰めていた。


 ローザには女の年齢の見当はつかなかったが、上品で知的だと思った。眉は整えられ、唇には冴え冴えと深い紅が引いてある。訊いてみずにはいられなかった。

「日本の方でしょうか」

 るりは、思い惑っていた褐色の瞳を上げて力を込めた。

「ソウデスガ」

「やはり。こちらはもうどれくらいですか」

 るりはできるだけ屈託なさそうに少し考えるふりをしてから、口元を笑ませて言った。

「一年半クライデス」


 これが例の日本人の微笑なのかしら、とローザは思った。

「じゃ、ドイツ語はよくお分かりですわね」

 この人も、時には女らしいしなをつけた物言いをするんだな、とるりは胸をつかれた。

「ユックリ話シテモラッタラ、ワカリマス」


 ちょうど秋の薄雲が動いたらしく、陽光が一段と強さを増した。聞き慣れた路面電車のうなるような騒音がひとつ去って、軽快な車輪のリズムだけが遠ざ

かって行く。


 ローザはふと心地良さの中に引き込まれた。ああ、と胸一杯のため息がでた。

「気持ちのいい日射しだこと!」


 るりの耳が、びくっと突っ立った。心臓が特別な切なさで躍りあがった。


(ああ!だって。ああ!だって!あの声さえ聞こえなかったら、こんなきちが

い沙汰もせずにすんだのに。聞きたくない、聞こえないでくれと願っている、でも本当はいつも聞き耳を立てて待っている。叩きつぶしたいほどのこの自分。

何故こうでなきゃならないのだろう。

 毎日ではない、そのかわり昼でも夜でもお構いなしのあの声、あのときの声。

ステレオのロックのリズムが天井から響き始めたら、必ず間違いなしの、あのああ、ああ、が)


「そうじゃありません?」

 ローザは女の目を横からのぞいた。(何て考え深そうな目つき。日本人の女はこんな目で彼の心を捕まえたって訳かしら。ウーテは勿論電話をかけまくったとか。もう一人の年上の女さえも。わたしもかけずにはいられなかった。日本まで。

 あら、でももう、彼の顔ぼんやりとしか覚えていない。そしてその他のことも。そう、三年半、もう三年半経ったんだわ。あのころの私は、一体どうなっていたんだろう。さかりがついたみたいだった。あんなことはあれっきりで、二度と起こらない。彼の方から断ち切ってくれたおかげで。

 私のトーマスは、今も私の大事な人。)


「本当ニ」

 るりは、噴水のしぶき越しに空を見上げ、のろのろとやっと声を発した。


 ローザは咄嗟にはつながりが見つからず、女を見つめた。女は目を細めて、空を仰ぎ続けている。


「彼女は僕とセックスするためにだけ来たんだぜ」

 るりの目の前の青い空気の中に、アクセルの薄笑いが浮かび、たばこの吸いすぎでかすれて粗いその声が聞こえた。

「昼休みに飛んできた。割れ目の入ったパンティをはいてだぜ。仕事が終わると、またやって来て、何も言わずに抱きついてきた。買い物しなきゃ、とか言ってまた飛んで帰るってわけさ。毎日だぜ。生理の時も何もあるもんか、タンポン入れたままでやるんだ。そして、自分でも呆れている。ゆっくり話し合うことなんかないのさ、飛び込みセックスなんだから」


 るりははっきり覚えている。忘れることのできる言葉ではなかった。体中を欲望とそれが満たされない苦しみが満たした。

 天井からはこんな風にストレートな平手打ちを喰らっており、夫からはたえず顎にチョップを喰らっていた。さらに自ら望んでこんな風に脚元をすくわれに来たのだ。


「昼休ミデスカ」

「そう、息抜きには外でぼんやりするのが一番ですもの」

「ホントニ」

「日本語は字を覚えるのがとても大変なんですってね」


 女は、目を大きく見開いて見せ、先を促すかのようにローザをじっと見守っている。

「だから、私がいつ行っても、彼、カンジとやらと格闘していましたわ。あっ」

と、ローザは右手をひらひらさせて付け加えた。

「以前の恋人が日本学の学生だったので」

(もちろん、彼は勉強だけをしていたんじゃなくて、ちょくちょく飲みにも出かけていた。ウーテはいわば第一夫人だったし、それに、私にだってトーマスという存在があったわけだから、彼がウーテと出かける分には文句は言えなかった。でも、彼が一人で夜の町をほっつき歩いて別の女の子を引っ掛けようなんてしたときには、嫉妬を本当に押さえきれなかったものだわ)


(この人はもう二十七,八なのだろうが、彼が表したように、今でも毒のない顔をしていること。自意識の壁がない。自然な自分を自然に表してしまう。今この人が着ているぴったりしたタイトスカートも、女という性が自然に現れただけの

ことだ。だから嫌味が無く上品ですらある。

 お役所勤め、同棲中の男性も幼なじみの律儀で静かなタイプで、安定した長い結びつき。そんなこの人が、何度も繰り返すオーガズム毎に、抑えを失っていき、彼の手で口を塞がなくてはならない程になるんだって。ふん、何て嫌なんだろう。最後にその果てが自分でも怖くなって、助けて、と叫びつつ、高い峰を越えて空のかなたまで身をそらせて、長い長い放物線を描きながら飛び立っていく。

 彼の何かが、彼女のどこかに、深く深く触れてしまったのだ。彼の存在そのものが、彼女を発光させ、駆り立てていったのだろう。理由など無くて。

 何て嫌なんだろう。


 最初、私も彼も、上の住人は赤ん坊もちだなんで思っていた。時々、泣き声らしいのが聞こえていたからだ。ロック音楽で赤ん坊をあやすのかしら、と不審には思った。


 たしかにそれは、リズミカルに同じ叫びを短い間隔で果てしなく繰り返す、ごく小さな赤ん坊の泣き声だった。確かにそう聞こえた。しばらく耳を澄ませてみるが、変わり映えしないのでそのうち何かに紛れて、すっかり忘れてしまう。

 二,三週間たったある夜、しかし、私達はベッドに並んで横たわったまま、その泣き声の変化を追っていく羽目になったものだ。あれは、迫真のポルノだった。女は延々と声を放ち続けた。

 女の感じているものが、その波のような多様な変化のまま、手に取るように伝わった。切迫したり、長い長いため息となったりした。

 野太い声となったり、笛のような声になったりした。

 私達は身じろぎもせず、その中に浸っていた。聞き惚れていた。

 にもかかわらず、その声の質は言いようもなく不愉快なものだった。子供っぽいと同時に図々しい、生の声だった。実に嫌な声音だった。にもかかわらず、困ったことに、私の心臓は跳び出すほどに鼓動して、羨ましがっていた。同じものを感じたがっていた。


意識して息を静かに吸わなければならなかった。アクセルに気づかれたくなかった。彼の平静な声が響いた。

「赤ん坊なんかじゃない。やってる声だ。クスリを使っていないとすれば、どこかのきちがい女が、恥も外見もなく目一杯に演技しているんだろうな。呆れたもんだ。」

 それは濡れタオルのように私を惨めに打った。

「天井ガコンナニ薄イトハ思ワナカッタ」

 私は無理に、観察者らしく言った。

「天井は十分分厚いさ。そんな女がいるもんさ。人に聞かれて喜ぶ手合いだろう。大げさに叫んでいるだけだ」

 それにしては余りに微妙に変化する、と思ったが黙っていた。

 驚いたことにアクセルはやがて眠ってしまった。男の呻き声も交ざり始めると、程なく静かになった。足音が天井でかすかにしたと思った。ステレオが聞こえなくなった。

 私は眠れそうもなかった。耳が、いつまでも鮮やかに聞いていた。私は欲情に占領されていた。逃れられなかった。そして自分が恥ずかしかった。

 しかし恥や誇りがどうなっていようといまいと、見ず知らず声の主を、話に聞いたローザの姿に重ねて想像の限りを尽くさないわけにはいかなかった。為すすべもなくさらされていた。ホルモンが脳神経のシステムを支配し、とっくに刺激と反応のコントロールが決定されていた。しかし今は私という個人にとっては屈辱と怒りと絶望と欲情の、それは監獄だった。


 アクセルはいびきさえかいていた。私は浴室に立って行くしかなかった。小さな喜びを自分に与えに。無理もない、とその後で自分を容認し始めた)


「ここでの生活は気に入っていますか」

 ふと思いついて、ローザは尋ねた。


 お馴染みの質問ではあったが、闇から日なたへ突き飛ばされたるりは、一瞬、理解し損なったと思った。間が空いた。

「あら、ごめんなさい、うんざりでしょう、この質問には」

 素直に自分に笑いかける相手に、るりも苦笑を返してかぶりを振った。

「オオムネ。タダ、我慢シテルト損ヲスルバカリ、トイウ事アリマスネ。日本人ノ美徳ガ通ジナイ、トイウカ」


(確かに彼に律されてしまっている。お金になる急ぎの翻訳の仕事がある。真夜中まで二人で取り組む。ある程度かたがつくと、私は寝に行くことを許される。

彼はなお三、四時間も推敲やタイプやらで起きている。明け方、ベッドに倒れ込んでくる。もう三ヶ月もそんな日が続いている。五回以上なかったろう、その間に。そして、二、三日おきにあの声を聞くという寸法だ。彼は仕事にいれ込んだときの常で、気づかないのがほとんど。気づいても、またやってるな、と呆れるだけだ。


 聖人よ! 私だけがやられてしまう。耳をふさぐことは出来ない。それどころか、彼が話し掛けたりしてよく聞こえないと怒鳴りつけたくすらなる。静かな

夜にもその幻の声を聞くほどに私の中に棲みついてしまった。

 そのあげくが、こんな脈絡のない行動だ。探索と発見と成功。この人を見ること。自分に欠けているものをかって持った彼女と同化すること、それを望んだのか?馬鹿げてる! どうかしてる!)



(すぐに彼のことを思いだしてしまう。何てことでしょう、今日は。

 昼休みに、雨降りの日だけ行っていた小さなカフェテリアでアクセルを初めて見た。トーマスは三日間の予定で出張だった。彼がいないからといって、私の生活に変化は起こらない。彼の留守を利用して求めるような自由を必要としていなかったから。

 昼食をアプフェルクーヘンとコーヒーで済ませ、私は椅子に凭れていた時。)


 店内はかすかな人声で充たされていた。外の雨の気配が、中の空気をいつもより濃くしているようにローザには思われた。そのせいで身体の輪郭が少し凝縮されたかのように、妙に明瞭に自分の存在が感じられた。空気と皮膚の無数の接点の描き出す身体の線と、その内側を充たしているある重さとを感じ続けた。何も考えていなかった。

 その重さは、単に彼女の存在の重さであって、何らかの感情とか、意識や想念や願望とかの人間的な認識の産物は外側に押し出されていた。


 ローザはこの無心の状態が好きだった。その後では自分のことも、他人のことの、より愛しく想われた。自分がそんなとき、かすかに柔らかにほほえんでいることをローザは感じるともなく知っていて、理由のない無償の幸せを味わった。


 ローザの輪郭を充たしている灰色の無の画面に、突然、黒い雨傘が浮き出た。傘が閉じられた。

 若い男の横顔が、雨傘の滴を追ってうつむいていた。こちらに顔を向けた。

 黒い髪、黒い目と眉、黒いダスター。

 顔と手の白さだけが操り人形めいて動いた。

 長い指をした、大きな手だ。

 白と黒の男は、ぐんぐん近づいてきた。ローザの前の一つ空いた席で止まった。


 会釈も忘れたらしく、あっという間に腰を下ろした。黒いバッグから書類を出してすぐに書き込み始めた。中肉中背に比して小さめの顔は前髪に隠され、睫の先と鋭い鼻先だけが見えた。指の爪は細く長い。ウェイターが来て注文を尋ねた。男の顔がまた現れた。寄せられていた眉が額につり上げられた。

 薄青いひげ剃りあとの中の唇が少し笑って、コーヒーと言った。薄赤い、一本割れ目のついた、やや厚めの唇。白と黒と一点赤の男は、さらに忙しく書き込み続ける。ローザは男を映し続けた。

 次第に、彼女の身体の濃い線がゆるみだした。

 少しずつ、認識と感情が動き始める。神経質のイライラだわ、とローザは思った。


 一方で別の感じが、ローザの中で言葉になりかけた。その時意外な素早さで、金髪青眼肉色の大きな男の姿が立ち現れた。トーマスだった。ローザは画面の中のその姿を見つめた。

 幾秒だったのか、気がつくと男の視線がそこにある。わずかなためらいの後、二つの微笑が交わされた。



第二話  混線


 ローザは、大気とその下の町全体を充たしている、さざ波のような輝きをふりあおいだ。それはトーマスの全身を覆っている金色のうぶ毛を連想させた。暖かく、理解があり、父性的でありながら、いつまでも少年のような笑い声を持っている。


(私達の関係は極めてヒューマンだわ。それはたしか。そしてアクセルと私との関係はただ一つの面だけで成り立っていた。それはそれで純粋な美しさだったのに。時々、彼が何か喋ったりすると、何だか私はまるでついていけなくなった。鋭すぎた。彼のペシミズムや批判や、感情の激しさや神経質な繊細さやが。

 私は耳を塞ぐ代わりに、彼の唇にとびついたものだった。一緒に暮らすことはとてもできそうになかったから、それをはっきり言うべきだと思った。

 だからそう言った、はっきりと。

 でも言ったことが彼の神経にさわった。どちらに決めるかなどと尋ねもしないのに、一方的に宣言するなんて侮辱的だって。


 それが発端。それから出会いのたびに段々ややこしくなっていったのだわ。どうしていいかわからなくなって、しばらく会わないことにした。この気持ちがただの性的な興味にすぎないのか、それとも愛なのか考えてみたい、確かめなくてはならないって、私の方から言った。でも考えることなんかできなかった。


 頭も、身体も、感情もともかく彼で埋まっていた。私などどこにもいなかった。

 ト−マスがあの頃とても多忙だったのはただの偶然ではなかったと、ずっと後になって私はうかつにも思い至った。時々花を買ってくれたっけ。ご機嫌いかが、マドモワゼル、とおどけて言った。

 そして結局、アクセルを愛している、ということになった。彼を食べて呑み込んでしまいたかった。それを他に何と名付けられただろう。それにまた、彼との関係を続けるためにはそう確信する必要もあったのだろう。


 でも、彼の方で嫌気がさしていたのだったわ、もうその時には。三人目の女までできていて)


 恋人が三人になってしまったころのゴタゴタについて、るりはアクセル自身から話を聞いていた。アクセルにはおよそ自分を隠せないところがあった。女関係のすったもんだも詳しく語って聞かせた。そのたび毎にるりは絶対に消えない傷を負わされた。嫉妬し、打ちのめされながらも、しかし一言も聞き逃すまいとして、かみそりのような視線を、伏せた瞼の下に秘めていた。


 アクセルは次第に自分のしていることの馬鹿らしさに耐え難くなっていた。最初の恋人二人から、続けて手痛い仕打ちをされて以来、女全般への復讐心が根本にあるのは知っていた。真剣な心の傾倒などというへまなことにならないよう、自分をコントロールしていた。

 女の子を引っかけたり、捨てたりするときには、良心に対し意識的に、これは復讐だと言い聞かせた。


 ウーテは、わざわざ好みでないタイプだから選んだ。ところが、何としても結婚まで持ち込もうとするウーテの執着は凄まじかった。アクセルは何度か、わざをけんかをふっかけて関係を絶とうと試みた。が、そのたびに、ウーテが余りにもへりくだって謝るので、それを受け入れざるを得なかった。


 ローザとは、そのままうまくつきあえたかもしれなかった。飾り気が無くセクシーで、しかもセンスがあった。しかし他の男の存在は理屈抜きに気に入らない。かと言ってローザがはっきりトーマスとは別れないと言っている以上、それを押し切ろうとするほどの馬鹿ではないつもりだった。


 ある日、一人で車で家を出た。週末が始まろうとするのんきな午後である。

 悪友のヘルマン、アントンの二人と待ち合わせていた英国公園のビヤガーデンで、彼らがもう二人の女をテーブルに引き込んでいるのを見て、アクセルは皮肉に肩をすくめた。女たちは十歳は年上かと見えた。


 マリアンネというのが、色白の豊満なタイプで、もう一方のよく日に焼いたやせ形の褐色の肌のブリュネットは、スザンネといった。性格も対照的で、マリアンネは開けっぴろげでよく笑い、スザンネはとりつきにくい感じだった。特に細身のたばこをくゆらしながら、深い緑色の目でじっと人を見据えるときが、

自分と世の中を知り尽くした大人の女そのものだった。


 三、四時間が、特にどうということもなく過ぎた。若い男三人の間で、話題毎に議論が白熱する以外は、女たちの仕事先の人物評を面白く聞いたほどのことで終わり、誰かが誰かに惚れたと言った気配はなかった。


 アントンがマリアンネを、アクセルがスザンネを車で送って行く間に、ヘルマンは用事をひとつ済ませ、3人でまた行きつけの店で会うことを約して、まだ日の高い夏時間の六時頃解散となった。

 スザンネとは余り喋りもしなかったアクセルは、ごく神妙に運転して彼女のまいについた。途中、離婚して六才の男の子と暮らしている、と突然スザンネが言った。アクセルは冗談半分に、

「扶養料はちゃんと貰っているの」

と尋ねた。

「そんなもの要らないわ。自分の生きる分くらい自分で稼ぐわ。子供の養育費だけよ」

 鬱蒼と夏葉の生い茂るカスタニアの並木道に面した、あっさりしたハウスだった。わりにしゃれた手すりの階段が入り口についている。


その前で、アクセルがエンジンをかけっぱなしのまま待っているのに、スザンネはなかなか車から降りなかった。

「コーヒーでもいかが」

 アクセルは不意をつかれて、横の女を見た。スザンネはそっぽを向いていた。車の少ない静かな通りである。


 そのまま三日間、アクセルはそこにとどまった。スザンネは年下の男への突然の執着を率直に自分に認めた。アクセルの女関係を聞いても、無い方が不思議だわ、と言ったのみだった。

 アクセルの方はかなりはっきり計算をしていた。これで、ウーテともローザとも切れるだろう、と。アクセルは電話で、ウーテには第二の女ができたこと、ローザには第三の女ができたことを伝え、双方に対し、付き合いを断つと宣言した。


 アクセルはひどく自由を感じた。スザンネとは元々一時の関係のつもりだった。

 しかし、そう簡単には行かなかった。


 アクセルが自宅に帰るやいなや、まず飛んできたのはローザだった。

「愛しているわ、私、あなたを!愛しているのが分かったの、セックスに惑わされていたのよ!」

 ローザの言う発見にアクセルは一瞬当惑して、突っ立っていた。


 その隙にローザは両腕をアクセルの首に回し、ジャニーンDの香りで彼を包み、すぐ誘惑にかかった。瞳を潤ませ、愛しさを込めてアクセルの顔中に接吻しながら、同時に喘ぎ始めていた。


 その時、チャイムが鳴った。待って、母が帰ってきたのかも、とアクセルは口ごもって言いつつ、これを幸いとローザの腕から逃れ出た。母親なら鍵で入ってくる。

 そしてふと、ある予感がした。ドアののぞき穴から、案の定ウーテの水色の瞳が見えた。何たることだ、めちゃくちゃだ! アクセルは思わず額を押さえた。


 忍び足で自室まで取って返し、放心状態のローザを奥の客室に引っ張っていった。母親が留守だったのは今となっては不幸中の幸いだった。

「ちょっとここで待っててくれ。ゼミの仲間が来た。少し話があるから」

 ローザの反応は見ずに、後ろ手で客室のドアをきちんと閉める。


 ウーテはもうほとんど泣きじゃくっていた。ドア口で追い返すことなどできそうにない。喋る暇を与えぬよう、急いで自分の部屋まで彼女のヒクヒクしている薄い背中を押していった。

 客室と自室とは二つのドアで仕切られているが、他の女の気配なりとも二人がお互いに感じないとはいえなかった。


 アクセルはウーテの泣き顔を見、哀訴する声を聞いて、心底ため息が出た。自分に対しても二人に対しても腹が立った。

「アクセル、私を捨てないで。お願い、お願いだから、私をまたひとりぽっちにしないで。これまでの恋人たちのように私を捨てないでちょうだい。両親すら私を欲しくなかったのよ。もう耐えられない、人から疎まれることには」

 やせた肩の中に深くうなだれて、ウーテはすすり泣いた。

(誰であろうと、結婚する気なんか俺にはないんだ)


 アクセルが説得にかかろうと身を屈めた時、ウーテがその唯一の美点である黒い睫を涙できらめかせながら、目を上げた。

「分かってる、私がうるさすぎたんでしょう。もう焼き餅なんか焼かない、あなたのお母さんのことを嫌いだなんて言わない、結婚も口にしない、それに、それに、その別の女だっていて構わない。だから私を捨てないで。嫌われないようにどんなことでもするわ。だから!」

 ウーテは意外な強さで彼の手をつかんだ。

「行きましょ、私の部屋にすぐ来て、ね!今すぐに」

 アクセルの母親の留守を知ってか知らずか、ウーテは一刻も時間を失いたくないという風に、もうバッグをかかえた。アクセルにはウーテの意図はよく分かっていた。しかし今はウーテを何とか帰さなくてはならない。


 後でアクセルは思い返した、このときに至ってもまだ、ローザとウーテの鉢合わせを避けようとしたのはいかにも矛盾だった。この顛末をるりに物語っていたとき彼はそれを事態の混乱のせいにしたので、るりは自分を押さえきれずに、つい日本語でブツブツ言った。


「何だい、もっとはっきり言えよ」

「ツマリ、アナタハ、ツマリ余リ真剣ニ別レルツモリハナ無カッタノダ、セイゼイ半分グライシカ」

「そうかもしれんさ」

とアクセルは珍しくるりの言葉を否定しなかった。


「だが、少なくとも一人に絞りたかったのは事実だ。つまり、ゼロにすればまた一から探すのも面倒だという意味で」

 そこまで率直に言われたるりは、流し目をしてアクセルを見たきり何も言えないでいた。


「よし、仕方ない、ともかく行くよ。しかし今はだめだ、急ぎの下調べがある。夕方行くから待っててくれ。その上で話をしよう」

「本当に来てくれるの、本当ね」

「約束したら破らないだろう、俺はいつも」

「本当ね」

「うるさいな」

「ごめんなさい、じゃ、待っているわ。おいしいものを作っておくわね」


 ウーテが出て行くまで結局十分はかかっただろう。息を整えながら、そっとアクセルは客室をのぞきに言った。ロ−ラのなだらかな背中が、しんとして見えた。ドアを閉める音で、ローザはびっくとして振り向いた。涙が大きな筋をなして頬に光っていた。

「アクセル!」

 ローザは立ち上がり、アクセルに両腕をさしのべた。涙はまさに滝のように鳶色の瞳を浸し、溢れて流れ落ちた。

「愛しい人、私の大切な人!」

 窓からの光を背に受けて、ローザの柔らかな体の線がニットのワンピースを透かして浮き上がって見えた。

 少しおそれるように、彼女はアクセルの首に手を回した。


「止めてくれ、ローザ」

 しかしアクセルの声は弱かった。ローザは次第次第に腕に力を込め、全身をアクセルに隙間無く押しつけ始めた。泣いているために、身体全体が波打っていた。波打つたびにいよいよ強く密着してきた。アクセルがしまったと思ったときには、彼の手は、ローザの腰に当たってしまっていた。誘うようななめらかな肌をもう手は感じていた。


 アクセルは自分の上にあったローザのぐったりした身体をベッドに落とした。ローザは顔を濡れた髪の中に埋めたまま深い息をはき続けている。アクセルの耳には彼女の高い叫び声が、こだまのように残っていた。それを振り落とすようにローザを肘でこづいた。

「リーブリング、リーブリング」

 ローザは何度も言い続けた。


 本質的には同じことがウーテの部屋でもその晩繰り返された。スズラン型の小さなランプが枕元でかすかに耳障りな音を立てていた。目を閉じると、瞼の裏に入り込んでくる光が彼をイライラさせた。そのままでじっと横たわっていた。


 スザンネはその間に、アクセルが連絡しないので、何度も自宅に電話をかけてきていた。


 翌日の午後遅く帰ったアクセルに母親が、淫売屋じゃなんだからね、いい加減におし、とかみついた。

「ママたちと違ってどうも俺は運が悪くてね。当分落ち着く見込みはないよ。ともかくスザンネと話をつけに行って来る」


「これで終わりにするのは余りに惜しいの。もう少し人間同士の深い付き合いに持っていけるような気がしているの。あなたのことをもっと知りたい、私のことももっと知って欲しい、そう思っているの」


 スザンネは、目を伏せたまま低い声で言った。視線の先にアクセルの手があった。スザンネは肉の薄い日焼けした色の手で、アクセルの美しく白い長い指に触れた。

「変ね、こんなに色が違う」

 スザンネは深い声音で、短く笑った。困惑したアクセルの目が壁の書棚をさまよった。数冊の心理学のタイトルが注意を引いた。

「あ、この本あったかな」

そう言って立ち上がったときには、アクセルのいつもの癖で、もうその本のことしか考えていなかった。ユングの文字に手を伸ばしながら、

「これを読みたいと思っていたんだ」

 スザンネが椅子から立ち上がってきた。

「ほらね、私達はまだ話すことがあるでしょう」


 二人は自然にソファまで歩いていき、並んでそこに身を沈めた。

両方からのぞき込んで、同じページを読み進み、思いついたことを時々喋り合った。数刻して、

「暗いな」

と、アクセルが窓の方へ目を上げようとした時、スザンネの、逆光のためにシルエットだけになった顔の、緑色の双眸が間近で光っていた。

 それ程近く座っているとは知らなかった。スザンネは少し首を傾げて、

「さあ」

と、口ごもるように言ってほほえんだ。

 スザンネは最後に一声、しかもアクセルが達したのを見届けた瞬間に、鋭く叫ぶ以外はほとんど声を立てない。アクセルの方が時には声高になる。彼女はアクセルを楽しませることにより熱中するようだった。


「どう、これも悪くないわね。心理学を読むのと同じくらい」

アクセルの手を撫でながら彼女は言い、素早く白い手に接吻した。が、再び唇を付けると、そのまま唇も舌も一点の隙間無く密着させて、美味なものでも食べるように、いつまでも感触を楽しんでいた。

 まるで女になったようだ、とアクセルは内心妙な気がした。二人の身体は、その接触点を中心にして、内側から蠕動し始めた。


 瞼の裏がほの明るんでいた。アクセルは何時頃かな、と思った。スザンネの傍らにいることがゆっくり意識にのぼった。自分に裏切られた失望感と、それへの諦めの交ざった苦い気持ちが浮かんだ。


 突然、ドアがガタッと開く音がし、小さな固まりがベッドに躍りあがった。

思わず大声を上げて身を縮めたアクセルの上に、得意満面に真っ赤な頬をした少年が乗っている。

「アア、マックスったら、それは止めてっていつも言ってるでしょう」

 スザンネはすまなさそうに眉を寄せてアクセルを見た。


 手早く朝食が並んで、アクセルは帰りそびれた。少年が絶えずアクセルの注意を引こうとしているのがかなり神経にさわった。金曜日の夜にまた会う約束に、出きるだけ急いでオ−ケイしてドアを閉めた。

 生物としての目的を果たしたはずなのに、とアクセルは影のようにゆらゆらと歩きながら、自分の中の不満足感を鼻で笑った。





第三話  ローザの別れ


「ジャア、オ姑サンヲスッカリ失望サセタッテワケ」

 るりはまた皮肉な流し目をして言った。女たちについては触れるのを避けていた。

「あの頃はまだましな方だったよ。勉強もしていたからね。その前は、手当たり次第、毎晩違う女の子さ。短い関係が次々と続いた」


「ドウシテ、ナゼソンナコトバカリシタノカ。新シイ子ダト、ヤハリ新鮮ナノダロウカ」

「それはそうさ。僕だって人生を楽しみたいわけだし。しかしやがて疑問は起こるもんだね。ある夜、組み敷いてる相手が誰だかわからなくなった、参ったなあ、途中で止めてしまった。それからはさすがに自粛したね」

 るりはアクセルが気楽そうに寝転んでいる真紅のダブルベッドを眺めやった。


「なんだい、このベッドが気に食わなくなったのかい」

「ソンナコトハナイ」

「確かにこれは二回目の婚約のときに親に買ってもらったものだから、気にくわないとは思うけどね、買い替えるにはまだもったいないし。それにいつも言うように、あの婚約は本気じゃなかったんだよ」

「ワカッテル、オ金ハナイシ」

「そうだよ、お利口さん」

 アクセルはわざわざ起き上がってるりの頬に口をつけた。るりは急いで微笑み、目を伏せた。地模様のバラの花が確かにまだまだ美しく浮き出ている、その深紅のベッド地には無数のしみと、タバコの焼け焦げの穴がひとつあった。


 その後、三人の女たちとは並行して続いた。


 ウーテは花嫁衣裳の並べてあるショウウインドウや結婚指輪にあいかわらず興味を示した。

 ローザは、いわば第二夫人を自認する度合いがひどくなった。ある夜、飲み屋でヘルマンと一緒のところをローザとばったり出くわした。彼を認めるや、ローザは優しい眉を逆立てて、店から出ていった。


 アクセルはるりにそう語りながら、愉快そうに笑った。

「面白イ、ソレデ第三夫人ハドウナッタ」

と、るりは黒いたわわな髪をちょっと気取ってゆすって見せた。


 スザンネはやや積極的になった。友人間にアクセルを紹介したがった。苦手な日光浴に誘われて、アクセルがやっと昼もずいぶん過ぎた頃に、イザール川の野原に行ったことがあった。すでに彼も顔見知りの知人二人と並んで、スザンネはトップレスで甲羅干しをしている。その壮観な眺めまであと十メートルということろへ、アクセルがサングラスに隠れるようにして歩いていったとき、

「パピィ」

と子供の声がした。マックスだと思った瞬間、

「パピィ、パピィ」

 少しわざとらしく叫びながらはたして跳びついて来た。


「まったく。まるでああするように言い聞かせてあったみたいだった」

「彼女モ結婚シタカッタノカモ」


「まさかと思うけど。結婚すると男女関係の一番味わい深いところが失われるって、いつも彼女は言っていたからね。それに、自活できる女なら、自分の生活を自分で決定できる自由を絶対手放すべきじゃないって言うのが持論だったから」

「確カニソウダ」

「そうか、るりも本来は結婚はこりごり派だったな」

「デモ、ドウシテ男ノ人モワザワザ結婚シテ不自由ニナリタイノカ。ア、ソウカ、彼ラハ結婚ニヨッテモ決定ノ自由ヲ失ワナイバカリカ、家政婦ヲ安ク雇ッタコトニナルノダ」


「日本人の亭主族のことだろう、とくにるりの前夫のこと」

「マア、ソウ思ッテモラッテモイイ、トコロデ、私ニハ決定ノ自由ガアルワケ?」

「半分はあるさ。僕が半分。何でも話し合って決める、人生を分け合う。それが結婚の意義だ」

「理屈トシテワソウダ。シカシ誰ノ意見ガ正シイノカ、ソレヲ誰ガ決メルノカ」


 アクセルがじろりと見た。議論を吹っかけてくる気だ、とるりも身構えた。

「るりがね、不自由をかこっているのは知ってるさ。でも構わないさ。僕だって自分勝手なことは何一つしない、模範亭主なんだから。そうだろう」

「フン、ソレモ認メルケド」

「それにいつでもセックスパートナーがいるってのも結婚の利点さ」

「アラッ」


 いきなりるりはベッドに倒れた。アクセルが頭を不意につっついたのだ。

「何をそう驚いてるんだい」

「ダッテ、ドア、ドア、開イテイル」

「誰もいないぜ、ちょうど」目の前にアクセルの顔が大きく映った。優し

い目の線を美しいと思った。


 そんな嬉しい眺めは、もう一年も前のことだったろうか。まだ楽しいと言えた頃の事だ。結婚生活とはつまるところ、人生を生き抜いて行くための、荒波を二人でひっかぶって進む二人三脚なのだから、とアクセルは言った。

 市役所での結婚の宣誓を言葉通りに受け取っている、珍しく批判的でないのが妙にバカらしかった。


 お互いが相手にかぶる荒波そのものだったらどうするの?生きてるのってアホらし。そのとき、るりはたくさんの社会的策略の網の目をを感知したようだった。


 風に吹かれて、光っては消え、彩に輝いては消えする噴水の水滴のような、アクセルの女たちのさまざまな瞳色が、ただの噴水の色へと、色あせた。


 るりはフンと小さく鼻をならした。

 ローザはオレンジをむいていた。指先が黄色に染まっている。イタリアかイスラエルでとれたオレンジの、強い芳香が漂う。勢いよく半分に割る。鮮や

かな朱色の半分がるりの前に差し出された。

 ためらいもせずにるりは手を伸ばした。

「アリガトウ、トテモイイニオイ」

と、るりがローザを見ると、ローザはオレンジにそのままかじりついていた。口中に広がる自然の恵みを余さず享受するかのように、ローザのまぶたは半ば閉じられ、フーンと、長い讃嘆の声がもれた。


「私、とてものどが乾いていましたの」

 口の周りの黄色い汁をぬぐいながら、満足して口を開けて笑う。目じりにしわが寄った。るりもオレンジにかじりついた。同じように、フーンと長く嘆声を発した。バカみたい、と一方で思っていた。オレンジはそうおいしくもなかった。

最後の一房を含もうと口を開いたとき、るりはもう恥ずかしさにいたたまれなくなっていた。


(そうよ、あなたの思い、私の思い。きちがいみたいに羨ましがったってどうすることもできやしない。それが結論。私は私、ほかの私にはなれやしない)

 急いで飲み下すと

「私行キマス、サヨナラ」


 するとローザはおおむ返しにさようならを言ったが、その瞳はどこか深みをさまよっているらしい無表情さを見せていた。るりはくるっと回った。


(アクセルが日本に去るまでの日々は、またそれまでとは違った狂気に充たされていたのだった。今だけ、今だけ思い出すことにしよう。

 私は可能な限り、彼の部屋に走り込んでいった。彼の身体にぴったり身を寄せると、触れているすべての部分から優しい波が涌き出てきたわ。ひたひたと浸されていく。彼の指の軽い動きに、髪の毛の一本一本までもが生気を取り戻す。


 彼の触れていく背中が、びりびりと震え出す。全身に生じた波が、やがて、

いくつかの点へと沸き立ちながら押し寄せ始め、熱く集中していく。するともう、空気が足らなく思える。燃えるための酸素を声とともに吸い、荒く長く吐息する。ひと息毎に波に乗って、ますます高く翔けていく。私にだけわかるある点まで達すると、そこは熱砂のようでもあり、砂糖壷の中のようでもあった。


 私はその中で踊りつづけ、素晴らしいわ、素晴らしいわ、幸せよ、幸せよ、と訴えつづけるしかない。同時に、愛しいと思う気持ちが、確信を持って、ハンマーのように悦びを強める。私は叩かれる、いくどもいくども叩かれる。ただ紅の存在となる。


 会わないでいる間の、スザンネへの嫉妬、東洋に去った彼が会うであろう、見も知らぬ女たちへの嫉妬! あの頃、私はすっかりやつれてしまった。結局はトーマスとのいさかい、すまないとも思う、自己嫌悪、自分への絶望。


 アクセルは辟易していたのだわ。肉体が誘惑に応えてしまうのにいつも腹を立てていたし、関係を断つことができないでいる自分が馬鹿みたいに思えたのだろう。

 出発の日をアクセルは私たちの誰にも教えなかった。ある日彼は消えた。私の世界から。

 手紙は書いた。案の定返事はなかった。三度出して、それで私は諦め始めた。

彼とは別れたほうが身のためだ、と言い聞かせたわ。喜びが減った分、苦しみも減って。執着が薄れるにつれ、私の身体を染めていた紅蓮の色も失せていき、ありがたいことに静かな基本色に落ち着いてくれた。


 ときどきの、それぞれの、淡色の喜びの色が映っていくのにゆだねられるようになって、私は元のローザに戻ったのだわ。そういうことだったのだわ)


 るりは、ケーニクスプラッツで危うく地下鉄から降りそこねるところだった。地上へとエスカレーターで運ばれる間、みるみる広がっていく空に、カルル通りの左右の建物が竹の子の育ってくるかのようにニョキニョキと全身を現してくる。一瞬気を取られた。面白い錯覚だ、原因と結果が逆。


(まあ、ともかく無事に帰れそうだ、アクセルはまだアルバイトから帰っていないはずだ。でもなんと言おう。何をして過ごしていた、ときっと尋ねるだろうから。イヤだな。

 愛? 監視だ。私は彼の領土の一部だから、保護もするが管理もするって具合。前の夫の無関心も行き過ぎだったけど。


 あの頃、アクセルは振り回されるのにうんざりして、女たちの餌食になったようにまで思って、つてのあったのを幸い、父の勤める大学にドイツ語の外人講師として日本に渡ってきた。私たちを引き合わせたのは当時主任だった父自身だったから、思いもよらぬことだったとはいえ、その日のことを父はずいぶん呪ったのだろう)


 アクセルは、初めてひとりの女性に真剣な思いを寄せている自分に気づいて慌てた。しかも既婚の、主任教授の娘がその対象となったのは運命の悪意のように思えた。二、三度、市の名所めぐりに付き合ってくれた。会話の練習台にされている、という感じだった。会話のテーマとしてさまざまなことを話した。彼女には一見知的に勝って冷たいところがあり、もともとアクセルには近づきにくい立場だったのに、意外に世間知らずな優しさが本質だった。その間隙に、何か深いものが隠されているようにアクセルには思われた。そう思いたかったとき、アクセルの恋が始まったのだ。彼女のありふれた悩みを聞いても、人間としての彼女に近づく喜びを感じた。


「一年近くもグズグズしたあげく、まったく、一年もだぜ、僕は決意した。運命を自分の望むままに作ってやるって。困難と不利益は覚悟の上さ。君の全存在を、君の生活、君の夢も、自分のものにしてしまうことを誓った。


 勿論君次第だがね。いや、ちがうか、君の意志すらも僕の欲するとおりにしてしまおうと決心した。だってそれは必要だったじゃないか。君は恐ろしくためらい、抵抗し、心配した。僕は執拗に説得しつづけた、そしてついにもう後戻りできないところまで、君を僕に引きつけた。

 僕たちは戦った。傷だらけになったが、日本から逃れ出ることですべてのしがらみから自由になった。るり、さもなければ、君は今でもあの孤独な結婚生活を続けていただろうよ」


(どちらがましだったのか。自分がこんなにも嫌悪すべき存在だってことをここまでわからされてしまったからには。比較なんかするものじゃないけど)


 ただ、今も惨めだなあ、とるりはつぶやいた。そろそろ昼休みに入る居酒屋の戸口に、所在なげに立っていた男が自分を眺め回しているのがわかった。何を想像しているのか知れている。るりの悩みが男にわかったら男はどうするだろう。そう思ってしまってから、るりは舌打ちした。

(自分の始末くらい自分でつけなさいな、るり、みっともない!)




第四話  倒錯


 カルル通り三十五番の建物に帰り着く。エレベーターが閉まる直前に、若い娘が走り込んできた。るりが四階のボタンを押す。娘のほとんど黒っぽいマニュキアの指が五階を押した。確か一.二度見かけたと思った。


 溢れるほどの漆黒の髪が、縮れながら肩を厚くおおっている。眉も睫もうっとおしいほど濃く密生している。不思議なほどに細い鼻梁、大きな、しかも切れ長な目の真っ黒な瞳、ドイツ人でないのは確かである。まだ十七,八かと見えた。


 娘はエレベーターが上がり出すと、ひどく冷たい視線を一瞬るりに向けた。るりも凝視せずにいられなかった。この娘か。この娘があの声の主か。娘はすだれのような睫を上げて、またるりを見た。怒っているような感じがした。憎しみとすら受け取れた。


「サヨウナラ」

 慣習通りに、出るときに言った。返事はない。

 るりが左に折れて、十歩ほど歩く間、エレベーターはたちまち五階につき、娘の足音がるりの立っている入り口の真上で止まった。るりは鍵を開けた。上でチャイムのなる音がした。ドアを閉めたとき、るりは自分の心の重さによろめいた。


 ローザの存在、それにあの娘の存在に触れた衝撃は、泥沼に投げ入れられた意地悪なつぶてとなって、どっぷりと波打つ自己嫌悪の輪が広がった。恥の上塗りだった。一人相撲の敗北の渦にさらに巻き込まれ続けるだろう自分を思って、るりは呻いた。

(でもどうしてあの娘が私を睨む必要があるのだろう)

 自分が、下から彼女の喜びに関与している厚かましさに対するものかもしれないような気がした。


 その若い男を初めて見たのは、次の日、ごみのポリ袋を下のコンテナまで持っていった帰り、自室のドアを開けて中に入ろうとした時だった。


 顔の回りを、ライオンのたてがみを思わせるブロンドの巻き毛が包んでいた。巻き毛と言うより、汚れた金羊毛に近かった。学生らしい構わなさでよれよれのリュックを背負い、ちょうど階段を降りて来たらしく廊下をこちらへ歩いていた。キリストの絵に似た、非の打ち所のない顔立ちだった。燃えるように青い瞳だ。

 もうひとつの足音が階段を降りてくる。繁茂した黒髪が目に入った。るりの心臓がコトコト鳴り出した。いつもに比べ、ゆっくり動いているだけの違いはあったが、るりは確実に部屋に入り、ドアを閉めつつあった。娘が若者に何か呼びかけた。若者は無愛想に答えた。フランス語らしかった。ドアののぞき穴いっぱいに娘の後ろ姿があった。


 その日から、るりはひどくきれい好きになった。少しのゴミでも、下まで運んでいった。いい歳をして、と思いつつも駆り立てるものに抗えなかった。それは恋心に似ていた。その窓の粗雑そうな白いカーテンを下から見つめた。


 上の住居はいわゆる共同住宅で、主に学生たちが一部屋ずつ借りているという。従ってあのペアが例の声の主だとは決まっていない。現に他の顔も時々るりは見かけている。しかし何かがるりを確信させた。

 二度、若者が自転車で出かけるのを台所の窓から見送った。娘はしばらく来ないようだった。るりは、自分を苦しめ、惨めにする声を待ちくたびれるほどに待った。


 二週間ほどして、引っ越しが二、三件重なってあったらしく、中庭に古い家具が山のように捨てられてあった。その翌日、彼らももういないのを、カーテンと自転車が消えたことからるりは知った。階下の三階にも転出者があったようだった。


 そのころから、アクセルは「子作り」を始めた。卒業の目途がついたからである。他愛も無くるりは屈託を忘れた。すべてを忘れたわけではなかった。


 屈折したように見えるが実はこの上もなく自明なこの感覚と感情の、原因である女性ホルモンの重たい存在、その強力な力を、人間の現実として冷静に受け入れることは出来る。しかし反面、その力の吸引力の抗いがたさが、やりきれなかった。


 数週間が過ぎた。上の階に子供の足音が聞こえだした。本物の子どもだ。るり達の住居の真下に当たる三階にも、新しく若い夫婦が越してきた、と姑が言った。


 翌日の夜遅く、るりとアクセルのベッドの真上で、久しぶりに音楽ががなり立て始めた。ラジオの音楽らしくお喋りが入る。女の叫びなど交ざっていない、がっかりなどしていない、今はほっとしている自分にるりは安堵し、それで少し誇らしい気さえした。


 が、アクセルは、

「十五分だ、十五分待ってそれでも止めなかったら、上に怒鳴り込んでやる」

「子供ガイルトイウノニ、オカシナ人タチ」

「いいかい、僕がかけあう間、注意しておけよ、急にラジオを消して知らん顔をするかもしれないから」

 アクセルも彼の両親も、こんな時にはひどく気負い立って文句を言いに行くのを、るりは普段対岸の火事のように見ているのだが、その日はやはり少々興味があった。十五分を待ちきれないようにして、アクセルは階段を駆け上がっていった。アクセルのかなり激した声に続き、相手の男も大きな声で何か言った。数秒の沈黙があり、その間もラジオは鳴りつづけていた。アクセルのさっきとは違った興奮した声がした。


「ドウシタノ」

 階段を降りてきたアクセルは、両手を挙げて、まさにお手上げだという表情を作った。

「音楽ハマダ聞コエテイル」

「何を言ったと思う。向こうこそ、うちに文句を言いに来ようとしていたとさ」

「何デスッテ」

 もうとっくに寝ていた両親も起きてきた。


「ちょっと中庭に出て、明かりのついている窓を探してみろ」

と、アクセルの父親が言った。

 アクセルはエレベータを待たずに階段を駆け下りた。すぐに上がってくる気配だったが、足音は途中で止まった。どこか、階下のドアの開く音がした。


 ラジオの音が廊下にあふれ出た。アクセルが何か言った。ドアがしまり、数秒後に天井からの音も止んだ。完全に止んだ。アクセルが下の階段から顔を出した。

「止んだ」

 みんな言った。

「訳がわからないな、全く」

「三階からか」

「そうだよ! 引越しパーティをやってるんだとさ」

 これを聞いて三人は、そろって口を開け、眉を吊り上げ、次に肩をすくめた。


「多分」

と、アクセルの父親があごに親指と人差し指を当てながら言い始めた。

「この古い家のことだ。どこかに使ってない管が壁の中にあって、それを通って反響してくるんだろう。それがちょうどこの四階のお前の部屋の真上から出てくる仕掛けなんだろうな」

「ははあ、それで僕らにとっては騒音は五階から来るように聞こえ、五階の連中にとっては下のうちからの騒音のように聞こえるって訳か」

「信じられないことだけど、それしか考えられないわね」

「きっとそうだろう、そんな話をよその古い建物でも聞いたことがあるが、それにしても紛らわしいことだ」

 舅夫婦とアクセルが、頭を振り振り部屋に戻っていくのを、るりは見送った。


 少しの間、一人にならなければならなかった。

 浴室に閉じこもるより他はない。

 便器に腰掛けて、考えを整理する。

 るりは跳びあがった。鏡の中に自分がいる。

「あんたが、あの声の主じゃないの! あんたの声が、あの二人を悩ましていたって訳。あの二人があんたを悩ましたのではなくてね。分かっているの。一体。それであの娘は、あんなに恨みがましく私をにらんだんだわ」


 るりは、自分に向かって歯を剥き出し、ヒヒとできるだけ醜く笑った。


「あんたがあの声の主だったの」

 水でぬらした手で顔をピシャピシャ叩く。

「よかったじゃない、あんな破廉恥な声を出したかったんでしょ。それがあんただったってんだから」


 アクセルがドアをノックした。


それからの数年間、洗面台の鏡を見ると、時々るりの片側の頬が上に七十度くらいもひきつる。制御できないニヤリだ。

「ふざけないでよ、わかってんだから」

 誰かに向かって毒舌する。

 女性ホルモンの行使は受容慾となる。

「たとえホルモンダンスを踊っても躍らさせるな、るり」


 熱いシャワーを盛大に股間にかける。


       この項 了

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