7-3 (ガーディアン)
数年ぶりに外の空気を吸った心地がした。
ほとんど無意識に見上げた空には期待していたような星空は見当たらず、ぼくはほんの少しだけ残念な気持ちになった。
「ルーク」
誰かが、ぼくを呼んだ気がした。女性の声だ。その女性の声がばーちゃんの声ではなかったことを不思議に思いながら、ぼくは我が家に向かって足を踏み出した。
「ルーク、ルーカス」
夜のブリズベンの街を、ぼくはゆっくりと歩きづつける。足の裏の鈍い痛みに、自分の体がもう疲労困憊だということを突きつけられた。それでも、心はずっと軽かった。ぼくが自分の家を前にしてどんな気持ちになるのか、まだ少し懸念はあった。けれど、それでももうぼくは自分の家に対して怯えては――
「ルーカス・ポッター‼︎」
「わあ現実世界の声だった!すみません‼︎」
威厳すら漂う力強い声に名前を呼ばれ、ぼくは飛び上がって声の主を振り返った。周囲の視線をものともせずに、その女性は運転席から身を乗り出してぼくに手を振っていた。街頭の頼りない光の中にあってなお強い光をまとっているかのような満面の笑顔、遠目にもわかる光を湛えた黒い瞳、手を振るたびになびく美しく切り揃えられたショートヘア。彼女の乗った車に見覚えがあったことからようやくぼくは彼女が誰であるのか思い至った。
「ま、マリア⁈」
どうしても疑念の滲むぼくの声に、マリアはさらに嬉しそうに笑顔を輝かせた。彼女がぼくの目の前の車を停めるのを待って、ぼくは感嘆の声を上げる。
「わあお、マリア……!」
「悪くないでしょう。こんなに短い髪なんて、学生時代以来じゃないかしら」
そう言って、マリアが首を一振りする。クセのないホワイトムスクの香りがきらめくように散らばっていき、その向こうで知性と威厳を兼ね備えた大人の女性が嫣然と微笑んだ。
「家に帰るのでしょう。乗っていってちょうだい。ついでだから送るわ」
「こんな時間にこんなところで、買い物でもしてたの?」
「まさか。ただの家出よ。予約したホテルへ向かうところなの」
お言葉に甘えて助手席に乗り込んでいたぼくに、マリアが朗らかに爆弾を投げつける。うっかり足を踏み外しそうになりながら、ぼくは叫んだ。
「家出だって⁈」
「そうよ。それも不可逆の方の」
そう答えるマリアの声は、どこからどう聞いても弾んでいた。助手席に体を沈めてシートベルトを絞めながら、ぼくは恐る恐る口を開く。
「あのさ、念のために聞くけどそれって――」
「念のために言っておくけれどね、ルーク。わたしがあの家から離れる決心をしたのは、あなたが理由ではないわ」
「マリア……」
「あの人から聞いたわ。わたしの依頼を、あの人が勝手に断ったんですってね。確かにあの人のいうことは筋が通ってるわよ。子供を亡くしたばかりの母親に、本当に適切な判断能力があると言えるのか。弱っている人を付け狙う人間は世の中に溢れかえっている。この大変な今の時期に、部屋のインテリアデザインは本当にやらなければならないことなのか――分かるわ、どれひとつとっても自分をあなたを疑うには十分よ。でもね」
火を吹く勢いでそこまで言い切って、マリアは車にエンジンをかけた。
「わたしのことをよく見て、わたしの言葉に本当に耳を傾けて、わたしの話を理解しようという姿勢が少しでもあるなら分かるはずなの。わたしの判断は信じるに足るものだと。だってわたしは気づいたわ。あの人の言葉をよく聞いて、意図を理解しようと努力して――彼が詭弁でわたしを自分の思い通りに支配したいだけだと、ちゃんと気がついた。だから家を出たの」
「でも、お金のこととか……」
「大丈夫よ。アランを産んで少し自分の稼ぎは減ったけれど、生活費を出しながらでも貯金はできていたし。昔からお金のやりくりが得意なのよね。結婚する前に貯めたお金だって、実はまだかなり残ってる」
そう笑ったマリアが、ふと顔を翳らせる。
「どうして、こんなことになる前にわたしはあの子を連れ出してしまわなかったのかしら。あの暴力の前では自分が無力だと、思い込んでいたのかしら……」
そう呟いてマリアは、踏み込もうとしていたアクセルから足を下ろしてぼくに向き直った。
「ねえ、わたしの依頼をなかったことになんてしないでね。あの日、あなたの事務所でインテリアデザインの依頼を決めた時、わたしはあの家に引っ越して初めて自分で自分の人生の決断ができたと感じたのよ。だからやり遂げさせてほしい。わたしには力があるのだと、思い出したい」
マリアの顔に笑顔が戻ったのを見てようやく、ぼくはいつの間にか自分が目の前の美しい黒目に向かって微笑んでいたことに気がついた。
「もちろんだよ、マリア。とても、光栄だ」
マリアが眩しげに目を細めた。その顔はやはりどこか悲しげだったけれど、思わず首を垂れたくなるほどに優しいものだった。
「そういえば、後ろの山は全部マリアのもの? 大荷物だ。本当にもう戻らないつもりなんだね」
「ええ。とは言っても、自分の持ち物に大切な物なんてほとんどなかったわ。持ってきた荷物はほとんどアランのものよ」
彼女の言葉を、ぼくは意外な思いで聞いていた。アランの部屋に、こんなにたくさんのものは置いてあっただろうか。わざわざ新居に持っていかなきゃいけないほどアランが大事にしていたものなんて、あの部屋にあっただろうか。
「……まあ、アランのものだったらどんなものでも、手元に置いておきたいよね」
「そうね。全く、あの子ったら思った以上にモノ持ちでまいったわ」
愛おしげにそう笑いながら、マリアが荷物の上に雑に被せてあった布を取っ払った。その瞬間、ぼくは心臓を撃ち抜かれた気持ちになった。
そこには、アランがいた。
様々な種類のノートがあった。ロボットらしきぬいぐるみがあった。状態のいい少し古い型のゲーム機があった。束にまとめられた写真の中では、高校時代のアランと数人の学生達が笑っていた。そして――たくさんの種類の本があった。
「アランの本……!」
「ええ。あの子、小さい頃から本が好きだったの」
「燃やされたって言ってたのに」
「焚き火の材料にされそうになっていたところを、わたしの本とすり替えて隠したのよ」
こともなげにいうマリアの言葉と、かつて自分が口にした場違いに明るい声が重なった。
――この格調高さはあなたの無意識の防御なんだ
「あの家の、リビングルームはこのため……?」
「ああ、そうそう。あの床が隠し場所よ。あなたには始めから見抜かれていたわね」
マリアが茶目っけたっぷりに笑う。
「自分があの子のためにしたことが、かえってあの子を追い詰めたんだと言われた気がして、あの時あなたに当たってしまったの。本当に悪かったわ」
ぼくが口を開く前に、マリアが顔を正面に戻してアクセルを踏んだ。無駄のない滑らかな加速。
「始まりは、ぬいぐるみだったの。捨てられそうになっていたあの子のぬいぐるみを、こっそり取っておいたのよ。捨てたと聞かされた時にはぼうっとしているだけだったのに、ぬいぐるみを見つけた途端、あの子、大声で泣き叫びながらわたしに抱きついてきて」
優しいマリアの声が、微かに揺れる。
「それからことあるごとに、あの人に捨てられそうになったものをわたしが隠して。引越しを機にあの床下をあの子にあげたの。すぐに見つかるだろうと思ったわ。あの子はまだ小さかったもの。その時はわたしが隠したのだと正直に話して、後から同じものを買い足してあげたらいいと思ってた。ふふ……別の隠し場所にも目星をつけていたのに……あの子は頭の良い子だった。絶対にあの人に隠し場所の存在を悟らせることなく上手に使ってた」
嬉しそうに語っていたマリアが、次の瞬間顔を歪めて吐き捨てた。
「そんなあの子の賢さに甘えていた過去の自分を殺してやりたいわ。ものを拾ってアランを助けた気になっていないで、あの子が安心できる部屋を与えてあげたらよかったのに」
ぼくは再び後部座席を振り返った。そこには擦り切れた絵本やアニメの雑誌、分厚い専門書まで、たくさんの種類の本があった。部屋を見た時には空っぽだと思っていた、アランの歴史とその個性のかけら達。
マリアの横顔に視線を戻す。相手のささやかな反応から必死で正解を探ろうとし続けて、それでも足りないと自分の持てる全てを差し出したいと願っている。無条件の愛を注ぐ対象を持ってしまった人。アランの聖域は、守られていたんだ。不完全な「人」という生き物の、不器用な愛情の発露によって確かに。
「ねえ、マリア。アランのあなたへの想いは、もしかしたらいいことばかりじゃないかもしれない。でも、優しい思い出だってちゃんとアランの中には残ってるよ。それだけは信じくれなきゃだめだ。あなたはぼくを信じて部屋を任せてくれるんだから、この言葉だって信じてくれなくちゃだめだよ」
夜のブリズベンをまっすぐに見つめるマリアの横顔が、徐々に歪んでいく。歯を食いしばり、うめくように囁いた。
「泣かないわよ。わたしはまだ死ねないんだから。あの子に誓って、もっとマシな人間になるのだと決めたのだから」
その瞬間、ぼくの心に小さく火が灯った。そうだ、ぼく達は生きていかなくちゃいけない。ぼく達の未来はまだ続いている。
「……そうだね。ぼくももう、逃げずに生きていかなくちゃ」
ぼくの言葉に、心配そうな様子でマリアがぼくへ視線を向けたのが分かった。けれど彼女は、黙っているぼくから何も聞き出さずにいてくれた。
やがて、マリアの運転する車がぼくの家の正面に静かに到着した。
「また連絡するわ。すぐに落ち着くと思うから」
「ありがとう、マリア。良い夜を」
ぼくの言葉に艶やかに微笑んで、彼女は夜のブリズベンを走り去っていく。その様子を見送り、ぼくはエントランスの光へと足を踏み入れた。怯えることなく、けれどいつもとは少しばかり違う気持ちで。
その光の中で、見覚えのある五つのシルエットがかたまりになって話し込んでいた。二人のコンシェルジュに詰め寄る三人の人影を見て、ぼくは軽く息を呑む。
「ルーク!」
ぼくの姿に一番に気づいたクロエが、ぼくの元へと小走りにやってきた。どうやらぼくを心配して駆けつけてくれたようだということは、彼女の表情を見ればすぐにわかった。ぼくを見て緩んだ顔は、けれど直前までの不安を引きずってまだややこわばっていた。
ぼくも慌てて彼女の元へ足を進めながら口を開く。
「クロエ、みんなも。一体どうしたんだい」
「どうしたんだじゃありませんよ。いくら待ってもあなたから返信がないから、わたし達はまたあなたが無茶をしているのではないかと心配で」
クロエに続いてぼくのそばへとやってきたカシムが安堵のにじむ声でそう文句を言い、そのさらに後ろから、ヴィクトールが不機嫌さを存分に振り撒きながら続ける。
「このぼくさえ! あなたに連絡を入れたというのに。あなたは気づいてすらいないんでしょうけど!」
「それに」百時間は文句を言い続けそうな青年を遮り、クロエが口を開く「ちょうど同じ頃から、その、彼とも連絡が取れなくなってたから、ちょっと心配になったんです。ただの杞憂でホントに良かった」
ぼくの手を取りながら、クロエが憂いを帯びた可憐な微笑でそう言った。その若者特有の水分のたっぷり含んだ明るい茶色い目を見つめ返し、ぼくは少しためらってから彼女の手を取り直した。
「イーサンと、話をしてきたよ」
その瞬間、三人が同時に顔色を変えた。驚きと悲しみに、警戒と静かな決意に、戸惑いと諦めにそれぞれ陰る三様の表情に、ぼくは彼らが、決して口には出さないだろうけれど、アランの命を奪ったのが誰なのかをすでに確信していることを悟った。まだ年若い彼らが受ける心の傷は、一体どれほどのものだろうか。
それなのに三人の目の中にはひとかけらの拒絶さえ見当たらなくて、ぼくは彼らに対する深い敬意を覚えずにはいられなかった。
彼らを安心させたい一心で、ぼくは続ける。
「大丈夫だよ」自分にできる一番優しい微笑みで、ぼくは彼らに言い聞かせた。「たぶんもう、大丈夫だから」
警戒心のかけらもないぼくの言葉を怒るかと思ったけれど、彼らはただ衝撃を受けた様子でぼくの言葉を黙って受け止めていた。徐々に緊張が解けていくにつれて、彼らが本来持ち合わせていた柔らかさがそれぞれの目に宿る。
その目にもう一度笑いかけて、ぼくはカシムに向き直った。
「カシム。アランが幸せだったかは、やっぱりぼくには分からない。でも少なくともこれだけは言えるよ。アランは、自分の未来に希望を持っていた。自分を幸せにするための努力を、きちんと重ねていた。彼ならきっと、君たちには自分のことを幸せだったと信じてほしいんじゃないかな」
ぼくの言葉を黙って聞いていたカシムが、そのまま音もなく大股でぼくに近づいてきた。いつもより乱れた髪が一層ライオンっぽいな――なんてことを考えながら棒立ちになっていたぼくを、分別あるライオンがその引き締まった両腕で強く抱きしめる。ぼくが驚く間もなく、今度は背中側からもしなやかなダークブラウンの腕が回り込み、ぼくのお腹を抱きこんだ。
目をぱちくりさせながら視線をカシムの肩越しに彷徨わせると、ぼくと同じように所在なげに固まっているヴィクトールの緑色と目が合った。そわそわと落ち着きのない青年に向かってカシムとクロエの腕が同時に伸びて、その体をぼくの方へと引き寄せる。二人の腕とぼくに挟まれたヴィクトールはしばらくそのまま体を硬くしていたけれど、少しずつ少しずつ体を緩めて、二本の腕とぼくに体重を預けていった。
「……結局、あなたは大人なんだ」
ヴィクトールの呟きに、前後二人の腕に力がこもった。その言葉の意味をぼくはわからなかったけれど、聞き返すのはなんだか無粋な気がして、そのまま三人の体温に意識を集中させていた。
不思議な気分だった。アランがいなければ出会わなかった子達と、こうしてお互いのことを思いやっている。いち早くアランを通して自身を振り返り、自分の人生を変えようともがき始めた、勇気ある若者達。
「ぼくは、君たちに出会えて幸せだ」
「ぼくからのメッセージ、見なかったくせに」
ぼくの背後でクロエが噴き出す気配がした。それに釣られるように、ぼくの耳元でカシムが笑い出す。二人の腕の隙間から腕を伸ばして、ぼくはきっとむくれているだろうヴィクトールの頭の上にそっと置いた。
「ごめん。これからは本当に気をつけるよ。――ぼくもアランを見習って、自分の人生を前に進めていかなくちゃいけないからね」
大切な人達を、きちんと大切に扱っていけるように。これ以上自分だけの空間に閉じこもって、全てを拒絶したりしないように。不安に駆られて、愛する人を傷つけたりなんてしないように。
だから君も、ぼくを信じて見守っていてくれるだろうか、アラン。
視界の隅に、いつの間にか私服に着替えたワイアットが、ぼく達の様子をにこにこしながら見守っているのが見えた。いつもの彼ならとっくに帰っているはずの時間だ。もしかして、ぼくを心配して残っていてくれたのだろうか。
ぼくは大切にされている。たぶん自分が思っている以上にたくさんの人から。
そんな当たり前のことに、ぼくは本当に久しぶりに思い至ったのだった。
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