7-2

「人の幸せを他人が図れると、本気で思っているんですか」

 ぼくの質問に、イーサンが憐れみの表情でため息をついた。想定の範囲内だ。それに、ぼくが以前カシムに返した返答に比べればずっと優しい。

 重たい頬をなんとか持ち上げ、ぼくは続けた。

「思わないよ。それにぼく達が彼の内面が押し計れると思っているわけでもない。ただ、君の意見が聞きたいんだ」

「分かりません」ぼくの言葉に被せるように、イーサンが答える。「それに、おれの意見に意味があるとも思えない」

「意味がない」

 ぼくのおうむ返しに、青年の顔がかすかに引き攣れた。誰にでも嫌いな言葉はあるものだけど、それにしてもこの青年はよほど世にいうムダというものが許せないらしい。

 青年への興味が湧いた。心は自分でもどうしようもないほど冷たくこわばっているというのに。

 ぼくの観察するような視線に気がついた青年が、挑むような笑顔で続けた。

「……でも、そうですね。お互い親には恵まれなかったようですし、別に幸せではなかったのでは?」

「君は、幸せではないってこと?」

 青年が一瞬目を見開いて押し黙った。すぐに小さく頷きながら力強く「そうですね」と口にする。

「ええ、ええ。おれも別に幸せじゃない。両親に問題があるんですよ。教科書を燃やされるほどではないですがね。あいつの親はおれの親よりも頭がおかしいんだ。あいつは間違いなく幸せとは程遠かったでしょう」

「そっか、ありがとう」

 ぼくがお礼の言葉を口にした瞬間、彼はさりげなくぼくから目を逸らした。そのままヴィクトリア・ビターを手に取って、ゆっくりと口に含む。つられて伸びそうになった右手を握り、ぼくはさらにそのこぶしを左手で握り込んだ。少し俯き加減になったイーサンの顔に大学での彼の姿が重なり、ぼくに気がついて余裕の表情で微笑んだ瞬間にその姿は霧散した。どちらの姿がより、本来の彼に近いのだろう。――好奇心が膨れ上がり、頭をもたげるのを感じた。今の堂々とした様子も大学での彼もどこか薄皮一枚挟まれたような違和感があって、その薄皮を無遠慮に暴いてしまいたい衝動に駆られる。

 彼の部屋をのぞいてみたいと思った。アランの父親にひどく自尊心を傷つけられた直後だというのに、ぼくの創作欲は自動操業で勝手に動き続ける。

 ぼくは改めて両手を組み直し、口を開いた。

「君は、実家から大学に通っているのかな。それとも一人暮らし?」

「なんでそんな質問に答えなければいけないんですか?」

 にこやかな笑顔で、イーサンが刺々しく言った。

「ぼくの好奇心が満たされるから――いや、ほら、だって君から部屋のイメージが全然湧いてこないんだ」

 モンスターのように険しくなっていく青年の表情に、ぼくは慌ててそう付け加える。

「君自身の輪郭が定まらない感じというか。まあ、君くらいの年の男性には良くあることだけれど」

 ぼくの言葉の何かが気に食わなかったようで――まあ口を滑らせて相手の気を悪くするのはいつものことなんだけど――青年の顔がまた一つ険しくなる。

「……インテリアデザイナーでしたっけ? 理想を追い求めている人は、いつだって自分の理想を何かで表現しなければ気が済まないんでしょうけどね。普通の人はそれほど、ただ生活するだけの空間にこだわりなんてないですよ。最低限ストレスなく機能する家であれば気分よく生きていけるんです。年齢なんて関係なくね」

「確かに、部屋のこだわりに年齢も性別も関係なかったね。君のいう通りだ、これはただのぼくの偏見だ」

 自分の非を認めて、ぼくは続けた。

「それに君の言うこともよくわかるよ。ぼくも若い頃、なんのこだわりもない最低限のものだけを置いた部屋で、幸せを噛み締めていた時期があるからね。でもぼく自身の経験から、自分が好きだと思えないものに囲まれた生活をしていると、自分を見失いがちなんじゃないかと思う」

「観葉植物だとか変な飾りがついた電灯を飾らなければ、自分を見失うとでも? たちの悪い宗教だ」

「その人の大切なものが部屋の装飾とは限らないさ。絵かもしれないし、本かもしれない。服かもしれないし、調理器具かもしれない。コンピューターなんかの電子機器類かもしれない。インテリアは部屋を飾るものだけを指しているわけじゃない。その人が大切にしているもの全てが、インテリアなんだよ」

 自分の中から言葉が澱みなく溢れてくる。不思議な気分だ。ぼくは自分がこんなことを考えていたなんて、こうして言語化する機会でもなければ知ることもなかっただろう。

 熱のこもり始めた声で、ぼくはさらに重ねた。

「ゆっくりとコーヒーを飲むためのソファでも、段ボールの机でも、それが自分の生活を豊かにしてくれているのなら、それは大切な部屋の一員だ」

「自分を豊かにする、ね」

 今度はイーサンがぼくの言葉をおうむ返しした。本人が意図するほどには、貶める響きは込められていなかった。

 本人もそれに気付いたのか、続く言葉でやや語気を荒くする。

「自分の欲しいものを自由に買えない貧乏人は、必然的に自分を見失うことになると」

 思わず苦笑してしまった。彼らしい露悪的な解釈だけど、珍しい意見というわけでもない。少し考えて、ぼくは誰の中ではなく、自分自身の中に言葉を探る。

「お金は、あまり関係がないんだ。お金がなくても自分にとって心地の良い空間を作り出す人はたくさんいるし、お金持ちでも高価なゴミに囲まれて生きている人もいる。ぼくは、そんな人たちをたくさん見てきた。人が暮らしていれば部屋だって代謝するんだ。何もしていないつもりでも、物は循環するしほこりはいつの間にか溜まる。何を部屋に受け入れて何を残すかのフィルターを、自分の心に従って設定するか、人に設定させるか、何もフィルターをかけないかの違いなんだ。そして人は、家族や他人の価値観でフィルターを設定しがちだ」

 ぼくの最後の言葉に、イーサンの目がふと、何かを考え込むように陰った。彼の反応に意識を集中しながら、ぼくは彼に一石を投じた。

「たとえば、君はどうして情報科学を専攻しているんだい?」

「費用対効果が高いからです」

 質問をしたぼくが戸惑うほど、彼の答えには淀みがなかった。まるでずっと前から準備をしていたかのように。もしくは、いつも自分に言い聞かせてきたかのように。

 青年が続ける。

「この世界はもはや、コンピューターやシステムがなければ成り立たないんです。情報を扱える人間はどの業界でも引っ張りだこだし、その需要の高さが人材の価値を釣り上げている。しかも学習にかかる費用も医学や法学に比べてはるかに安い」

 青年が滔々と語り続けている。その口元には笑顔が浮かんでいるのに、その目はどこか必死だった。必死に、何を誰に言い聞かせているんだろう。

「これは……ただの印象だけど、イーサン。もしかして、君はあまり情報科学に情熱を持ってはいないのかな」

「情熱」青年が笑って言った。「成功した人たちは、すぐにそれだ。たまたま自分が運と才能に恵まれたからと言って、安易に人に情熱に投資しろと唆す。ほとんどの運にも才能にも恵まれない人間は、投資した時間もお金も取り戻せないというのに」

「情熱を持って何かに取り組むのは、自分の人生を豊かにする最も簡単な方法だよ。別に趣味でもいい。歴史とか絵画とか法律とか」

 その時、ぼくがうっかり口にした法律という言葉にイーサンがかすかに反応した。たまたま、ぼくの知る大学生――ブライアンや元同じ職場のアルバイトの子やカシム――がみんな法学部だったから口をついただけだったんだけれど。

「なるほど、法律か。なんだか君によく似合うね」

「……法学は、割に合わない。法学系の仕事は近い未来にAIに取って代わられる。投資をしても回収ができない」

 青年の固くこわばった声に、ぼくは自分が、いつの間にか彼の内側へ至るその入り口まで辿り着いていたことを知った。いつものぼくであれば、慌てて話の方向を転換して、その場から一目散に引き返したことだろう。

 しばらくの間逡巡して、ぼくは入り口の扉に手をかけた。

「少し、踏み込んだことを聞くよ、イーサン。君の時間や学びを費やして得られるものを、回収しようとしているのは本当に君自身なのか」

 ぼくの言葉を笑おうとした青年の指先がぴくりと痙攣し、そして次の瞬間、内側から先端に向かってゆっくりと凍りついていった。年相応の無防備な目が、テーブルの一点を凝視していた。

 ぼくは、彼と出会って初めて、彼の素顔を見たと思った。

「……回収させてって……おれに今まで投資した分を……」

 ぼそぼそと、どこか大学での彼を想起させる声でイーサンが呟き、そのまま口を固く閉ざした。自分が聞き出した彼の言葉に、ぼくは自分の頭をフル回転させる。

 育てた恩を回収させろと、おそらく彼の親か同じくらい近しい人が、彼にそう言い聞かせている。この青年がしがみついて、殉教者さながらにつき従っているのはこの言葉なのだ。彼の枷となり、彼の情熱を阻んでいる価値観。この枷に気づかせることは、本当に彼のためになるのだろうか。

 彼らと共に生きていくのならば、イーサンはこの枷に気づかない方が穏やかな気持ちで過ごせるだろう。一度醒めてしまったらそうはいかない。カシムと出会ったアランのように、ホウキと出会ったぼくのように、自分の力でそこから抜け出すまで、自分の心の叫びと現実との軋轢に苦しむことになる。

 でも、ただ静観することが彼のためなのならば、どうしてもぼくはイーサンと出会ったのだろう。アランと出会ってしまったのだろう。

 この若者たちとの出会いが誰かの采配だというのなら、ぼくにできることは何だろう。

 ぼくは椅子に座り直し、姿勢を正した。青年とあらためて向き合い、ぼくは自分の中の創造の世界に意識を集中しながら彼に向かって笑いかける。

「ねえ、知ってるかい? 君には本当は、こんな軽薄なグレーじゃなくて、もっと深くて重い色が似合う」

 途端に嫌そうに陰った青年の顔にめげずに、ぼくは弾む口調で続ける。

「部屋だって、どちらかと言えば深い色や重い質のものがしっくりくるんじゃないかな。エメラルド――いや、もっと深いグリーンがいいな。家具は重厚で暗い色の木材か、黒の金属素材をうまく取り入れてもいいかもしれない。モニターと本とノートが十分に置ける机、机と同じ色の本棚、大きな窓があればその側に読書用の一人がけチェアを置いてもいいかもしれない。君と部屋に映える綺麗な緑色の」

 胡乱げにぼくの話を聞いていた青年の顔が、微かに氷解していく。この瞬間が、ぼくは大好きだ。向かい合った全くの別人格を持つ人間が、一つのイメージを共有し、味わうこの奇跡の瞬間。

「君は、このスペースに何を置きたい?」

 青年は、何かが喉に詰まったように口を開くのをためらっていた。これ以上、彼から何かを聞き出すのは無理かもしれない。そう思った矢先のことだった。

「ロボット……」

 口にした瞬間、青年は後悔するように視線を落とし、ぼくはつい顔を輝かせていた。想像上のイーサンの部屋が、さらに彼のイメージとぴったりと重なる。

「いいね、伝統と現代の融合だ。君のイメージにぴったりだ」

「アランが掃除ロボットがいつか欲しいと言っていたから」

 二人の間に、重い沈黙が訪れた。机を凝視し続ける青年を見つめたまま、ぼくは慎重に相槌を打つ。

「……そうだったんだ。ぼくはアランの好きなものがロボットだということも知らなかったから、それが聞けて嬉しい」

「あいつ、最先端のロボット工学を専攻していたくせに、自分の身の回りをロボットで埋め尽くすことばかり考えてたんですよ。働き始めたらまず掃除ロボットを買うんだと言っていました。カーテンも電気も全てロボットが自動でやってくれるようにするんだと言って」

 青年が突然水が流れるように話し始めた。ぼくはただ黙って相槌を打つ。

「地球や人類に貢献、みたいなことには対して興味がなくて、ロボットが身近にある生活でいかに自分の部屋をわくわくするものに変えられるかばかりいつも一生懸命考えていた」

 言葉を重ねるたびに青年の声の震えがひどくなっていく。目は血走り、全身のあらゆる筋肉という筋肉に力が込められ、今にもどこかの毛細血管から血が吹き出しそうだった。

 何かに気づいたように、青年がはっとした様子でぼくを見上げた。どこかすがるような視線を、ぼくは静かに受け止める。

「うん。ぼくの知るアランも、未来に希望を持っていた。――君と、そのことを共有できてよかった」

 ぼくの言葉に、イーサンの顔がみるみる怒気に染まった。

「あんたのせいだ! あんたがあいつに余計なことを色々吹き込んだから、あいつが変わってしまったから……!」

 それは、ぼくがずっと自分に突きつけ続けてきた言葉だった。

 ぼくが考えなしに、自分の言葉で彼を最悪な方向へと扇動してしまったんじゃないのか。

 ぼくが無責任に言葉を口にしなければ、彼はまだ生きていたんじゃないか。

 ぼくが成熟した大人で、ばーちゃんのように素晴らしい言葉を持っていて、もっと深く彼のことを思いやれていたのなら、彼は今、この世界にいてくれたんじゃないのか?

 それなのに今、こうして人から同じ言葉を叩きつけられたぼくの中に生まれたのは、自分でも信じられないくらいの真っ黒な憎悪だった。ありとあらゆる感情をごちゃ混ぜにして氷点下まで冷やしたような黒い感情が、ゆっくりと噴き出して腹の奥でとぐろを巻いていく。身体中の全ての関節がこわばるほどの、息が詰まるほどの、吐き気を伴うほどのあまりに強い情動。

 アランが死んでしまったのも、ばーちゃんが死んでしまったのも、ブライアンを深く傷付けてしまったのもこれまでに投げられ続けてきた心ない言葉の数々も、この世界の全ての気に入らないことが、目の前の青年のせいである錯覚を覚えて目が眩んだ。

 この強い情動に任せて彼をずたずたに引き裂いてしまいたかった。手を伸ばせばすぐに掴めるグラスに手を伸ばし――ぼくの中の抱えきれなくなった絶望を、全部目の前の青年にぶつけてしまいたかった。

 それなのに、一体どうしてだろう。

 さらにもっと強い衝動がぼくの中には生まれていた。ぼくは目の前の青年に手を差し伸べたかった。ぼくの今までの人生で、たくさんの恩人達がぼくにそうしてくれたように。

 右肩の辺りがふと温かくなる。その温かさに導かれるように、何重にもとぐろを巻いていた深い憎しみのさらに奥に小さな光が灯った。その光が、あれほどまでにどうしようもない衝動をもたらした黒い感情を、内側から別のものに変質させていく。

 窓の外に目を向ける。ガラス越しの夜空には、いつも当たり前にそこにあると思っていたあの、無数の小さな光を見ることはできなかった。

 ここしばらくの間、星なんて見ようともしていなかったな。

 それを思い出した瞬間、無性にその光を見上げたくなった。店内どころか街中に、人工的な光なんて溢れているのに。それなのに今、この瞬間、渇きにも似た思いで、ぼくは星空が見たいと思った。優しい夜の闇の中で、ただ静かに。

 ぼくはゆっくりと焦点を目の前の青年に戻した。全てをぼくのせいにして、ぼくを憎むと決めてしまったヘーゼルアイズ。思わず笑みが漏れた。本当に、鏡を覗き込んでいると錯覚しそうなほどに、ぼくと同じオリーブの目。自分と同じ目をしたこの青年を壊したい。優しくしたい。

「……君と話をしていると、色々な感情がどうしようもなく掻き立てられるよ」

 イーサンが、攻撃的な――そしてどこか怯えたような視線でぼくを見つめ返した。その視線を受け止め、ぼくは怒り狂いたいのか嘆き悲しみたいのかよく分からないまま、小さく微笑む。

「だからこそ、ぼくは思うんだ。君とは出会うべくして、出会ったんだろうなって」

 青年がすっかり乱れた髪の奥から、ぼくを睨みつけた。

「……あんたは何を言っているんだ? 本気で気が狂ってるのか?」

「ぼくの大切な人の受け売りなんだ」

 右肩のぬくもりが強くなった。悲しみと愛しさに、ぼくはほんの少し眉を下げる。

「強い感情を掻き立てられる相手はね、自分にいろいろなことを教えてくれる運命の相手なんだって。……自分が学ばなきゃいけない、大切なことに気づかせてくれる」

 イーサンの目から微かに力が抜け、迷子の子供のような心もとない光が浮かんだ。震える唇は何か言葉を紡ぎたがっているように見えたけれど、音として言葉が紡がれることはなかった。

 彼が救われることが、正しいことなのかはわからない。けれどもし、二人もそれを望んでくれるのなら――ばーちゃん、アラン。どうかぼくと一緒に、この青年が自力で暗闇から這い上がれることを祈ってほしい。

 心の中でそう呟き、ぼくは口を開いた。

「君はきっと、神様が与えてくれた運命の中の一人だ。――ぼくはそう思う」

 イーサンの手の甲から、ふとこわばりが取れた。顔の筋肉が震え、青年が貼り付けていた仮面が見る間に溶けていく。

「……おれにとっての運命はアランだ。初めて会った時から他の奴らとは異質だった。本当は優しくしたかったのに、あいつはおれの優しさなんて望んではくれなかった」

 何一つ取り繕えていない、青年の生々しい感情が彼の口から溢れ出した。

「あんたにわかるか? ようやく受け入れてくれたと思った相手が、おれのことを誰かの身代わりにしていただけだと分かった時の気持ちが! その優しいやつと関係を持ちたいと言われた時の気持ちが!」

 今度こそ、青年の誤解を解かなければと思った。

 けれど開いた口からでてきたのは、自分でも全く予想のしていなかった言葉だった。

「ほしかったよ、あんたの優しさが本当は……心地よいと感じ始めていたから」

 イーサンがぽかんと口を開けた。言葉を失ったまま黙りこむ青年に、今し方自分が口にした言葉の意味を掴みかねたままぼくは続ける。

「……君の、質問に答えるよ、イーサン。初めて会った日、ぼくはアランに言ったんだ。付き合うなら、優しさで繋がれる相手にしておけよって。その言葉を、アランは覚えていたんだなあ。最後に会った日に、彼は言った。『ぼくは彼と――』」

 いいかけて、ぼくは言葉を止めた。あの時言っていた『彼』が誰を指しているか、ぼくはもう知っていた。ぼくは再び口を開き、目的語を言い直す。

「『ぼくはイーサンと、優しさで繋がっていけるだろうか』」

「……そんな、はずない。適当なことを言うなよ……!」

 みるみる歪める彼を尻目に、ぼくは淡々と続けた。

「『優しさで人と繋がる世界へ、ぼくは人生を進めることができるだろうか』」

 彼がその言葉を口にした時の情景が蘇る。あの時、アランはただぼくを見つめていた。静かな黒目に深い決意を湛えて。

 ――本当に、そう思う? あなたは、ぼくを信頼して見守っていてくれる?

 ――ありがとう、ルーク。約束だよ

 アランの言葉の余韻を味わいたくて、ぼくは目を閉じた。彼の声がぼくの中から完全にフェードアウトするのを待って、再び口を開く。

「ぼくはそれを肯定した。これが、ぼくが彼と最後に交わした会話だ」

 青年は答えなかった。しばらくして青年の方へと視線を向けると、彼は頭を抱えて俯いてしまっていた。陰になって見えない彼の顔から、ぼとり、ぼとりと水滴が落ちて、テーブルの上の水たまりを広げていくた。勝手に動き出しそうになった右手を、ぼくは意識して引っ込めた。そのままグラスの方に伸びそうになったその手を今度は強く握り込む。

「……知らなければ、おれはまだ自分のまま生きていけたのに」掠れた悲痛な声が青年の喉から漏れ出た。「あんたはなんて、残酷なことを……」

「そうだね」

 そう呟いて、ぼくはまぶたを伏せた。終わりのない罪悪感と後悔と、けして埋めることのできない喪失に焼かれ続けるのは、地獄の業火に焼かれるよりもきっと辛い。

「……本当に、そうだね」

 その後はもう、ぼく達の間には語る言葉はなかった。イーサンは時折苦しげな嗚咽を漏らしながらテーブルを濡らし続け、ぼくはただ黙って彼の向かいに座っていた。二杯目のギムレットは水滴をたっぷりとまとわりつかせていて、見た目にもぼくの気持ちを削いだ。不思議なことに、いつだってぼくの中でがなりたて続けていた自分自身への非難の言葉はぴたりとその口を閉じ、ぼくの中にはいつぶりか分からない静寂があった。

 やがてイーサンがおもむろに深く息を吐き、そしてのろのろと立ち上がった。

「もう、話はいいの」

「……はあ、それ答えなきゃ分かりませんかね……」

 今となっては懐かしいいつもの口調で、イーサンがぼそぼそと言う。

「ぼくも出るよ。途中まで一緒に帰ろう」

「え、嫌ですけど」

「嫌って、君ね……」

「あなたは、あの暑苦しそうなボーイフレンドにまた迎えにきて貰えばいいでしょ……」

 一瞬、カシムとのことをまた誤解でもしているのかと思った。けれどすぐにぼくは、目の前の青年との本当の初対面の日のことを、そして幼なじみとの本当の再会の日のことを思い出した。ぼんやりとした意識の中で、ぼくはいつの間にか目の前にあった白いシャツに包まれた腕を見つめていた。その腕をたどって視線を動かした先には、自分の中の記憶よりも格段に精悍になった幼なじみの、ひどく焦った顔があった。

 ――こいつはおれの連れだ。迷惑をかけた。

 唐突に蘇ったあの日の夜の幼なじみの姿に胸を突かれて黙り込むぼくに、青年が続ける。

「それに、ちょっと警察署に立ち寄る用事があるんで……」

「……そ、そっか。――ああ、じゃあこの名刺あげるよ」

 そういって、ぼくは自分の財布からやや萎びかけた一枚の名刺を取り出した。

「ぼくの知り合いの刑事さん。ちょっと嫌なやつだけど、まあ頼りになると思うよ」

 イーサンが気乗りしない様子でぼくから名刺を受け取り、その表面を見てげんなりと顔を歪めた。

「サミュエル・ロビンソン……あのノッポの刑事、嫌いなんですけど……」

「まあそう言うなって。君から連絡したらきっと、訳がわからなくて歯噛みするあいつの姿が見られると思うよ」

「ふん……」

 そう鼻を鳴らして、イーサンは悪くないと言いたげに口を曲げた。

 あれほどぼく達二人の間には緊迫したドラマが繰り広げられていたにも関わらず、店内は相変わらず適度な喧騒と程よい笑いが溢れていた。世界は広がり続ける。時にぼく達を急かし、時にぼく達を巻き込み、時にぼく達を置いてきぼりにしながら。この連続した世界の中で、ぼく達は永遠に出会いと別れを繰り返していく。

 自分でも説明できない乳白色の感情に胸を覆われたまま、ぼくは椅子から立ち上がった。

 ぼくの方を見ようともしない青年に向かって手を差し出す。

「また会おう、イーサン」

「嫌ですよ……」

 ぼそぼそと不明瞭な声で即答し、イーサンはさらにぷいっと顔を背けた。

「……でも、もしもこの先、万が一あなたとまた出会うことがあったなら……その時は、仕方がないから挨拶くらいはしてあげます……」

「うん」

 そう頷いて、ぼくは青年に背を見送った。

 店内に掛かった時計は、夜の十時五十二分を指していた。あまりに長かったブリズベンの一日も、ようやく終盤へと差し掛かる。

 今日という日への別れに向かって、夜はただ静かに時を刻み続けていた。

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