7-4 (電話)
青年達を家に帰した後、十五階へ向けて上昇していくエレベーターの中で、ぼくはデバイスのセキュリティを解除した。大学生達から届いていたメッセージを確認しながら、ぼくはその通知の中にブライアンからのメッセージがないこと気がついてため息をつき、ロビンソン警部補からの大量の着信に気がついてうめき声をあげた。
見なかったことにしようとする自分をなんとかねじ伏せ、ついさっき人生を前に進めるのだと誓ったばかりだろうと説得し、あいつも一応大切に扱っておくべきひとりなんじゃないかと説き、それでも散々迷った挙句にぼくはエレベーターを降りながらしぶしぶコールボタンを押した。
その瞬間、凶悪なキリンがデバイス越しにぼくを怒鳴りつけた。
「ルーカス・ポッター! このクソッタレが!」
「いきなり怒鳴るなよ、インスペクター・サミュエル・ロビンソン! 今めちゃくちゃいい気分だったんだぞ。あんたのせいで台無し!」
「ああ、それはよかったよ。お前が台無しにしたここ数日のおれの悲惨な気分の一千万分の一でもお返しができたのならな。よくもこうも毎回おれをわけのわからない状況に叩き落としてくれるな、ポッター」
「一体なんの話だよ! 要件を言え!」
「山ほどあるんだよ、その要件ってやつがお陰様でな。そもそもお前は今一体どこに――」
まだ何かを言い募ろうとするサムの声を、背後からの笑い声が遮った。
「サム、呼ばれていますよ。緊急です。おっと、通話を切る前にぼくに代わってください――こんばんは、ルーカス。ご機嫌いかが……」
サムの返事も聞かずにデバイスを取り上げたらしいオリバーが、礼儀正しい挨拶の途中で堪えきれなくなったように吹き出した。呆れるぼくを置き去りにしたまま、楽しそうに声を上げて笑い始める。
「あなたは本当に最高です……! サムのあんな顔、初めて見ましたよ」
「どういたしまして」苦々しく口にしたぼくは、聞き捨てならない言葉にすぐに声を改める。「ええと、ところでそのサムのあんな顔とやらは、ちゃんと写真に残しているんだよね?」
「もちろんですよ」
「……それ、後で送って」
「いいですよ」
どこまでもにこやかなオリバーの言葉に、ぼくはついにやにやと笑った。意外な一面だ。普段そつなく振る舞っているだけで、彼もまたいろいろな引き出しを隠し持っているのかもしれない。いや、こいつは間違いなくたくさん隠し持ってる。どれだけの切り札を溜め込んでいるのやら、想像するだけで恐ろしい。
「ところで、要件って本当になに? まだ何か聞きたいことあるの」
「まだ、ね……。とりあえずルーク、あなたは今どちらにいらっしゃいます?」
「家の前にいるよ。ちょうど帰ってきたところなんだ」
「この後のご予定は?」
「家の掃除をして寝る」
「いいですね。先ほどあなたを狙った人物について――」
電波の向こうの気配が、一段と騒がしくなった。背後の喧騒に刑事の声で「わかりました」と答え、礼儀正しく振る舞うトラ――間違えた、オリバーが残念そうにぼくに謝る。
「すみません、ぼくも呼ばれてしまいました。近々また、あなたのお話を聞かせていただくことになるかと思います」
「いつでも電話に出る準備をしておけと伝えろ!」
「サムの声、聞こえました? だそうです」
「分かったよって伝えといて。あ、そうそう。サムの名刺を別の人にあげちゃったんだけど、もしかしたらそいつから……」
ぼくが言い終わらないうちに、またしてもオリバーが笑いを弾けさせた。一体何がそんなに面白いのやら。サムの、今度はオリバーに向かって喚き散らす声がして、オリバーは笑いながらが「ではまた、すぐに」と通話を切った。
全く。近頃の警察のなんと騒がしいことか。
心の中で悪態をつき、家のドアを開ける。後ろ手で鍵をかけて背中をドアに預けると、ぼくは少し長めのため息をついた。くるくるの巻き毛をぐしゃぐしゃとまぜっ返しながら、しばらくの間デバイスの黒い画面を見つめる。
そして、ついに思い切ってとある連絡先を表示させ、そのまま電話をかけた。
コール音が三回なった時に、ふと気になって時間を確認した。夜の十時四十分。少し遅いけれど起きている時間だ、と考えた瞬間コール音が途切れた。
「ルーク? 珍しいわね。この間の葬式ぶりじゃない」
「母さん」
「どうしたの。何かあった?」
きびきびした口調ながらも思いがけなく優しい言葉に、ぼくは喉が詰まるのを感じた。考えてみれば、そもそもぼくから母さんに電話をかけるのだってずいぶんと久しぶりのことだった。さすがに初めてではないはずだけれど、前回ぼくから電話をしたのがいつのことだったかは思い出せない。
なんとなく、母さんに一言「ありがとう」と言いたい気分だった。けれど藪から棒にお礼の言葉を口にすることがためらわれて、代わりにぼくは準備していた質問を口にする。
「……あのさ。ちょっと聞きたいことがあったんだけど。昔のことだし、大したことじゃないんだけど」
「はあ、なあに」
「母さんさ、学校で美術の道具が必要になるたびに、一番高くていいやつ買ってくれたろ」
「はあ、言われてみればそうだったかもしれないね。あんたよく覚えてるね、そんなこと」
感心というより呆れた様子の彼女の言葉に、ぼくは少し笑ってしまう。
「他の持ち物に高価なものなんて何一つなかったのに、美術に関する道具だけはいつもいいものを持たせてくれたよね。もしかして、ぼくが絵を描くことが好きなんだって気づいてた? ぼくは……あの頃は、ぼく自身でも気づいてはいなかったのに」
「気づいていたに決まってるでしょ。あんた自分がどれだけわかりやすいと思ってるの」
完全に呆れ返っている母さんの声に、ぼくはまた少し笑う。
ふと思い出した。ぼくは整頓や掃除の仕方を知らずに育った子供だったけれど、絵に関する道具だけは、ごく自然と必要な手入れをしていた。それは母さんがぼくに、その手入れの方法を教えてくれたからだ。母さんは部屋の片づけの技術は全くひどいものだけれど、細かい道具の手入れに関してはマメだった。
そんなことを、今の今まで忘れていた。
母さんが続ける。
「昔から、あんたは本当にわかりやすかったよ。将来は家に関する仕事をするんだろうって、ずっと昔からわかっていたわ。昔から本に夢中になっては、ここに階段があるだの二階の奥の右側が主人公の部屋だの、飽きもせずに楽しそうに話してた。登場人物名前すらろくに覚えていないのに」
「……そうだっけ?」
「そうよ。誕生日でもらったブロックのおもちゃでも、乗り物や怪獣には見向きもせずに部屋ばかり作り込んでさ」
「それは、そういえば覚えてるかも」
プレゼントは何がいいか聞かれるたびにレゴをねだって、集めたブロックでひたすら部屋を作り込んでいた。自らの手で作り上げた理想通りの勉強部屋や寝室、広いリビングやバルコニーにうっとりしたものだった。一緒に遊びたいというブライアンにも部屋作りを手伝わせた。その代わりに彼の要望に応えて、ヘリポートだって作った。
ぼくを見つめるブライアンの笑顔を思い出し、ぼくは思わず強く目をつぶって胸を押さえる。
ぼくが沈黙した分を埋めるかのように、母さんは話し続けている。
「誰かの家に行くたびに、どんなものが置いてあったとか、リビングの隣にこの部屋があったとか話すものだから、ここいらの家はみんな震え上がったものよ。でもあんまり詳細で正確だからそのうち揃って感心するようになってね」
そんなことを語る母さんの声があまりに楽しそうで、ぼくの心にふと、ちょっとした意地悪な気持ちが湧き上がった。
「……ねえ、母さん。相手のこと関心を持って見るのは愛の基本だって知ってる?」
途端に母の声が嫌そうに翳る。
「あんた、またあの人の受け売りね。ホントうんざりする」
それは初めて耳にする人であればぎょっとするくらいには十分にトゲトゲしたものだったけれど、それでもぼくの子供の頃に比べてるとずいぶん険が和らいでいる気がした。今なら聞けるかもしれない。
「母さんは、なんでばーちゃんのことそんなに嫌いなの」
「なんでも先周りして正解を言ってしまうからよ」
間髪入れずに答えが返ってくる。
「しかもね、それがまあ正しいわけよ。子供にとってこれほど不愉快なことってあると思う? 人生の楽しみを片っ端から全て摘み取られているようだったよ」
そう言って、母さんは鼻を鳴らた。長きにわたり一つのことを思い続けた人の言葉が持つ、特有の重みと熱量が感じられた。
「だいたいあの人なんてね、あんたの前では猫被ってたかもしれないけど、本当にがんこで気が強くて自分が正しいと微塵も疑わないタフなババアだったんだから!」
「ぼくの前でもわりとそんな感じだったよ」
そして、母さんにもしっかりその性格は受け継がれているようだった。
「わたしは間違っていなかったよ。あの人のいう正しい言葉よりも、自分自身でつかみ出したこの現実の方が何千倍も美しいと確信を持って言える。あんたのことを含めてね。あの人の『正しい』言葉に従ってたら、今頃あんたはこの世にいないんだから」
思わず言葉に詰まった。頭が真っ白になって何も言えないぼくに、母さんが不審げに問いかける。
「何よ。この世に生まれてきてよかったでしょう?」
その問いにだけははっきりと答えることができる。今なら。
「うん、そう思う。本当に」
「でもまあ、あの人の考えも、今なら少しわかるよ。健康でいてほしいのよ。そして生きていてほしい。親が子供に望むものなんてそれだけで、あの人もきっとそうだったのね。あんたも、あの人から何か遺言は受け取った?」
「うん。あんまり悲しむなって」
そしてがんばって言うことを聞いていたら、ぼくの願いは叶えられた。
「わたしも受け取ったよ。絶対に、何があっても後悔はするなって。相変わらず何もかも見透かしていて腹立たしいけど、まあ、あの人の言うことなんて何ひとつ聞かずに生きてきたからね。最後に一つくらいは聞いてやることにするわ」
「……そうしてあげて」
渋い顔でそう答え、ぼくはデバイスの時刻に目を走らせた。
「そろそろ切るよ、母さん。……ぼくも愛してるよ」
「それならもっと顔見せなさいよ」
「母さんが遊びにきてよ。ぼくの住所は知ってるんだろ」
「あんたの住所なんて教えてもらったことないわよ」
怪訝な声に、ぼくはびっくりして声を上げた。
「バースデーカード、送ったろ」
「家の中のどこかにはあるね。見つけ出せるとは思わないけど」
しばらくの間、沈黙が訪れた。
「後でメッセージで送る」
「はいはい」
そしてぼく達は互いに通話を切った。ブライアンはぼくが工事現場の穴に落ちた日より前に、ぼくを家まで送り届けてくれていた。ぼくは自分の事務所の住所をインターネット上に公開している。それでも。
「……あいつ、次あったら今までのウソ全部吐き出させてやる」
低くそう呟いて、ぼくは家の中に足を踏み入れた。入ってすぐ右に折れて大股で部屋に向かい――慌てて引き返して手を洗うと、改めて扉まで戻り、寝室へ足を踏み入れた。
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