5-6 (襲撃)

 ――子供って哀れだよな。……垣間見てしまった愛情に気がついて、期待してしまう。彼自身が、その愛情に気がついてくれることを

 

 まだ日の高い時間なのに薄暗い、カフェの奥まった一角で青年が言った。ブリズベンの強烈な日差しが、開け放たれた窓からわれ先に押し入ろうともがいていて、かたくなに薄闇に留まる彼を今にも溶かし出してしまいそうに思えた。

 今この瞬間を謳歌する高らかな人々の笑い声と、今この瞬間を燃やし尽くそうとする虫の声が遠く窓の外で響き渡っていた。一点の曇りもない明るい日のもとで。より命を輝かせているのはどちらだろうか。

 外の世界の喧騒をBGMに、静けさを纏った声で青年が続ける。


 ――でも、それは叶わないんだよ、ルーク


 ぼくが、青年に向かって何かを話し始める。思わず口を挟んだ。

「……やめろ、お前は口を開くな」

 我ながらみっともなく震えた声だった。もちろんぼくの悲嘆の思いは二人には届かず、目の前のぼくは身振りを交えながら何かを話し続けていた。そんな自分の様子に、視界が赤く染まるほどの怒りと憎しみを覚える。

 思わず手を伸ばし、叫んだ。

「やめろってば! お願いだよアラン、そいつのいうことを聞かないでくれ‼︎」

 まるでぼくの言葉が届いたかのように、青年が顔を上げて微笑んだ。その黒い目で真っ直ぐにぼくを見つめる。


 ――あなたの言う優しい方法で、ぼくは人と繋がっていけるだろうか。自分の人生を前に進めていけるだろうか


 思わずきつく目を閉じる。


 ――ありがとう、ルーク。約束だよ




 白昼夢は一瞬にして通り過ぎ、ぼくは再びメアリーストリートのど真ん中に舞い戻っていた。ようやく思い出せたアランの顔は再びきれいさっぱりぼくの頭からかき消え、サングラス越しにぼくをじっと見つめる男に取って代わる。

 男が、ひどくゆっくりとした動きで足を踏み出した。いや、男だけじゃない。視界の全てが緩やかに回っていて、目に映る全てのものが薄い膜でも纏わり付かせているかのようだった。音が遠い。水の中にいるみたいに。

 そんな鈍い世界の中にあって、身体のあちこちから響き渡る警鐘だけがただ鋭くぼくを刺激した。ぼくは明らかに一刻も早くこの場から立ち去るべきだった。けれどどうしても、自分を助けるための第一歩が踏み出せない。

 徐々に世界が元のスピードを取り戻し始め、その一秒にも満たない細切れの時の中でさまざまな場面がぼくの中で交差する。不機嫌そうに眉を指で抑えるロビンソン警部補、あまり上手とはいえないばあちゃんの歌声、幼い頃に友人の家で差し出された一振りのほうき、木漏れ日に照らされたカシムの体の重み。

 幼なじみの、悲痛な声がぼくを揺さぶった。

 お前を、おれの人生から失わせないでくれ――

 我知らず足が止まる。それに気がついた男のつま先が、ほんの微かにぼくの方へと方向転換した。白のスニーカー。微量の違和感がぼくの思考ににじむ。

 まさに男がぼくに向かって足を踏み出そうとしたその瞬間、ぼくの耳に再び鋭い怒号が響き渡った。

 ――ルーク‼︎

 叩きつけるように湧きあがったその響きが体の隅々まで行き渡ると同時に、ぼくは飛び上がって男に背を向けた。そして崩れ落ちそうになりりながら一目散に走り出す。

「ばーちゃん、ばーちゃん、ばーちゃん……」

 一歩足を進めるごとに膝が震えた。少しも地面を蹴り出せなかった。こんなにでたらめな走りをするほど運動不足なはずはなかったし、体力のピークを過ぎたとはいえ走れなくなるような年齢でもない。パニックだけならもう少しマシな動きができるはずだ。そうじゃない。力を入れられないくらい、いつの間にか手足が冷え切っている。

 自分自身を助けないための言い訳を並べ立てている間に、ぼくの体はこんなにも恐怖で凍りついていたのか。

 気づいた瞬間、見ないようにしていた怖気おぞけが一気に全身を走り抜けて、ぼくの足をさらにもつれさせる。

 男はぼくを追ってきているだろうか。走り去るぼくの後ろ姿を、ただ呆れて見送っているのかもしれない。それを振り返って確認する勇気すら持てないぼくに、再び声が――ぼくが愛してやまない女性の声が、ぼくを殴りつける。

 ――右だよ! 

 疑うなんて思いもつかないまま、ぼくはすぐに四つ角を右に折れる。出会い頭に見覚えのある小柄な人影とぶつかりそうになり、人影の方が機敏な動きでぼくを避けた。視界の隅に艶やかな黒髪が流れた。

 浅黒い肌に左右線対象のアーモンドアイズ。勤務時間中なのだろう、漂白されたような真っ白のシャツに動きやすそうなネイビーのスラックスを身につけた青年が、笑いを含んだ驚きの表情をぼくに向けた。――どこにでも刑事が湧くブリズベンの治安に光あれ!

 心の中で祝福を叫び、ぼくはみっともなく震える声で刑事の名前を呼んだ。

「オリバー……!」

 笑みを深めた水分たっぷりの黒い目が、〇.三秒でその様相を変えた。人の『情』と呼ばれるものの一切を削ぎ落とした冷徹な目が、ぎらりと光る生身の剣のような酷薄さで周囲を――というか、ぼくを圧倒する。

 さらに震え上がるぼくに向かって足を踏み出したオリバーが、次の瞬間目にも止まらぬ速さでぼくのそばを通り過ぎた。本能に導かれるままにその残像を目で追ったぼくは、いつの間にかぼくのすぐ背後に迫っていた大柄な人影に腰を抜かしそうになった。ぼくを放っておいてくれているのではないかと、心のどこかで思っていたのに。

 息ひとつ乱さずに悠々とぼくに追いついた黒いベースボールキャップの男に向かって、オリバーが軽く地面を蹴る。その体がワイヤーにでもつられているかのように、ぐんと宙に浮き上がった。自分の目に写っているものが信じられなくてあごを落とすぼくの目の前で、ミスター・ベースボールキャップがその左手を閃かせた。ぼくが相手だったらただ立ち尽くしている間にノックアウトさせられそうな、十分に鋭く重い一撃だった。

 ところがその強烈な一撃が叩き込まれる前に、その数段は軽く上回るスピードの回転蹴りが男の左手を弾き飛ばした。ぼくのあごがさらに落ちる。全身が、先ほどの戦慄とは違う、ものすごくかっこいいものを目の当たりにした時特有の高揚感に粟立った。

 チリッ、と高く鈍い音が二人の間に生まれ、刑事が地面に舞い降りる。一拍おいて、甲高い金属音がアスファルトを削った。耳ざわりな音を立てながら、金属音が車道に向かってバウンドしていく。素人目にも、刑事が相手を怪我させないよう、左手だけを慎重に狙って吹っ飛ばしたことくらいわかる。実力の差なんて誰が見ても明らかだった。

 着地と同時にオリバーが動く。けれど状況を察してからのミスター・ベースボールキャップの行動は素早く、刑事が着地した時にはすでにぼく達に背を向けて走り出していた。オリバーはその背を追うことなく、ただ揺るぎない黒目でじっと見つめる。

 その横顔がなんだか男を追いたそうに見えたので、刑事に対して民間人がかける言葉だろうかと悩みつつぼくは口を開いた。

「追っていいよ」

「まさか」

 一+一が九とでも言われたかのように、オリバーが確固たる口調で一蹴する。男が曲がった方向をしっかり確認してから、振り返ってぼくを見上げた。目があった瞬間どきりと胸が跳ねたけれど、冷然とした黒い目はすぐにいつもの柔和な優しさを取り戻した。

「……お怪我はありませんか、ルーク? もう、大丈夫ですからね」

「何、今のすごいやつ」

 目的語のないぼくのあやふやな質問の意味を、刑事は正確に理解してくれたらしい。「ボミナムです」と答え、もう少し説明が必要だと思ったのかそのまま付け加える。

「ぼくの国の総合武術で、小学生の頃から学んでいます」

「強いんだね」

「そんなことはありません。……ただ、久しぶりに学んでいてよかったと思いましたよ」

 刑事の言葉に少しだけ黙り込んで、ぼくは小さく「ありがと」と答えた。オリバーはにこりと温かい微笑みを浮かべると、ポケットから端末を取り出して誰かと通話を始める。

「ルーカス・ポッター氏を保護しました。彼の懸念は的を射ていたようで――ええ、全く同感ですね。黒のベースボールキャップを被った二十台前半の男、所持していたナイフは確保済みです。現場はアルバート・ストリート、オーストラリア郵便公社前で、エリサベス・ストリートをフォーティチュード・ヴァリー方面に逃走。後はお願いします」

 丁寧ながら淡々と状況を吹き込み、刑事はすぐにまた別の相手に電話をかけた。

「グエンです、ミスター・ダーシー……ああ、彼なら今ここにいますのでご安心ください」

 電話越しでも伝わるブライアンの余裕のない声に、オリバーが微かに苦笑を滲ませて続ける。

「ええ、お願いします。署までご足労いただけたら……わかりました。それでは」

 そう言って通話を切り、再びぼくを振り返る。

「すぐに応援が来るので、少し待っていてください。その後、一緒に署に来ていただけますか?」

 ぼくの心許ない気持ちが顔にでていたのだろう。ぼくを安心させようと、オリバーが丁寧に説明する。

「安全な場所で、少し話を聞かせていただきたいだけです。ここで話を聞いてもいいですが、ここから署までは歩いて三十秒ほどの距離ですから。その方があなたの負担にならないのではないかと思いまして」

「三十秒って……それはあんたの足が速いからだろ、刑事さん」

 呆れてそう呟き、ぼくはふと疑問に思ったことを口にした。

「あのさ、やっぱりぼくのこと見張ってただろ。ぼくが大学を訪ねたことを知っていたのも、今回のことも、偶然じゃないよね?」

 ぼくの問いに、オリバーがエキゾチックな笑みを浮かべる。少し視線を落とし「詳細は話せませんが」と前置きした上で続ける。

「あなたの雇った探偵さんからあなたの身の回りで起こったことを聞きました。事件と関連がありそうだったので、少しばかり注意を払っていたんです」

「ブライアンか……あいつ、いつの間に」

「余計なお世話かもしれませんが、今回ばかりは彼にお礼を伝えてもいいかもしれませんよ。あなたを守るために、警察すら利用して裏であれこれ画策されていたようですから」

 もう振り切ったと思っていた懐かしの暗い感情が蘇ってきて、ぼくは口をつぐんだ。顔を歪めて俯いてしまったぼくに気付いただろうに、オリバーは表情を変えることなく穏やかに続ける。

「それでもまあ、あなたが署の周りを徘徊していなければ助けることもできなかったでしょう。あなたは運がいい」

 そうだ、ぼくは運が良い。

 必死にぼくを怒鳴りつけるばーちゃんの声を思い出す。本当に来てくれた、約束した通りに――どうして、ぼくは彼女のような女性を祖母に持つことができたんだろう。どうしてばーちゃんは、死んでしまった後でも、こんなにもぼくのことを気にかけてくれるんだろう。ぼくを愛してくれるんだろう。

 決まってる。ぼくの運が良くて、恵まれているからだ。

「……うん、ぼくはそうなんだ。いつだってぼくは、ぼくの身には余る運の良さで、いつだって……」

 そのまま言葉を途切れさせてしまったぼくに、オリバーは何も言わなかった。

 警察署での聞き取りは、覚悟をしていたほどひどいことにはならなかった。事情聴取の間も部屋はやや騒然としていて、オリバーと他の警察官の会話から彼らが黒のベースボールキャップの男を捜索中なのだろうことはなんとなく察しがついた。それでもぼくに対する例の男の取り調べは随分とおざなりで、ぼくは簡単な質問の間に書類を数枚書かされただけで解放される。

 オリバーはもう相手の目星をつけたのかもしれないな、なんてことを考えながら出口に向かって歩いていると、廊下に設置された、いかにも警察署にふさわしい無愛想な黒のベンチに座る幼なじみの姿が見えた。もうすっかり日も落ちて、蛍光灯の無粋な光がこの空間を浮かび上がらせていた。長い脚は廊下を歩く人が顔を顰めるくらいに投げ出され、両手は祈るようにゆるく組まれている。いつもは品よく伸びた背筋はうなだれるように深く折り畳まれ、乱れた髪が今にもその膝にかかりそうだった。

 その光景に、ぼくはひどく胸が突かれた。

 乱れてシワの入ったシャツも、飾り気のない白い壁も、薄汚れた元は白いタイルの床も、何もかもが調和して美しい一枚の絵のようだった。夜の七時くらいだろうか。おそらくは警察が一番慌ただしい時間で、辺りは雑然とした喧騒に包まれている。その中にあって、彼の周りだけはノイズキャンセラーを通したようにひそやかだ。

 ぼくはそっと深呼吸をして、口角を上げた。

「ブライアン! 来てくれて助かったよ。ごめんな、こんな時間に変なことに巻き込んでさ」

 ブライアンがはっと顔を上げて立ち上がった。彼は疲れ切っているように見えた。顔にかかる影は濃く、目元の皺がいつもよりも深い。ぼくのせいで男が疲弊している姿にどこか仄暗い満足を覚えながら、続ける。

「心配かけたよね。ところで、これってまだボディガードの料金範囲内かな?」

 顔に深い影を刻んだまま、ブライアンがガタついた足取りでぼくに近づいてくる。怒られるかな、と思った。その方が気が楽だ。いつものように不注意なぼくを、外に出るなら一報入れろと言われていたのにごまかし続けたぼくを、思い切り叱りつけたらいい。

 けれどブライアンは、ただこわばった手でぼくを抱きしめて深く息を吐いた。

「……店の前に、見覚えのあるショッピングバッグが落ちていて」

 そういえば、いつの間にかピンクグレープフルーツジュースの入った袋がぼくの手元から消えていた。ブライアンの隣に置いてあったあのしなびた白い布のかたまりは、ぼくが落とした買い物袋だったのか。

 ぼくを抱きしめるブライアンの腕に力がこもった。耳に触れる男の柔らかい唇が、微かに震えるのを感じる。

「おれは、お前がまた自分への暴力を受け入れてしまったんじゃないかと、そう思って」

「はは、お前ってさ。ホントに……」

 明るく笑うつもりだったのに、ぼくの意図に反して声はうわずってひび割れた。本当にきれいなやつだ。このきれいなものを、ぼくだって昔はただ眺めているだけで幸せになれたのに。

「無事でよかった。よく逃げてくれた、ルーク。ありがとう」

 どうしてお礼なんかいうんだろう。ぼくはあの時諦めかけていた。自分で自分を助けることを――お前がかけてくれた言葉を思い出さなければ、ばーちゃんがぼくのそばにいてくれなければ、ぼくはたぶん、あのベースボールキャップの悪意を受け入れていた。

 だって、ぼくはどうしようもないやつなんだ。

 ばあちゃんは、自分が死んでしまってからもぼくを助けてくれるような人なのに、どうして、ぼくは誰のことも助けてあげられないんだろう。

 ――もしわたしが、あの時与えられた役割をきちんと果たせていたのなら、彼は今も生きていたのではないですか?

 違うんだ、カシム。

 蘇った青年の言葉に、ぼくは心の中で強く首を振る。

 違う、君のせいじゃない。ぼくなんだ。

 あの日、彼のことを助けたいだなんて思い上がって、無責任な言葉でアランをその気にさせて、彼の背中を押してしまったのは。

 彼からこの世の全ての希望を奪ってしまったのは、ぼくなんだよ。

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