5-5 (帰り道)

 気まずいというほどではないけれども、やや途切れがちな会話を交わしながらぼくとカシムはブリズベン中心街にあるぼくの家に向かって足を進めていた。

 ほとんど追い出されるような形でレキサンドラに店を出て、だいたい五分くらいが経過していた。ぼく達の一番ホットな話題であるアランの同行者について話をしていたカシムが、ふと口をつぐんだ。思わず、不自然に会話と足取りを途切れさせた青年の視線を辿る。

 どんな人々をも背景に取り込んでしまう夜の街にあって、それでも完全には取り込まれていない青年。彼の視線の先には、夜の繁華街に完全にその身を溶け込ませた人影が見えた。背が高くて、朴訥とした感じのハンサムガイ。

 人影を見つめたままたっぷりと五秒ほどの時間を使って、ぼくはようやくその人影が誰なのかに思い至った。ブリズベンがコンパクトにまとまった街だと思い知るのはこんな瞬間だ。知り合いに出くわすなんて偶然くらいじゃ今さら驚きはしない。ましてやお互いの生活圏が中心街にあるとなればなおさら。

 大きな歩幅で一心に車道を横切っていく赤髪の青年に、ぼくは声をかけた。

「イーサン!」

 隣のカシムがぎょっとした目をぼくに向けた。続いて、ぼくの声に気づいて振り返ったイーサンもまた、カシムとそっくり同じ表情でぼくを見る。二人の視線に、ぼくは遅ればせながら前回のお茶会が、今の雰囲気なんて比べ物にならないくらいとんでもなく気まずいものだったということを思い出した。

 まあいいか――と開き直って、ぼくはそのままイーサンの元に近づいていく。

「久しぶりだね。元気にしてた?」

 距離が近づくにつれてイーサンの表情が徐々に嫌そうなものへと変わった。そしてさらに近づくごとに諦めへと変化していく。隣のカシムの心情の変化だって似たようなものだろう。

 ついにすぐそばにまでやってきたぼく達に向かって、イーサンがため息をついた。

「……別に、久しぶりというほど時間経ってないでしょ……」

「そうだっけ。最近色々ありすぎてさ、君に前回会ったのも数ヶ月前のような気分なんだ」

 イーサンが背中を丸めるように顔をうつむけて、ぎこちない仕草で体をゆらゆらさせた。しかめられた赤茶色の眉毛が、同じ色の前髪の隙間から不機嫌そうに顔を覗かせている。

 相変わらずな独特の間を置いて、イーサンがぼそぼそと声を落とした。

「ぼく、まだ若いんで……」

 思わず顔が引きつる言い回しも相変わらずのようで何より。

「君は学校帰り? 家はこっち方面なの?」

「……むしろ二人は、なんでこっちから……?」

 そう言って、イーサンがぼくとカシムの背後に視線を送った。夜の繁華街の中心部から、昼の繁華街方面へ。確かに、今の時間であれば人の流れは逆の方が多いだろう。

 青年の質問にぼくが答える前に、隣のカシムが口を開く。

「わたしとルークは少しの間外で会って、今から帰るところなんです」

「そうそう、カシムが送ってくれるっていうから」

 イーサンの動きがぴたりと止まった。ぼくとカシムを交互にまじまじと見つめる。

「え……二人は付き合ってる……?」

「違う違う」

 青年の勘違いに、ぼくは笑って手を振った。はたからみれば、こんな明るい時間に成人男性が家まで送ってもらうというのは、確かに少し奇妙なことだろう。しかも、ぼくの家は人通りの多い街のど真ん中にあるのだ。

 隣で苦笑でもしているであろうカシムの顔を想像しながら、ぼくは笑顔で続ける。

「ここ最近ぼくの周りで変なことが続いているから、みんながちょっと心配してくれてるだけなんだ」

 イーサンが驚いたように目を見張って、それを左右に動かした。今気がついたんだけど、前回会った時には緞帳どんちょうのように顔を隠していた前髪が、今日は一部セットされている。通りで前回よりも表情がよく見えるわけだ。前髪が少し上げられているだけで、前回と比べて驚くほど印象が違って見えた。

 ぼくの表情に気がついたイーサンがさらに背中を丸めた。前髪を召喚しようとして無意味にかぶりを振る。

「続いてる……?」

「と言っても二件だけだけれどね」

 口にした瞬間、左頬に強烈な視線を感じた。そういえば、ドリンクスパイキングのことは学生達に伝えていなかったんだったっけ。

 カシムの突き刺すような視線に冷や汗を流すぼくをちらりと見て、イーサンはすぐに再び顔を伏せる。

「……よく、分かりませんけど……どうぞお気をつけて……」

「ありがとね。君も気をつけて、寄り道して帰るんだろ」

 イーサンが再び嫌そうに顔をしかめた。プライベートなことには爪の先一ミリたりとも足を踏み入れてほしくはないと主張するようにぼくの言葉を無視して、青年は自身の腕時計に目を走らせた。釣られてそのデジタル画面を覗き見る。四時五十八分。

 時計に目を落としたまま、イーサンが別れの言葉らしきものをぼそぼそとつぶやいた。口の中に絡まる音の羅列を聞き取ろうと耳を澄ませるぼくとカシムに、くるり背を向けて足早に歩き去っていく。

 その背中を見送りながら、ぼくは落としたトーンで隣のカシムに問いかけた。

「そういえば、サム――刑事さんにイーサンの連絡先は教えた?」

「教えましたよ。捜査に必要だと言われたので」

「嫌味の一つでも言われるかと思ったんだけどなあ」

 許可なく人の連絡先を教えるなんてマナーがなっていないとか、自分の時間は貴重なのにとか、そういうありきたりな言葉を二倍くらい辛辣にして、二百度ほどねじったような言葉を。

「わたしが情報提供者だとイーサンが知っていたら嫌みも言われたでしょうけれど……そもそもロビンソン警部補は、誰から情報提供を受けたかなんて口にする人ではないと思いますよ」

「それはそうかも」

 青年の言葉にぼくは素直に頷く。

 そこから先は、さらに会話は途切れがちになった。ぼくもカシムもそうコミュニケーションに困るタイプではないけれど、ぼくはヒト属の中でも、一度何かを考え始めると口がうまく回らなくなる科に分類される。カシムはその辺り器用にこなす側の人間のようだけれど、ぼくに考える余地を与えてくれているのかやはり口数は少なめだった。

 クイーンズストリートに差し掛かかり、すぐによく見慣れたアパルトメントの正面玄関が目に飛び込んできた。思わずほっと安堵のため息が漏れ出た。お礼を言おうと青年の方へ顔を向けると、彼もまたぼくの方を振り返ったところだった。

「……それでは、わたしはここで。また、アランの話を聞かせてくださいね」

 そう言ってカシムが大人しく立ち去りかけたので、ぼくは少しびっくりしてしまった。うっかり漏らしてしまったもう一つの事件――ドリンクスパイキング――について絶対に問い詰められると思ったんだけど。

 ぼくの驚きに気づいたカシムが、視線を足元に落として微笑む。

「あなたの探偵さんは、頼りになる方のようですから」

 そういえばその頼りになる探偵さんとの口づけを、この青年には見られたんだった。

 青年と同じように視線を落としながら、それでもぼくは頷いた。

「……まあ、そうだね」

 ぼくの言葉に、青年が顔を上げる。

「ルーク、これは覚えておいてください。わたし達は本当に、あなたのために何かがしたいと思っているんです。わたし達に何かできることがあるなら、それを口にすることをためらわないでください」

「わかった、ありがとう」

 カシムが初めて会った時より少し大人びた顔で笑い、そのまま静かに身を翻した。青年の後ろ姿を見送り、ぼくもまた彼に背を向けて自動ドアをくぐる。

 メーガンの咎めるような視線をかいくぐってエレベーターに乗り込むと、クリーム色と金の壁にもたれそうになるのをなんとか堪えて正面を向いた。ひどい顔色をした男が、鏡越しにじっとりとした目でぼくを見つめていた。全く、メーガンでなくても眉を釣り上げたくなるようなひどい顔だ。青黒いくまに、どんよりと光のないヘーゼルの目。いつの間に彼はこんなに老けこんでしまっていたんだろう。――いや、いくらなんでも、いつもはもう少しはマシな顔をしていたはずだ。

 今にもばらばらになりそうな股関節を動かして、ぼくは自分の部屋の扉までたどり着いた。体ごと寄りかかるように鍵を開け、手からこぼれ落ちて床に散らばった消毒液に気づかないふりをしてそのままソファに倒れ込む。澱のようなものが体の奥から滲み出して、ぼくをソファへと縛り付けた。まさか自分がここまで疲れ切っているとは思わなかった。SNSを無意味にスクロールするくらいしかできそうになかったけれど、残念ながらデバイスはいつもの習慣でデスクに置いてしまっている。

 ぼくは自分が唯一できそうな作業を諦めて、眼球を動かして部屋を見た。インテリアデザイナーの事務所としては完全に落第点だ。デスクは乱雑に散らかったままで、台所には茶葉やコップが出しっぱなしになっている。ソファ前のテーブルにもカップ、皿、そしてすっかり当初の不気味さが薄れてしまったぼくへの重すぎる愛の手紙と、それを保管していたベージュの箱が置いたままだった。その隣には、手紙を封印するために箱に入れていた目玉のお守りが転がっている。

 青と白と黒色で構成された、ガラスの目玉をじっと見つめる。レキサンドラの店で垣間見たカシムの真摯な目が蘇った。手紙を見つめるクロエの冴えた目、アランに関わることなんだぞと訴えるヴィクトールの怒った目、アランの話を聞くイーサンの優しい目――彼らはこの手紙とアランの死に何かしらの関係があると考えていて、だからこそもう何もしてあげられないアランの代わりに、ぼくを守りたいのだろう。

 アランと話がしたいな、と思った。

 自分がどれほど友人達に思われていたのか、彼に聞いてほしい。

「……あの、カシムの真剣な目を見たかい、アラン? 君たちはきっと、いい友達になれた」

 その言葉を終えると同時に、ぼくは目を閉じて外の世界を遮断した。誰もいないところでつぶやく独り言はたいていただ虚しいだけの響きに終わるけれど、時々無性に自分自身の心を抉ることがある。

 そのまま少しの間記憶が途切れた。

 次に意識を取り戻した時、ぼくの体は記憶が途切れる前よりも重くなっていたけれど、少なくとも動き回れる程度に体力は回復しているようだった。

 深呼吸をして、そして一気に体を起こす。空腹なのか喉が渇いているのか、眠りたいのか体を動かしたいのか、自分の体が何を望んでいるかが分からない。冷蔵庫で冷やしていた浄水を一杯飲み、デバイスを手に取った。五時四十分。思っていたほどには時間は経っていない。

 そのままデバイスをポケットに突っ込んで、ぼくはふらふらと外に出た。なんとなく冷たくて甘い飲み物が飲みたい気がした。この家から最寄りのスーパーまで徒歩十五分、エレベーターに乗り込みながらふと、自分が一人で出歩くことへの不安がよぎった。

 けれど、その不安をすぐにぼくは打ち消した。レキサンドラの店から真逆の、街のさらに中心部への道のりだ。多いとは言えないまでも人通りは途切れない。危険な目に遭遇する方が難しいだろう。

 少しうつむきがちに華美なエントランスを横切っていると、それに気がついたメーガンが口角を上げて近づいて来た。

「ハイ、ルーク。こんなに時間にまたお出かけなの?」

「やあ。ちょっと買い物に行くんだ」

「買い物……。クイーンストリートモール?」

「ううん、ウールワースに。ジュースと炭酸が飲みたくてさ。ぶどうジュースを買うつもりなんだ。グレープフルーツでもいい」

 メーガンがほんの微かに視線を逸らせた。その視線が素早くエントランスの掛け時計を確認する。

 ぼくの視線に気づいたメーガンが、すぐにその目をぼくに戻して微笑んだ。

「そう。気をつけてね」

 彼女の言葉にお礼を言って、ぼくは自動ドアを通り過ぎた。アパルトメントの正面を走る道を右にすすむ。六時前のブリズベンはまだ十分に明るく、そして遠くには一つ人影が見えた。

 いつもの習慣に従って建物と建物の間を通り抜ける近道に入ろうとしたけれど、狭くて暗い裏通りを目にした瞬間に思いとどまる。この道を通り抜けたとしても、自分の身に何かが起こるとはやはり思えなかった。それでも、ぼくを心配する大学生たちやレキサンドラ、そしてブライアンの声に従って、ぼくはそのまま明るく開けた道を選んでスーパーへと向かう。

 結局危ないことは何も起こらないまま、ぼくはピンクグレープフルーツジュースのパックと炭酸水、それにビネガー味のポテトチップスとチョコチップクッキーを携えて来た道を引き返していた。歩くごとにどんどん体が軽くなるくなる日もあるけれど、歩くごとに体が鉛のようになっていく日もある。今日は明らかに後者だった。それに今になって強烈な空腹を感じ始めてもいた。家に帰ったら、ミックスナッツとライ麦パンを準備しよう――そしてその両方に蜂蜜を山盛りかけて食べるんだ。ライ麦パンにはバターもたっぷり塗って。

 やっぱり疲れてるな、とため息をつきながら足を引きずっていると、ポケットに入れっぱなしにしていたデバイスが震えた。あまり気は乗らなかったけれど、長年染み付いた習慣でポケットから機器を取り出す。コール相手はブライアンだった。

「ルーク、今どこにいる?」

 通話ボタンを押した瞬間、ブライアンが張り詰めた声でぼくを問い詰めた。心配をかけている自分の立場の申しわけなさと、ほんの少しのわずらわしさを感じながら答える。

「ええと、ちょっとスーパーに行ってて」

「ああ、メーガンに聞いた。今帰り道か?」

「うん。まだ店を出たばかりだけど」

「迎えに行く。お前に話さなければならないことが出てきた。くれぐれも裏道は通るな」

 迎えって、この十五分に満たない道のりを? ――と、思わない訳ではなかったけれど口にはしなかった。びりびりと電流でも走っていそうな低い声に圧倒される気持ちと、そしてぼくを心配して迎えにきてくれることへの照れくささに、ぼくは素直に「ありがとう」と返事をする。

「まあ、お前に少しでも早く会えるのは嬉しいよ」

 二秒にも満たない沈黙の後で、ブライアンがそれまでに比べてほんの少し緩んだ声をぼくの耳に吹き込んだ。

「……まっすぐに帰ってくるんだぞ」

「お前の方こそ早く迎えにきてくれよな」

 こんな言葉が自然と出てくるなんてね。

 我ながら呆れるほど浮かれたセリフに、ブライアンは生真面目に「分かった」と答えた。そこ微かに見え隠れする浮き足だった響きに、ぼくの耳はひとりでに幸せになってしまう。

 口元を緩めたまま、ぼくは通話を切ったデバイスをポケットにしまった。今なら部屋を一気に片付けられそうな気がした。自分の好意を喜んで受け止めてくれる相手がいるというのは、なるほど、確かに人を狂わせるほどの多幸感をもたらすものだ。

 口元の緩みを抑えられないまま顔を上げると、五十メートルほど離れたところからこちらに向かって歩いてくる人影が目に飛び込んできた。

 すぐそばの街路樹がざわめきながら身を揺らせ、姿の見えない鳥たちがけたたましく声を張り上げる。なんの面白みもないコンクリートの道を風が走り、堆積していたチリと葉っぱを巻き上げていった。

 まるで蜃気楼でも纏っているかのように、周囲から一際くっきりと浮き出る人影が、長い脚でぼくのほうへと歩み寄ってくる。――そんなはずはないのに、一瞬だけブライアンかと思った。道端には他にも何人かの人が歩いていたけれど、その人影だけが不思議とぼくの目を惹きつけたから。背はブライアンと同じくらい高い。それに体格も良かった。

 意識の半分以上をまだブライアンとの会話に持って行かれたまま、ぼくは無警戒にその人影を観察した。体にぴったり合ったブランド物のグレージュのシャツに、インディゴのストレートジーンズ。サングラスで覆われていて目元は見えなかったけれど、その薄い唇は笑みを形作っているように見えた。

 積極的に関わりたいタイプの人間ではないな、なんてことをぼんやり考えながらぼくもまた、引き寄せられるようにその人影の方に向かって歩き始めた。

 このままただすれ違い、五分後にはすっかり忘れるはずだった。それのに、その人影との距離が近づくにつれてなぜかぼくの体が急速に不調を訴え始める。手先が痺れたように震える。体の中心部が急激に冷えて、それなのに汗がじわりと額に滲んだ。

 自分の体の訴えに戸惑いながらも、ぼくはその人影から視線を引き離すことも足を止めることもできずにいた。その人影はよくあるキャップを被っていた。どこのスポーツ用品店でも売っていそうな、服装にそぐわない黒のベースボールキャップ。

 その帽子には見覚えがあった。

 薄暗い店の入り口を取られたあまり画質の良くない二秒ほどの映像が頭の中で再生され、その映像の中で黒のキャップを被った男が画面の左から右へ向かって歩き去っていく。

 ブライアンが店の店主から無理を言ってもらってきた短い監視カメラの映像と目の前の男が重なった瞬間、ぼくの心臓が大きく一度跳ねて呼吸を奪った。そのままどくどくどくと、肺を圧迫する勢いで早鐘を打ち始める。

 アランが死んでしまったその日の夜にぼくの飲み物に何かを入れて、そのままぼくを家まで送り届けたという男――戦慄と共に、それが目の前の人影と同一人物であると理解する。

「……なんてこった……ブライアン、ブライアン……」

 頼みの綱の元刑事の名前を口の中で唱えたけれど、算数で習った距離の計算を持ち出すまでもなく彼の迎えが間に合わないことぐらい分かってる。怪我をする前のあいつが、ぼくとの電話を切った瞬間に全力疾走でもしていない限り。

 その想像にぼくは少し冷静になった。例え手術後の脚でも、ぼくに何かあればブライアンが怪我を厭わず駆けつけてくれることは容易に想像がついた。――こんなことで彼の脚を悪化させるなんてことを許すわけにはいかなかった。落ち着け、ルーカス。自分でうまく対処するんだ。

 ふうっと息を吐いて胸を張った。真っ直ぐに前を向き、いつもより少し大きく腕を振って歩く。

 考えてみれば例えあの日、目の前の男が悪意を持ってぼくに近づいたのだとしても、今ぼくに何かをしようとしてここに現れたとは限らない。ここはブリズベンだ。偶然通りがかった可能性だって十分に高い。だとすれば、相手だってきっとぼくに気づいてなんかいないだろう。

 いや気づいていないどころか、ぼくのことなんて忘れているんじゃないだろうか。

 そもそも、彼があの日ぼくの飲み物に何か入れたっていうのもぼくの勘違いだってこともあり得る。ただ親切に、ぼくを家まで送り届けてくれただけじゃないか。――いや、ぼくが誰かに送り届けてもらったという記憶の方が勘違いで、彼はたまたまあの店に居合わせてうっかり防犯カメラに写ってしまった、見ず知らずのただの他人かもしれない。

 行動を起こさない理由を並べ立てている内に、思考の道筋が逸れていく。

 そういえば、元々あの夜の男のことを調べ始めたきっかけはぼくのアリバイだった。刑事に脅されブライアンに脅かされて、ぼくは薄い氷の上に立たされているような心もとない気分であの夜、ぼくと共にいた男に自分のアリバイを証明してもらおうと思い立ったのだ。あの時は自分でも呆れるくらい、自分のことでいっぱいになっていた。

 今はどうだろう。アランのいろいろな一面を知って、彼の中の自分の存在の意外な大きさを思い知っていく中で、自分の世界をただ守りたいという思いがいつの間にか別の願いに変容してしまったのは確かだった。おかしなことだ。ぼくはまだ、アランの笑顔ですら思い出せてはいないというのに。

 ――本当に、そう思う?

 青年の声がぼくの体の中でぽつりと反響する。

 ――ありがとう、ルーク。約束だよ……

 音の雫が波紋を呼び、静かに広がっていく。

 やがて全ての波も揺らぎも通り過ぎた、ひと時の空白が訪れた。

 クリアな鏡のように一切の揺らぎのない完全な凪の世界に、その時、ぼくが焦がれて焦がれてやまない女性の声が響き渡った。

 ――ルーク‼︎

 はっと現実の世界に引き戻された。なんの変哲もないコンクリートの一本道を、ぼくはいつの間にか半ブロックほど歩いていた。夕暮れのブリズベンに影を作り出す街路樹、視界の上部を鳥らしき黒い影が飛び去っていく。

 そしてあの夜の男が、ほんの三秒ほどですれ違う距離からぼくを見下ろしていた。

 彼の目はしっかりとサングラスに覆われていたというのに、一体どうしてそう確信したのだろう。

 彼がぼくのことを覚えているのだということも、彼がぼくになんらかの悪意を持って近づいたのだろうことも、ぼくは一瞬にして理解していた。

 


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