5-4(カフェ・リトルレキサンドラ再び)
レキサンドラの店は、ブリズベン中心街から少しばかり北東に外れたフォーティチュードバリー……からさらに少し外れた場所に位置していた。この辺りはブリズベンでも特に夜が賑やかな地域として名高く、おしゃれなバーからシロウトにはやや敷居が高い年季の入った飲み屋まで、さまざまなニーズに応えるあらゆる夜のお店が軒を連ねている。
もちろん昼間だって人が集まる地域ではあった。煉瓦造りの建造物やカフェ、それにチャイナタウンの赤い門――安心感を覚えるには十分な明るい雰囲気と、少しも酔っ払っていない健全な人々が作り出す昼の顔。けれどひとたび夜に転じると、ブリズベンとその周辺の中でも注意が必要な地域として知られる、やや危険な一面がそっと顔を覗かせるのだった。
駅の近くにあるウェスタンレッドシダーのベンチに腰をかけていると、程なく約束の相手が姿を見せた。
「こんにちは、ルーク」
どんな場所でもぶれることのない爽やかな笑みで、カシムがぼくに向かって軽く手を上げる。目的地を意識してか、今日は黒の襟付きシャツに濃い色のジーンズを身につけているけれど、残念ながら彼の育ちの良さは少しも隠せていない。
「カシム。相変わらず早いね」
「この時間の電車が一番都合がよかったので。あなたが先に着いているとは思いませんでした」
「自分が遅刻する確信があったからね。早めに来てここで仕事してたんだ」
そう言って膝の上のラップタップを指し示すと、カシムが興味深そうに視線を落とした。このパソコン自体は世界中どこにでも売っているものだから、ぼくが仕事をしている姿がもの珍しいのだろう。
「お忙しいところ、本当にありがとうございます。こんなにすぐにお時間をいただけるとは思っていませんでした」
「いいよ。ぼくの方こそアランの写真をありがとう」
「あの写真で問題ありませんでしたか? 高校時代のものなので、今とは印象が違うと思いますが」
「いや、助かった」
写真の中のアランは、確かにぼくの知る青年よりもずっと幼かった。あの年代の子たちはこうも短期間で成長するものかと感動はしたものの、それでも彼の面影はきちんと確認できた。
問題は、面影を見つけてなおアランの顔を思い出せないぼくの頭の方だ。写真がアランだということは理解できるのに、自分の中のアランの記憶は少しも蘇る気配がない。
「まあいざとなったらサムを脅しつけて、写真を押収するし」
「……まさか、ロビンソン警部補のことを言っています?」
「そのとおり。あいつ、ぼくに借りを作りまくっているからね。――あ、あまりぼくから離れて歩くなよ。この場所の背景に馴染まないやつなんて初めてだ」
「馴染んでいないなんて、そんなはずはありません、わたしはよくこの辺りを通りかかかりますし、わたしと同じような格好をしている人だってたくさんいます」
むっとしたように言い募りつつも、青年は大人しくぼくのすぐそばへとやってきて歩調を合わせた。程なく、ぼく達は目的の場所へと辿り着いた。壊滅的なネーミングセンスに反してスマートな外観のバーは、扉をくぐると今度は外観を裏切りオーセンティックで
「扉のタグ、もうOPENに変えておいてちょうだい」
ぼく達の来訪に気がついたレキサンドラが、カウンターの向こうから声をかける。すぐに反応してタグに手をかけた青年を見て「おや」と目を丸くした。
「ルーク、お前ってやつは地球が十回は滅亡したってくらい散々じれったい遠回りを重ねた末にようやく初恋の相手と付き合ったと思ったら、もう浮気ってわけなの? さすがのおれも付き合いきれないんだけど」
来店早々に放たれたボディブローに、カウンターに向かって足をすすめていたぼくは見事に近くの椅子に足を引っ掛けてしまった。石のタイルと細い木の脚が摩擦を起こして派手な音を立てる。
なんとか踏ん張って体勢を整え――後ろから二の腕を掴んで支えてくれた褐色の腕のおかげでもあった――ぼくは声を張り上げた。
「なんでそうなるんだよ!」
ぼくの声を無視して、レキサンドラがやれやれと首を振る。
「しかも、こんな清廉そうな子を……知らないわよ、どうなっても」
「違うってわかってるくせに……! そもそも、なんでぼくがあいつと付き合い始めたこと知ってるんだよ」
「ブライアンから直接連絡がきたんだよ。それにしても、浮気は冗談だとしても何事なの? 営業時間前に突然予約入れてきたと思ったらこんな――何というか、ちょっとここいらでは見かけなさそうな子を連れてきて」
レキサンドラの言葉に、大人しくぼくの傍らに佇んでいた青年がかすかに身じろぎをした。うっかり吹き出しそうになるのを堪えて、ぼくは続ける。
「時間についてはごめん。最近あんまり自由にうろちょろできなくてさ」
「まあ、事情はあんたの探偵から聞いてるけど。――初めまして、よね。おれのお城にようこそ」
「初めまして、カシムです。今日はわたしがルークにお願いして、このお店に連れてきてもらったんです」
「あら、そうだったの」
途端に上機嫌になったレキサンドラが笑う。
「歓迎するわ、カシム」
「ありがとうございます。お会いできてとても光栄です」
好感度二百点満点のあいさつに唇を吊り上げ、レキサンドラが再びぼくを振り返った。
「……ちょっと、こんな好青年をあんたは一体どこで捕まえてきたの」
「ぼくが捕まったんだよ、どちらかというとね」
しっかりと訂正して、ぼくはカシムの上腕を軽くこぶしでノックした。
「カシムとは共通の友人を通じて知り合ったんだ。ブリズベン大学の学生で、ミントのタブレット並みの爽やかな見た目に反してかなり一本気、頑固と言い換えてもいい」
「……わたしをそんな風に称するのはあなたぐらいです」
笑顔を引きつらせる青年の言葉を受け流して、ぼくは今度はレキサンドラの方に体を寄せた。
「こちらはレキサンドラ。ぼくと同郷なんだ。今はここのお店のオーナーだけど、ぼくが小さい頃は大学で革命を起こす方法を教えてた」
「社会運動だと何度言えば覚えるのかしらね、この鳥頭は」
低い声でそう言って、レキサンドラがカウンター越しに優雅に右手を――いや、左手を差し出した。
「アレキサンドラ・ローズブレイド。レキサンドラって呼んでちょうだい」
その大きくて骨張った左手を、カシムがばさばさのまつ毛に縁取られた青い目で驚いたように見つめた。滑らかな褐色の左手で、そっと握り返す。
「カシムです。わたしが左利きだと、よく気がつかれましたね」
「ぼくも気付いてたぞ。大学でイーサンとお茶した時、カップを左手に寄せておいただろ」
「……それは、気がつきませんでした」
「まだまだ観察力が足りない若者よ――いたいっ」
「人の紹介すらまともにできない若造が、ふんぞりかえるんじゃないよ」
ばちんと人差し指でぼくの腕を弾いて、レキサンドラが顔をしかめた。シュリケンを思い切り突き立てられたかと思った。
「この子をよろしくね、カシム。――ルーク、せっかくできたお友達なんだから大切にするのよ」
「オーケー、ママ」
気のないぼくの返事に鼻を鳴らして、レキサンドラがひらひらのレースの踊る胸を反らせた。鍛え上げられた両腕を組む様子は「願いをどうぞ」と主人に迫る青い魔人のようだった。
「まあいいさ。それで? おれはてっきり、ブライアンとのことで相談でもあるのかと思ってたんだけど、そういうわけではないのね」
「その話もいずれ聞いてほしいけど、今日は違うんだ。カシムが、ぼくと友人が出会った場所に来たがったから連れてきた」
「つまりどういうことだ?」
「ええと、わたしとルークには共通の友人がいるんですが、ルークがその友人とこの店で出会ったと聞いたので、ルークにお願いして連れてきてもらったんです」
「はあ、なるほど……?」
カシムの説明に、レキサンドラはさらに訝しげに頷いた。言葉の意味は理解できても、何かこう全体的に、何が何だかわからないのだろう。
「その共通の友人ってのは、おれも知っている子かね」
「どうだろう。ぼくとその友人が出会った時にはレキサンドラもいたけど」
「名前は?」
「アランです。アラン・マクスウェル」すかさずカシムが口を挟んだ。「わたしと同じくらいの年齢ですごく細い、黒髪黒目の男性なんですが」
「知らない名前ね」
そう答えて、レキサンドラがぼくに目を向ける。その視線の意味にすぐ気がついて、ぼくは力強く頷いた。
「ぼくはジンフィズにするよ」
「……この流れで誰が注文を聞くってんだ、ばかたれ。もしおれの話が聞きたいのなら、そのあんた達の友達について詳しく説明しろって意味よ」
そう言いつつ、レキサンドラはぼくに一杯のジンフィズを作ってくれた。そのままカシムの前にレモネードを置き、自分のためにアルコール分の薄そうなキールを作り始める。細いグラスにゆっくり白ワインが注がれるのを眺めながら、ぼくはため息をついた。
「すごい勢いで店に入ってきて、そのまま席に座っちゃったやついたろ。三ヶ月くらい前のことだから、レキサンドラは覚えてないかも知れないんだけど」
「三ヶ月前ねえ……言われてみればそんなこともあったような」
レキサンドラが記憶を辿るように視線を右上に泳がせる。記憶の糸をたぐる手伝いをしようと、ぼくは付け加えた。
「ほら、あんたがぼくに声かけてやってくれないかって頼んだやつだよ。それがきっかけで、ぼく達は友達になったんだ」
「あーはいはいはい、いたわそんな子」徐々に思い出してきたらしいレキサンドラが、唸りながら顎を大きく上下させる。「おれが行ったら怯えさせちゃうかもと思って、あんたに頼んだんだった。今も交流が続いているなんて、自分の慧眼にくらくらしちゃうね」
「それはホントに感謝してる」
ぼくの言葉に、キールを片手に悦に入っていたレキサンドラが眉を上げた。
「……なんだかやっぱりよくわからないねえ。あんた達の目的は、おれの店を見学することでいいのね」
「ああ、うん。ぼくはそのつもりなんだけど――」
「アランについてのあなたの話が聞かせてもらえるのなら、お聞きしたいです」
「……ほらね。絶対にそれだけじゃ済まないと思ったんだ、この面倒くさいライオンめ」
レキサンドラに目を向けたままわざとらしくこちらを見ない青年が、それでもぼくの言葉に口を曲げて不満を表現する。
そんなぼく達のやりとりを観察していたレキサンドラが、やがて手元のグラス視線を落としため息をついた。
「一昨日くらいだったかしらね。ブライアンもこの店に話を聞きにきたのよ。この男に見覚えはないかって、顔も見えない男の写真を見せられてねえ」
顔も見えない男の写真とは、例の体格がいいベースボールキャップの男のことだろう。ぼくにドリンクスパイキングをした最有力候補。
レキサンドラにまで話を聞きにきたのかと驚くぼくに、レキサンドラが続ける。
「その時にあんたの事情も軽く聞いたよ。友人を亡くしたって」
思わずカシムと顔を見合わせた。動揺を隠せないぼく達の様子にレキサンドラが目を細めて嘆息した。
「つまり、聞きにきたのは、その子の話なんでしょう」
どう答えたらいいのか迷いながら、ぼく達は二人そろって神妙に頷いた。レキサンドラが眉に皺を刻み、その人工的なまつ毛を伏せた。
「何度経験しても、若い子の喪失にはやりきれない気持ちになるよ。君と同じ歳だって? なんてこと。その子を悼むために、あんた達はうちに来たのね」
「そんなとこ」
「やっかいなことに首を突っ込もうとしているんじゃないだろうね」
「まさか」
「事件の真相なんかを嗅ぎ回ったりはしてないんだね?」
「そんなことしてない、誓うよ。少なくとも、ぼくはね」
隣で神妙に黙り込んでいた青年ライオンが、レモネードを取り落としそうになった。レキサンドラの重い視線を受けて、慌てて首を横に振っている。
「わたしもです、本当にそんなことしていません」
「立ち入った話になるけれど、その子は君の恋人だったの」
どうにもまだ納得できない様子でレキサンドラが質問を重ねた。確かに友人同士の出会いの場を訪ねたがる理由なんて、嫉妬に狂った恋人のわがままくらいしか思い浮かばない。
アランの恋心を知るぼくはどきりと心臓を跳ねさせ、カシムは再度首を横に振る。
「いいえ、わたしはアランの高校時代の同級生です」少し口をつぐみ、青年はその密度の濃いまつ毛を伏せて微笑んだ。「……友達になれればよかったな、と後悔はしています」
「いや、もうとっくに友達だと思うぞ。そんだけ執着して気を揉んで、心を痛めてるんだからさ。――というか、アランのことは君の友達として記憶してあげていてくれないかな。お願いだ」
青年がそのベージュの唇をきゅっと噛み締め、レキサンドラがぼくを見た。ぼくが口にしていたジンフィズを飲み込み肩をすくめると、レキサンドラは優しく目を細めてカシムにその視線を戻す。
「まあいいわ。おれにできる話はほとんどないけれど、聞きたいことは何でも聞いてちょうだい」
ぼくがすかさずグラスに口をつけた瞬間、カシムが口を開いた。
「アランが――その人がこの店に来たのはその一回だけでしたか?」
ほらきた。面倒くさいことになるぞ――なんてことを考えていたぼくは、続くレキサンドラの答えに反応が遅れた。
「あの後も来たわよ、一回だけだけれど」
「本当ですか?!」
カシムに一拍遅れて、ぼくもまた自分の腰掛けていたストゥールを蹴り飛ばした。
「嘘だろ!」
「本当よ。嘘なわけあるかクソガキ」
「いや、でも、だって……」
アラン本人が、ぼくと出会って以降はカフェ・リトルレキサンドラを含めたどのゲイバーにも行っていないと言っていたのに。
驚きと困惑で目をぱちぱちさせているぼくに、レキサンドラが軽く首を振って続ける。
「初めて見た時に比べてずいぶんと垢抜けてた格好をしていたけれど、間違いないわね。連れの男の後ろを暗ぁい顔をしてついてきていたわ」
「連れ?!」
ぼくとカシムの声が重なった。
「連れがいたの、レキサンドラ! け、刑事さんに伝えなきゃ」
「刑事い? なんで刑事になんて」言葉の途中でレキサンドラが顔をこわばらせた。「……あぁら、やだ。あの愛らしい刑事が言っていたのはあの子のことだったのね」
「オリバーのやつ、レキサンドラにまで話聞きにきたの? あ、そういえばこの店について口を滑らせたのぼくだった気がするな――いやそれよりも、刑事さんが聞きにきたのがアランについてだって分かんなかったの? 二回目に来たことは覚えてたのに?」
「見せられた写真の印象が全然違ったんだよ。刑事に見せられた写真ではあの子もっとこう、よくいる感じの青年だったから」
「そういやヘタな変装してたな、アラン……」
この店で初めて会った時も、そしてぼくに会う時だっていつも。初めてサムとオリバーがぼくの事務所を訪ねてきた時、見せられた写真の彼があまりにも普通の若者で、ぼくだって少し驚いたのだ。すぐに彼だと分かったのは、レキサンドラと違ってぼくが何度も彼と会っていたからに他ならない。
レキサンドラが落ち着かない様子でグラスを空にして、二杯目のキールを作り始める。
「うっかり覚えてないって答えちゃったわ。刑事に連絡した方がいいかしら」
「うん、そのほうがいいと思う。――ねえ、レキサンドラ。ちなみにそれっていつぐらいの話?」
「初めての来店から、割とすぐのことだったよ。二ヶ月前くらいだったかしら」
ということは、アランがぼくにもうここには来ていないという言葉は、アランがあえてぼくについた嘘ということになる。どうしてアランは、カフェ・リトルレキサンドラへの二回目の来店をぼくに隠したんだろう。
考え込むぼくをよそに、カシムが質問を重ねた。
「ちなみに、その連れがどういう男だったか教えてくれませんか」
「そうねえ……そのアランって子よりかは背が高かったわね。体格がとにかく良くて。なんだか真逆の二人だねって思ったのよ」
「年齢はぼくやアランと同じくらいでしたか?」
「そうだったと思うよ。まあ、もう少し上って言われても違和感はないけど」
「服装や髪の色などはわかりませんか?」
「髪色は、覚えてないわね。確かキャップを被ってたような……」
「その男を特定できるようなものは何かありませんか? 雰囲気や特徴など?」
「雰囲気ねえ。こう、場慣れした様子の生意気そうな感じで」
「それでは彼は――」
「ちょっとお待ちなさい、坊や」
カシムの怒涛の質問をレキサンドラがその力強い手を優雅にあげて静止した。もどかしげな青年の視線を冷静に受け止めて続ける。
「……君、何か知っているのね」
カシムがようやく口をつぐんだ。緊迫した雰囲気を壊さないようグラスを左手に握りしめて二人を見守っていたけれど、どうしても我慢できなくなってぼくは口を挟んだ。
「何かって、どういうこと? カシムが一体何を知ってるって?」
ぼくの言葉に青年がためらうように視線を彷徨わせ、そして横目でぼくの様子を伺う。わけがわからないままその視線を受け止めていると、カシムが俯いて視線を断ち切ってしまった。手元のレモネードに避難させていた視線をレキサンドラに戻して、青年が続けた。
「ただわたしは、自分の中の違和感が正しいのか確かめたいだけなんです、レキサンドラ。その男からあなたは直接注文を受けませんでしたか。その男の目の色は、何色でしたか?」
ぼく達の様子をじっと見守っていたレキサンドラが、カシムの質問にふと動きを止めた。何かを考え込んでいるその顔が、徐々に険しくなっていく。キールのすぐそばに置いていたその大きな手が小さく跳ねた。
「……レキサンドラ?」
「そうか。つまり、そういうことか……」
凍りついたように宙を見つめながら、レキサンドラが低くうめいた。何事かと固まるぼくとカシムを交互に見る。
「悪い、二人とも。ちょっとこれ以上は、おれからは答えられねえわ。ルーク、扉のタグをCLOSEに変えてくれるか?」
「えっ、お店閉めるの?」
「アランの連れが一体どうしたんですか」
唖然とするぼく達に向かって、レキサンドラが淡々とした様子で首を横に振る。
「夜にはまた開けるよ、おれのボールを適任者に渡し終えたらな。カシム、せっかく来てくれたのに本当に申し訳ないが、今日の話はここまでだ」
「適任者とはどういうことですか? なぜわたしには話をしてくれないんです」
頑固なライオンの本領を発揮して、カシムが低く食い下がった。レキサンドラが諭すように優しく微笑む。
「そいつが元専門家だからだよ。ルークから事情を聞いて、色々調べて回っている」
カシムの顔に微かに傷ついたような表情がよぎった。青年がいまだにこの件に足を踏み入れたがる動機を薄々理解していたぼくは、思わずその表情から視線を逸らした。
レキサンドラ――いや、もうマックスと呼んだ方が良さそうだけど――が音声アシスタント機能でブライアンの連絡先を呼び出しながらてきぱきと言った。
「今日のことはそのうち埋め合わせをさせてくれ。カシム、こんなことを頼むのはおれの信条に反するし、正直なところ非常に心苦しいんだが、こいつを家まで送ってやってくれねえかな?」
「わかりました」
「いらない!」
カシムとぼくの声が重なり、レキサンドラがカシムに向かって頷く。
「助かるぜ。君も今日は寄り道せずに、気をつけて帰ってほしい」
「なあ、ブライアンから何を聞いたか知らないけどさ。こんなことカシムに頼むなんてらしくないよ、レキサンドラ。もしぼくじゃなくて、カシムに何かあったらどうするんだよ」
レキサンドラがぐっと口をつぐんだ。すぐにぼくの両頬をその大きな手で包み込み、ぼくの目を覗き込む。
「念のためだよ。おれだって、お前達がこのブリズベンのど真ん中で誰かに襲われるなんて思っちゃいないさ。でも今だけは、おれ達の心の平穏のために大人しく守られてくれないか」
その言葉に同意するように青年が頷く。
「わたしもあなたを送ったら、そのままセントラルステーションから電車で帰りますから。ここから最寄りの駅まで歩くより、よほど安全です」
今度はぼくが言葉に詰まる番だった。それは確かに、その通りだった。それに、ここまで言われて自分は大丈夫だと言い張る方が自分勝手だということくらい、ぼくにだって分かる。
カシムがレモネードを飲み干して立ち上がった。それに続こうとジンフィズに手を伸ばし、その直前にグラスをレキサンドラに奪われる。
「ジンフィズの続きは、次に来た時な」
「ぼくのジンフィズ……!」
恨めしくグラスを見つめるぼくに、レキサンドラが逞しい腕でそっと触れた。
「しばらくは大人しくするのよ、坊や。おれだって、ブライアンほど確信を持ってあんたが危険に晒されていると信じている訳じゃないけどさ。でもまあ、世の中には狂った理由で人を傷つける人間は一定数いるからね」
先達の言葉にしぶしぶ頷いて、ぼくはカシムに目を向けた。青年はすでに帰り支度を終え、扉のタグをひっくり返しているところだった。
青年がひどく真剣なブルーアイズでぼくを見た。その目に小さくため息をつくと、ぼくはたくさんの疑問と不完全燃焼な思いを抱えたまま、カシムと連れ立ってバーを後にした。
去り際に店の掛け時計に目を走らせる。
短針は四と五の間に、長針は九の真上に――時刻は午後四時四十五分だった。
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