6章 ブライアンの秘密とマティ ()

 まずは落ち着いて、自分を立て直さなきゃいけない。

 鍵を差し込みながら、ぼくは自分に言い聞かせた。くそ、鍵が右に回らない。どうやら鍵は閉めずに出かけていたらしい。初めから気づいていたら、鍵を開けようとする労力を節約できたのに。

 改めてドアノブに手をかけながら、ぼくは内心で続ける。

 罪悪感で自分勝手に苦しみ続けるなんて、不健全だし傲慢だ。そんなことくらい、ぼく自身の短くて恵まれた人生経験を省みたって明らかなことだった。だいたい、罪悪感に囚われるよりも状況を改善するために実際に行動を起こす方が、自分にとっても相手にとってもずっと大事なのだ。

 だから、カシムは自分なりに考えて行動を起こした。ヴィクトールやクロエが何だかんだとぼくと会ったり会いにきたりするのも、たぶんそういうことなのだろう。たとえそれが見当違いの罪の意識であったとしても。そう、彼らの自責は見当違いだ。彼らは、直接アランの背中を押したわけではないのだから。

 呼吸が止まりそうな胸の痛みに耐え、ぼくは玄関の扉を開けた。ぼくに続いて、長身の美丈夫もまたドアをくぐる。

 ばーちゃんだったらどうするだろう。

 もし、今ばーちゃんと話ができたなら、彼女はぼくにどんな言葉をかけるだろう。

 小柄できびきびとしていて、母さんと同じくらい気が強い人だった。ぼくとそっくり同じ色の目はいつだってぼく自身ですら気づかないようなぼくの心の奥を見通して、シワに囲まれた大きな口はどんな時でもぼくが一番必要としている言葉をくれた。 

 ハーブなのか雑草なのかよくわからない緑に囲まれた家に住んでいて、その家の中にはぼくの知らないものがたくさん置いてあった。手入れは行き届いているけれど古びた印象が拭えない人形や、何にどう使うのか全く想像ができないような調理道具、チョコレートクッキーが詰まった缶、手紙、大きな花瓶、目玉を模したお守り――雑然とした印象なのに調和が取れた空間。その片隅にそっと足を踏み入れるだけで、自分が大切に扱われたような気がしたものだ。

 そういえば、ばーちゃんの家で暮らし始めてしばらく経った頃に、ふとばーちゃんがぼくを見て言った。

 ――罪悪感は、自分を大切にすることと真逆の行為だよ、ルーク。

 例によってうまく意味はわからなかったけれど、それでもとにかく罪悪感はよくないものなのだろうと考えたぼくは、試行錯誤の末に罪悪感で身をすくませる代わりに部屋を片付けることを覚えた。母さんを置いて家を出たこと、何気ない一言で相手を傷つけたこと、みんなが当たり前に知っていることを知らなくて、周りの人にむだな時間をとらせてしまったこと。

 そんな情けなさや罪の意識は全てモップと雑巾で片付けて、すくむ代わりに行動を起こしてきたんだ。

 だからこの事態も、自分でちゃんと対処できるさ――そう自分を説き伏せて、ぼくは廊下を左に折れて事務所へと足を踏み入れる。

 目にしただけで回れ右をしたくなるような乱雑な空間は、今のどん底の気分を立て直すにはおあつらえむきの散らかりぶりではあった。きっとばーちゃんは、ぼくの顔とこの部屋を見て呆れた顔で笑うんだろうな。

 自然と口元が緩んだ。この想像が正しいのかどうか答え合わせをしたかったけれど、ベースボールキャップの男から逃げている時には確かに聞こえたばーちゃん声は、今のぼくには届かなかった。

「手を、洗わなくていいのか」

 ぼんやりと事務所を眺めながら棒立ちになったぼくに、傍らの男が声をかけた。そうだった、まずは手を洗わなくちゃ。自分がまずやるべきことを思い出し、ぼくはようやくほっと息をつく。

「うんうん、洗う洗う。ごめんな、我ながらちょっとびっくりするくらい散らかってるや」

「このくらいなら、散らかっているというほどでもないよ」

「……まあとりあえず片付けるから、お前はソファにでも座っててよ。積もる話はその後でもいいだろ?」

「わかった、お前が気になるというならそうしよう。だが役割の分担には異論があるな。お前が、ソファだ」

「このくらい別に――」

 食い下がるぼくを置き去りにして、ブライアンはさっさとキッチンへと入っていった。すぐに手を洗う音と、それに続いて食器を洗い始める音が聞こえてくる。少しの間口を尖らせて様子を眺めてから、ぼくは大人しく洗面台で手を洗い、事務所に引き返してソファに体を預けた。

 その次の瞬間、体が浜辺の砂城ほどのあっけなさでぐずぐずと強度を失う。一度このソファに寝そべったら最後、しばらくは起き上がれないってここ数日で学んだはずだろ、ルーカス・ポッター。

 いっそのこと、もうこのソファを手放してしまおうか。

 自分の『事務所』に致命的な打撃を与えるアイデアを精査している間にも、ぼくの頭はきつく封印した蓋を押し上げて、向き合いたくない問題をぼくに突きつけようとする。

 アランはあの日、ひどく参っていた。

 ぼくと会う時はいつだってぎりぎりの状態ではあったけれど、あの日は喪失と絶望で言葉も出ない有様で、なんとか彼から教科書や本が燃やされてしまったのだと聞き出すまでに一時間もかかった。

 そしてぼくはその話を聞いて、救いがたいことに、彼の絶望がわかると思ってしまったのだ。

 ぼくは自分の小学生の頃の話を青年に語って聞かせた。あの頃は、クラウスの家に遊びに行った時にもらった一振りの箒がぼくの宝物で、これがあれば自分の家もぴかぴかになるものだと信じていた。母がどれだけ嫌がっても手放さなかった、ぼくの夢と憧れの象徴。

 けれどそんな魔法の箒は、あっさりと燃やされてしまった。

 もうずいぶん昔の話になるのに、あの時の喪失だけは生々しくまだぼくの中に息づいていて、ぼくは話しながら思わず苦笑を漏らしたのだった。

 アランに、その喪失がどれほどの衝撃なのか分かると伝えたかった。それでも、本当に大切なものは何一つ失われてなんかいないのだと教えたかった。

 ぼくは、ぼくの語る言葉で、彼の心を軽くしてあげたいと思ってしまった。

 ぼくは君に何を言ってしまったんだろう。

 人生を前に進めるって、いったい何をしようとしていたんだい。

 ぼくは、君と一体なんの約束をしたんだ、アラン――

 何かの力に叩き起こされるようにソファから身を起こし、ぼくはキッチンへと向かった。片膝をついて食洗機の中に手を伸ばしていたブライアンが、ぼくを見て少し驚いたように目を見張って立ち上がる。

「どうした? 飲み物のリクエストなら――」

 男の言葉を無視して、ぼくは思考を振り払うように足早に彼の方へと近づいていく。彼のすぐそばへと、触れるか触れないかのぎりぎりの距離まで。体に張り付いて少しよれた白いシャツから、男の熱と匂いがはっきりとぼくに届いた。男が戸惑ったようにその筋肉質な体をぼくに向ける。彼がかすかに身をひいたから、その分だけぼくは身を乗り出した。

 そして、彼の目を至近距離からじっと見つめた。

 ぼくを、拒まないでくれ、ブライアン。

 出会って二十七年も経つのにいまだに見慣れない青灰色。優しくて厳しいブルーグレイに視線を合わせながら願った。

 もうこれ以上自分で自分を優しくする方法なんて思いつかない。自分を大切にしなきゃいけない理由だってもう分からない。

 だからぼくを拒まないでくれよ。

 そんなぼくの思いが通じたのか通じていないのか、ただ虚をつかれたようにぼくを見下ろしていたブライアンの肌が、じわりじわりと赤く染まっていく。その肌色に比例するように、彼の目が狼狽に瞬いた。

「ブライアン」

 ぼくの呼びかけに、ブライアンがはっとぼくの目に焦点を合わせる。ぼくの目の前で、彼ののどがごくりと大きく動いた。

 男が浅い呼吸を繰り返し、そのたびにシャツが張り付いた立体的な胸がぼくの体につきそうになる。そしてそのたびに、空気が徐々に濃く、引き返せないほど深く密度を帯びていく。遠く地上で車のクラクションが響いた。その音が溶けて消えると、そこにはただ二人の小さな息遣いだけが取り残された。

 ブライアンが酸素を求めるように口を小さく動かす。そしてそれをぐっと食いしばると、慎重にその両手をぼくの方へと伸ばし、そっとぼくの肩に添えた。

「……お前は、心身ともに消耗しきっているんだ、ルーク。今お前に一番必要なのは暖かい食事と睡眠だよ」

 思わず喉の奥から笑いが漏れた。

 ああ、そうだろうな。ぼくもそう思うよ。お前はいつだって正しい。

 でもぼくが今一番欲しいのは、そんな正論なんかじゃないんだよ。

 ぼくは両人差し指でブライアンのベルト通しを掴んで引っ張ると、そのまま彼との距離をさらに詰めた。そして、お互いの唇と唇が触れるか触れないかの位置で動きを止める。男の唇が「ルーク」の形に動き、その動きに合わせてお互いの唇の触れ合う部分もまた少しだけ動いた。

 彼の唇を擦るように少し顔を動かして、ぼくはゆっくりと自分の唇を彼の唇に沈めていった。そのあまりに柔らかくて温かな感触に、ぼくの心はさらに乱れた。端正な顔に収まった形のいい唇は薄くも小さくもないけれど、それでもこれほどの深みがあるようには見えないのに。自分の全てを受け入れてもらっているような錯覚を覚えて、胸が苦しくなる。こいつの人の良さを利用するようなマネをしておきながら、赦されることなんて望んでいないと心が叫んだ。

 それなのに、一方で心のさらに奥底では、深い安らぎをもまた感じていた。全く、我ながら始末に負えない。もがけばもがくほど、自分がばらばらになっていくようだった。

 体を硬直させたままぼくを口づけを受け入れていたブライアンが、突然小さく身を震わせた。昔抱かせてもらった子猫みたいだな、なんてことを懐かしく思い出した次の瞬間、ブライアンの両手がぼくの二の腕を力任せに握りしめた。驚きと痛みで反射的に顔が離れ、ぼくの目にブライアンの表情が強く焼き付く。

「お前……そんな顔……」

 ぼくの言葉ごと飲み込むようなキスが覆いかぶさってきて、男の表情を再び隠した。ぼくの知る幼なじみの姿からは想像もできないような荒い仕草だったけれど、でもまあ、なんともブライアンらしい実直そのものの口づけだね――なんて気を緩めた矢先に、リップ音とともに唇を離した彼に下唇に噛みつかれる。思わず体が跳ね、鼻の奥からくぐもったうめきが漏れた。身を引きそうになったぼくを宥めるように男が再び優しいキスを重ね、そしてぼくの呼吸が落ち着いたのを見計らって、今度は上唇に歯を立てる。

 二十五年以上の付き合いになるのに、噛み癖があるなんて初めて知ったぞ。

 非難を込めて彼の名前を口にしようとしたぼくの口の中に、男がすかさず舌を滑り込ませた。そのどこまでも甘い感触に、抗議の言葉なんて幼児向けの小さなキャンディーよりもあっけなく溶けて消える。ブライアンの舌が緩やかにぼくの舌をなぶり、器用に口腔内を探り始めた。同時に男の左手がぼくの背中に回り込み、ぼくをきつく抱き寄せてキスをさらに深める。胸から上が完全に密着し、彼の体温が体の内側に直接叩き込まれた。器用なことだ。一体、どこの誰にこんなやり方を教えてもらったのやら。驚くと共に、ぼくは隙なく自分を追い詰める幼なじみの手管にほんの少しばかりたじろいた。

 頭ではわかっていたつもりでいたけれど、自分が彼の知らない一面に足を踏み入れたのだと、ぼくはようやく自覚した。


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