5-3 (クロエの見解)
眠れないまま過ごす三日目の夜が明けた。
三日目ともなるとさすがに不安が募ってくる。暗闇に紛れた天井を見上げながら次の日のことをあれこれ心配するうちに、太陽はすっかりウォーミングアップを終えたようだ。カーテンの隙間から目が眩むばかりの強烈な光が差し込んできて、ぼくのまぶたの裏を赤く染めた。
いつもの習慣に促されるままに頭上に手を伸ばして、ごくクラシカルな目覚まし時計を手に取る。朝の八時、昨晩ベッドに入ってちょうど八時間が経っていた。気持ちの面ではまだいくらでも横になっていられるけれど、午前中の予定を考慮してしぶしぶベッドから起き上がる。ブランケットとシーツを乱したままおざなりに寝室のカーテンを開け、床に転がったクッションを放置したまま寝室を出た。
寝室から一歩一歩足をすすめるごとに、頭はなんとか動き始める。それでも肌の調子の悪さは誤魔化しようがない。朝の容赦ない光の中にあっては特に。日の光が存分に溢れる洗面台の鏡に自分を映してしばし全ての身支度を投げ出したくなったけど、今日の予定を考えたらそうもいかない。大人の気遣い、もしくはエチケットいうやつを自分に言い聞かせながらなんとか自分のコンディションを整え、そのままキッチンへ向かう。
コップ一杯の水を爽やかなミントの香る口の中に流し込みながらざっと昨日のメモに目を通し、今日の予定を組み立てた。冷蔵庫の中に放置したままだったインスタントのチコリー・コーヒーもどきをカップに掬い入れると、温度なんてもちろん測らずに電子ケトルのお湯を注ぎ入れる。ぼくがカフェインのない世界に絶望する前に、なんとか不眠が改善すればいいのだけれど。
約束した相手が到着するまで残り三十分。デスクトップを立ち上げ、立ったままスクリーンをのぞき込む。特に興味を惹かれないダイレクトメールが四通に注文した商品の発送を知らせるメッセージが二通、そして夜中に送られたらしいカークからのメッセージ。
DM類をまとめて削除し、そのままの勢いでいくつかの雑務を片付けていると、約束の時間ぴったりに玄関の扉のベルが鳴った。コンロに置いていたレトロな方のケトルに火をかけて、ぼくは玄関へ向かう。
「やあ、クロエ。いらっしゃい」
ぼくの歓迎のあいさつに、ノースリーブの黒のサマーニットを身につけたクロエがぎこちなく微笑んだ。警戒するように、ぼくの背後に目を走らせる。その意味に気がついて、ぼくは彼女を安心させるためにすかさず口を挟んだ。
「ああ、今日はブライア――ぼくの友人はいないよ。ヴィクトールたちは昨日、ずいぶんと驚かせちゃったみたいだけど」
「あ、そうなんですね」
途端にクロエの顔が安堵にほころんだ。考えてみればこのうら若き女性は、二度しか会ったことのない男に会うために、見ず知らずの男がいるかもしれない場所に来てくれたのだ。
「来てくれてありがとね、クロエ。お茶とケーキを準備するよ」
「そんな、とんでもない! わたしの方こそ今日は本当にありがとうございます」
笑顔を隠しきれない様子でそう答えたクロエが、次の瞬間かすかにその顔を曇らせた。彼女がメッセージで言っていた『確認したいこと』というのは、そうあまり気の進む話ではないのかもしれない。
そういえば二日前に彼女からメールを受け取った時も、文面から伝わってくる何かを感じたのだった。悲壮というほどではないけれど、思い詰めたような何か。そもそも彼女の『お願い』を受け入れるかどうかだって、ぼくはこの二日間散々悩んでいた。マイペースで不遜なヴィクトールの態度に押し切られてうっかり見せ物にしてしまったけれど、あんな悪意に満ちたものを若者たちに見せてよかったのだろうかという、ぼくなりの反省もあった。
けれど結局、クロエにだけ手紙を見せない言い訳を思いつかないまま時間は過ぎ、最終的にぼくは彼女の来訪を受け入れたのだった。
クロエを事務所に招き入れ、カカオフレーバーの紅茶とケーキを持っていく。可憐な学生さんは身の置き場に困ったような表情で、いつもよりも大きく見えるソファに座って縮こまっていた。慣れない場所で、自分はここにいるべきではないのではないかと自問してしまう気持ちがぼくにはよく分かった。せめてぼくの方は彼女を招き入れたことを自問しないようにしよう。
ぼくは大急ぎでそのまま奥の部屋へととって返して、おざなりに紐が巻かれた箱を持ってくる。
「お待たせ、クロエ。これが、ヴィクトールとカシムに見せた手紙だよ」
「ありがとうございます、ルーク。突然の無茶なお願いに、こんなにも快く応じてくれるなんて」
「……正直、ヴィックに比べたらちっとも無茶な頼みじゃないよ」
ヴィックの二日前の狼藉をすでに聞いていたのだろう。クロエがなんとか表情を整えようと口元をもごもごさせ、けれどすぐに堪えきれないといった様子で破顔した。
「……あいつ、ホントとんでもないですよね」
「やっかいなことに、彼のあの振る舞いにやや慣れ始めている自分がいるんだよね」
「分かります。そこが特に、やっかいなんですよ」
顔をしかめつつもどこかさっぱりとした様子でそういって、クロエが笑みの形の口元にティーカップを運ぶ。
そのまま、ぼくとクロエは少しの間ケーキを口にしながら小さな会話を重ねた。天体物理学ってどういうものかとか(ほとんど理解できなかった)、インテリアデザイナーって何をするのかとか(部屋の模様替えを専門家が大人げなく本気で取り組んでいるんだ)、好きな惑星はどれかとか(ぼくは土星)、最近のお気に入りの家具や雑貨は何かとか(新しい花瓶とのこと)。そんなちょっとした会話の間にも、手紙の存在は常に意識の上にあった。クロエが話を切り出したがっているのは分かっていたけれど、それでもぼくはまだ少しばかり、彼女にこの禍々しい言葉を見せることをためらっていた。
それぞれがケーキを三分の二ほど食べ終わった頃、ぼくはようやく重い口を開いた。
「えーと、あのさ、クロエ。この手紙のことなんだけど」
クロエの背筋が分かりやすくピンと伸びる。
「差し支えなければ、君の確認したいことが何かをまずは聞いてみてもいいかな」
ぼくの言葉にクロエの眉が困ったように下がり、大きな茶色の目が少しうろうろする。
「……もしかしたら、手紙の差出人が分かるかもしれないと思って」
思いもよらない言葉に、ぼくは飛び上がった。
「なんだって?! 本当かい」
「あまり期待はしないでほしいんですけど……この蓋、開けてもいいですか?」
「うん、もちろん。――ああ、内容は聞いていると思うけど、本当にけっこうぼくへの思いが溢れてるから気をつけて」
ぼくの言葉に頷いて、クロエがおもむろに黒いジーンズのポケットから薄手のゴム手袋を取り出した。
「わお、本格的」
「大切な証拠ですもん。それに昨日、手紙に触れなかったのがよほど悔しかったのか、ヴィクトールが持って行けってうるさかったんです」
「そういえば昨日二人とも、手紙に手を触れようとしてなかったかも」
「万一にでも、犯人の指紋を消しちゃうようなことしたくなかったんだと思います。わたしもそうです」
「はあ、そういうものか」
若者たちの気遣いに、ぼくはただ感心した。それにしても、カシムとクロエはともかく、ヴィクトールまでがそんなふうに気を遣ってくれていたのはなんだか意外な気がした。
そんなぼくの心が表情に表れていたのだろう。クロエが笑う。
「あいつ、人の心の機微以外には、けっこう気が回るんです」
「確かにそんな感じかも」
「……でも、最近は変わろうと努力してるみたい。相変わらず人を見下すような言動は直らないけど、人の大切なものを嘲笑うことがなくなりました」
「そっか」
アランをからかっていたことを、彼はやはり気にしていたんだ。
相槌に微量のほろ苦さがにじみ出てしまったのが自分でも分かった。クロエにもそれが伝わったのだろう、左頬に彼女のまっすぐな視線を感じる。
彼女の優しいまなざしになんだか居心地が悪くなって、ぼくはいそいそと箱の蓋を手に取った。
「ええと、この手紙なんだけど。君たちがこの事務所にやってきた次の日に入れられていたんだ」
途端にクロエの表情が引き締まった。彼女の視線を意識しながら、ぼくは箱の一番上に放り込まれた目玉のお守りを退けて、手紙をテーブルの上に並べる。
並んだ手紙に臆することなくじっと視線を落とし、この手紙に初めて悲鳴をあげなかった勇者が小さくつぶやいた。
「……あいつの言った通りだ。手紙の順番がバラバラ、そして書き初めの方が冷静、便箋にはロゴらしき変なマーク」
驚いた。
滲み出る悪意に気を取られるばかりで、手紙の差し出し人の精神状態がどのように変化していったのかなんて推し測ってみようともしなかったけれど――彼女の言葉を聞くまでぼくは、差出人は書き始めから激昂に駆られていたのだと思い込んでいたのだ。
「ヴィクトールがそんなことを?」
「はい。手紙の順番がてんでばらばらだった、ルークの管理は全くなっていない」
「……その通りだよ、ヴィクトール。でもこんな手紙、誰が丁寧に管理しようなんて思うんだ?」
ぼくの言葉に小さく笑いを落として、クロエが続ける。
「書き始めはまあ、冷静だったんだろうが、徐々に激昂していったみたいだって」
「ヴィクトールのやつ。その場にいたぼく達にも教えてくれたらよかったのに」
「あなたとカシムも当然、同じことを考えていると思ったんでしょうね。自分と同じものを見ている人が、自分と同じことに気づけないとは思ってもみないんですよ。ホントやなやつ」
隠しきれない賞賛の滲む声で吐き捨てて、クロエが手紙に視線を戻した。
「それで、この手紙なんですけど。たぶん一枚目がこれ。感情的に見せているけど、綴りのミスもないしあまり力も入ってない。冷静なんだなって分かります」
そう言って、彼女が並べられた七枚のうちの四番目の便箋を指差した。言われてみれば、その一枚は明らかに他の手紙に比べて文字に熱がこもっていなかった。一つひとつのアルファベットの大きさも比較的小さい。
クロエが続ける。
「それに、筆跡を変えようとしている形跡もあります。――ほら、こことここのp、それにこことここのR、同じようにクセづけようとしているけど明らかに違います。ここではクセが抜けちゃってるし」
「うわ、本当だ……!」
指摘されるたびに浮かび上がるヒントの数々に、ぼくは唖然としたまま耳を傾けることしかできなかった。ただの文字の羅列でしかなかった七枚の紙。そこから読み取れる情報を次々と丁寧に提示されて、ぼくの体にじわじわと鳥肌が立っていく。
クロエがさらに重ねる。
「冷静だけど頭が良くない、下手なやり方です。きっと本人が思う以上に追い詰められてるんだ……。この手紙、手に取ってみても?」
「ああ、うん。もちろん」
ぼくの言葉にひとつ頷き、クロエが青色の手袋で手紙の一枚をつまみ上げた。裏表を確認し、日の光に晒して表面を覗き込む。
クロエの大きな茶色の目が、痛みをこらえるように歪んだ。
「――便箋の端にある、このマークが何か分かりますか? 白地に型押しだから、ちょっと見にくいんですけど」
「ホントだ、確かに何かのマークがあるね……言われるまで気がつかなかった」
「これ、UQのロゴです。
「クイーンズランド大学って……」
「カシムの通っている大学ですね」
クロエがそう口にした瞬間、ぼくはまたしても飛び上がりそうになった。この聡明な女性は、あの頑固な青年ライオンが手紙の差し出し人だと考えているのだろうか。
「あの、クロエ、それ、その可能性はないとぼくは思う……!」
狼狽に跳ね上がった言葉に、ぼくの言葉の意味を正確に察した彼女は少し厳しい表情で頷く。
「うん、これはそんな単純なことじゃないはず……もちろん
そう言って、クロエは不愉快そうに眉を寄せた。しばらくじっと無言で手紙を睨みつけて、そしてためらいがちに再び口を開く。
「ここから先は、わたしの勝手な推測なんですけど。この手紙の差し出し人はなんとなく、あなただけではなく捜査関係者に見てほしくてわざわざこの手紙を書いてるんじゃないかな。この程度の細工で警察を煙に撒けるなんて思ってないでしょうに」
「刑事さんに見せるために? そんなことあり得るのかな」
「もちろんクイーンズランド大学の関係者が、うっかり自分の身元を特定させるような便箋を使っちゃった可能性もありますけど。でもこの奇妙な冷静さから考えて、わたしにはうっかりとは思えないです。……でもそうすると、どうしてカシム――もしくは他のクイーンズランド生を巻き込もうとしたのか分からないな。ただの紙を使うより、絶対にリスクが高いのに」
必死で話に耳を傾けていたぼくは、彼女の口にした疑問にほとんど反射的に思いつきの言葉を口にした。
「クイーンズランド生に対するいやがらせとか?」
その可能性はもちろんすでに彼女の頭の中にあったのだろう。小さく、でもはっきりと頷く。
「多少ヘタを打ってでも成し遂げたかった嫌がらせ、なら説明はつきますね。そこまでのリスクを冒すほどの憎しみや恨みが、クイーンズランド生に対してあったのならば、ですが」
ふと、この手紙の送り主はカシムがアランの特別だということを知っていたのだろうかと思った。刑事さんは、初めからアランの交友関係を知りたがっていた。もしこの事件が本当にアランに強い好意や執着を持つ人が関係していて、アランからカシムの話を聞いたことがあったのなら、カシムはきっとリスクを冒しても嫌がらせしたい相手として資格十分だろう。
一瞬にも満たない間この考えを目の前の女性に伝えようか悩み、ぼくはすぐにそれを頭の中で打ち消した。カシムが、当時のアラン自身ですら気づいていなかったほどの淡い初恋の相手だなんてことは、そうみだりに口にすべき話題だとは思えなかった。
気を取り直して、ぼくはあらためて口を開く。
「……ということは、この手紙の差出人は、カシムではないんだね」
ぼくの言葉にクロエが長いまつ毛を伏せた。
「わたしには答えられません。色々な可能性が考えられますから」
「でも、クロエは誰がこの手紙を書いたのか、ある程度見当がついているんだよね」
「手紙を見るまでは見当がついているつもりでいたんですけど。でも実は、手紙を見て分からなくなっちゃいました。候補が二人に増えてしまって」
「……二人にまで絞れているって、それはすごいね」
「もちろん、わたしが知っている範囲外の人であればお手上げですよ。だめだな、何かできることがあるんじゃないかと思って来てみたけど、妄想ばかりであまりお役には立てないみたい」
とんでもない謙遜だ。これだけの推理を披露されて役に立たないなんて言われたら、ただ手紙を封印して満足していたぼくはあまりに立つ瀬がない。
ありったけの尊敬を込めて、ぼくはクロエに心からの感謝の言葉を伝えた。
「そんなことないよ、クロエ。ぼくは正直、今日の君の話に感嘆しっぱなしだった。君の思いつきを話しにきてくれて、本当にありがとう」
ぼくの言葉に、クロエが少し照れたように笑う。
「少しでも、わたしなりのお礼ができたならよかったです」
「いやいや、どういたしまして……ええと、ぼくの記憶にある限り、ぼくは君にお礼をされるようなことはしてないと思うけど」
クロエが、やや咎めるように目を細めてぼくを見つめた。その視線にたじろぐぼくをしばらくじっと睨みつけると、そのままつんとあごを反らせて続ける。
「あなた以前、ヴィックにわたしへの助言をしましたよね。人の目に引きずられて生きるには、人生は短すぎるって」
「――言ったかもしれない。あまりちゃんと覚えてないけど」
「あんな言葉を残しておいて忘れるなんて!」ぼくの言葉に、クロエが思い切り目を釣り上げる。「あれ、すっごく痛かったですからね。痛くて痛くて、文字通りのたうち回ったんですからね!」
「ご、ごめんよクロエ。ぼくの言ったことなんて少しも気に留める必要はないよ」
「そんなわけにはいかないじゃないですか……! だってあなたの助言は正しいのに」
悔しげなクロエの言葉に、ぼくはどきりとした。『正しい』という言葉に、反射的に助言をしたことを後悔しそうになったけれど、あれはぼくじゃなくてばーちゃんの言葉だと思い直して口を閉じる。
狼狽するぼくに向かって、クロエが続ける。
「あなたはヴィックにこう伝言したんですよね。有象無象に意識を囚われて終わる間抜けな人生がご希望か?」
「いや、さすがにもうちょっと柔らかい言い方だったと……」
「アランの友人を名乗っておいてそれなら、君のIQはマイナス三百――」
「ぼくはそんなこと言ってないぞ、ヴィクトール!」
「まあ、途中からあなたの名前を借りて、自分の言いたいこと言ってるなとは思ったんですけど」
完璧なヴィクトールの口真似を披露していたクロエが、話し方を元に戻して言った。
「わたしのことを思って言ってくれてるんだということはわかるので、むかつくけど感謝はしてます」
「クロエは人間ができているなあ」
「全然、あなたに腹が立ったのも事実だし。的確に図星を指されるのが、こんなにもきついなんて」
そう言いつつも、クロエはさっぱりとした顔で笑った。
「でもわたしだって、彼の存在がわたしの人生にとって意味があったと思いたいです。アランと話すのは、いつでも本当に楽しかった。本人にはちゃんと言ったことなかったけど、大切な友達だったのに……彼との時間は永遠に失われてしまった。当たり前にあると思っている楽しい時間は、永遠ではないんだわ」
前向きなクロエの言葉が、ぼくの心に影を落とすのを感じた。自分よりも一回りほども若い女性の言葉に気付かされた。ぼくは未だに、ばーちゃんの死ともアランの死ともまともに向き合えていないんだ。彼女の言葉と共に増していく胸の痛みに、体の内側から切り裂かれそうになる。二人との時間がもうぼくに少しも残されていないなんて、そんなばかげた話があるだろうか。
クロエが続ける。
「わたしは、やっぱり今でも周りの人の目が怖いです。今でも、自分の言動が肌や性別でフィルターにかけられるのを見ると吐きそうになる。――でもそれ以上に今は、自分が本当にやり遂げたいことに集中できないまま人生が終わってしまうことが、何よりもおそろしい」
クロエがまっすぐに澄んだ目をぼくに向けた。その視線を受け止めるために、ぼくは自分の持てるすべての気力を総動員しなければいけなかった。あと少しでも気力が足りなければ、ぼくは間違いなくこの視線を受け止めきれずに、視線を反らしてしまっていただろう。
そんなぼくの気持ちを知ってか知らずか、彼女はただ優しく微笑んで続けた。
「それに気づかせてくれたから、あなたのためにわたしも何かしたかったんです」
「……あれは、ぼくのばあちゃんの言葉なんだ。ぼくの言葉じゃない」
「あなたの口から出てきた言葉なのに?」
「違うよ。ぼくは、人に気の利いたアドバイスができるような人間じゃないんだ」
しばらく不可解そうな顔でぼくを見つめていたけれど、やがてクロエは生真面目な様子でこくりと頷いた。
「分かりました。じゃあ、あなたとあなたのお祖母様にお礼を」
「うん」
「でも、あのアドバイスにわたしが感謝していることは忘れないでくださいね」
「あのさ、この間出会ったとある頑固なライオンが言っていたんだけど」
クロエの顔が、さらに不可解そうな表情に翳った。いたたまれなさにやや視線を泳がせながらぼくは続ける。
「誰かにアドバイスをする時って、実はそのアドバイスを一番必要としているのは言った本人なんだって」
「そのライオンのこと、わたし好きになれそう」
「今度紹介するね。――まあだから、本当に気にしなくていいよ。あのアドバイスはさ、たぶん本当はぼく自身のためのものだったから」
「あなたも、自分の望みを優先させないなんてことあるんですか?」
言われた瞬間よぎったのは、恋人になったばかりの幼馴染の顔だった。このアドバイスを口にした時、確かに色々理由をつけて彼から逃げ回っていて――ちょっと待った、それじゃあまるでぼくが、あいつと恋人同士になることを始めから望んでいたみたいじゃないか。
思わず頭の中のカシムとブライアンに向かって思い切り顔をしかめる。
「やっぱり認めたくない。ライオンの言葉になんて踊らされてなるもんか」
ぼくの言葉に、クロエはぼくと出会っておそらく初めての、心からの屈託のない笑顔で笑った。
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