5-2(あの日の夜の男について)
メーガン・ヴェルピライの出勤はたいてい、お昼を回った二時くらいだ。彼女のシフトを完全に把握していたわけではもちろんないけれど、ありがたいことにどうやらぼくは賭けに勝ったらしい。
カウンター奥の扉から姿を表したメーガンが、フロアで待ち構えるぼくを見て、綺麗に弧を描く眉をぐいっと持ち上げた。続いて黒いアイラインに縁取られた焦茶色の目を、すうっと細める。そしてワイアットに何かを二、三言告げると、そのままカウンターを離れて真っ直ぐにぼくの方へと歩み寄ってきた。映画のワンシーンを見ているような、優雅で威風堂々とした見事なウォーキング。コンシェルジュの制服である白いシャツと濃いネイビーのジャケットが、まるで舞台衣装のように背景に映えていた。パンツかスカートかは好きに選べるみたいだけれど、ぼくの知る限りメーガンは好んでいつもスカートを身につけていて、それが彼女によく似合っている。
アパルトメントが誇る随一のコンシェルジュ――ただし行き過ぎた活字中毒が玉に瑕――が、フロアの椅子から立ち上がったぼくのそばで立ち止まり、そのまま両手を腰に当てた。
「わたしに会いにきたということは、やはりただの手紙ではなかったのね。そうだとすると、ルーク。あなた少しのんびりしすぎではないかしら」
「おっしゃる通り……」
午前中に散々大学生二人に絞られたぼくが大人しく縮こまると、まだ何か言いたそうにしていたメーガンが気を削がれたように肩をすくめた。
「……まあいいわ。メモを準備してちょうだい」
慌ててデバイスを取り出すぼくに、端的に告げる。
「七月十三日よ。時間は夜の九時三十八分。――コンシェルジュのサポートは必要かしら」
間違いのないよう必死で日時を入力していたぼくは、カシムとヴィクトールへ向けてメッセージを送信しながら慌てて首を横に振った。メーガンが小さく頷く。
「必要であれば、助けを求めることをためらわないで。オーケイ?」
「分かった、ありがと」
ぼくの返事に再び小さく頷いたメーガンが、ぼくを見つめたまま赤い唇の端を持ち上げた。ヒールに包まれた脚を組み替えて、いかにも愉快そうに首を傾げる。
「……そろそろ顔パスにするべきかしらね」
「うん?」
「あなたの
すぐに誰のことか思い当たって、ぼくは少しうろたえた。しばらく視線を泳がせていたけれど、ついに観念してこくりと頷く。
「……近いうちにお願いするかも、その、顔パスってやつ。あいつ、ぼくが危険なことに巻き込まれるかもって本気で信じてるみたいでさ」
ぼくの言葉に、メーガンが真顔になった。
「ねえ、ちょっと言わせてもらうわね。あなたの状況認識は本当にその段階なのね?」
「どういう意味さ」
「あなた達お似合いねという意味よ。関係は進んだんでしょう」
どうして分かったんだろう――なんて、メーガン相手に考えるだけ無意味に思えた。自動ドアをくぐり抜けた長身の幼なじみに視線を移し、ぼくは小さく笑う。
「うん。どうやらぼく達は今、恋人同士というやつらしいよ」
口にした瞬間、急にその実感が湧いてきた。
実感が湧くと同時に、ぼくの心臓が少しずつ高鳴り始める。今までみたいに、ただパニックを起こして早鐘を打っているわけじゃない。脈打つごとに体が高揚して、同時に息もできないほど胸を締め付けてくる、あまりに懐かしいこの感覚。
ぼくと目があったブライアンが、目を細めて口角を上げた。安らかと言っていいほどの優しい笑みだ。光で縁取られたようにくっきりと背景から浮き上がる姿、動作のひとつひとつがあまりに印象的な、悠然とした立ち振る舞い――
「……
いぶかしげにぼくを見上げるメーガンに、ブライアンから視線を引きはがせないままぼくは続ける。
「どうしよう。ぼく、あいつのことが好きだ……!」
「……あーあ、そう。それは知らなかったわ。ハグはいる?」
メーガンが言い終える前に、ぼくは彼女に思い切り抱きついた。
「助けて、あいつが来る――今はちょっと棒立ちになってるみたいけど――一体、ぼくはどうしたらいいんだ」
ぼくの早口に、男一人分の体重を二本のピンヒールで難なく受け止めたメーガンが、優しくぼくの背中をなでた。
「今のハグを彼にもぶちかましてやりなさい。お勧めは玄関に入ってすぐね。行き着くところまで行けるわ、保証する」
「困るよ、そんなの!」
「あらあら、恋をしているのねえ」
まるで捕まえた虫を見せびらかしにきた幼児を見守るような笑顔でそう言って、メーガンが優雅にターンした。
「ハイ、ブライアン。ごきげんよう」
「やあ、メーガン。何か問題だろうか」
ブライアンの問いに、メーガンが非の打ちどころのない完璧な笑顔で答えた。
「わたしからは何も。詳しくはそこのかわいい坊やに聞いてみてちょうだい。――じゃあね、ルーク。顔パスの件、決まったらレセプションまで連絡して」
「うん。ありがとう、メーガン」
颯爽と歩き去るコンシェルジュの姿を見送るぼく達の間に、少し沈黙が訪れた。彼女がワイアットと話し始める様子を眺めながら、ブライアンが口を開く。
「顔パス?」
「先に言っておくけど、お前のことだからな」
ブライアンの言葉に含まれた胡乱げな響きに気づいて、ぼくは先回りして答えた。
「一応、その、ぼく達は恋人同士というやつだろ」
たっぷり時間を取ってから、ブライアンがぎくしゃくと頷く。
「ああ、そうだな。もちろんそうだ」
「ええと、部屋に行く?」
「そうしよう」
二十年以上の付き合いになる相手とのやり取りとは思えないようなぎこちない会話を交わして、ぼく達は足早にエレベーターへと向かった。そんなぼく達を、メーガンがレセプションから呆れた様子で見守っているのが目の端に映った。
「……戻るのは夕方って言っていなかったっけ。まだ三時過ぎだけど」
上昇を始めたエレベータの中でぼくが尋ねると、朝見た時よりかはやや全体的に乱れた様子のブライアンが、落ちてきた前髪を横になでつけながら頷く。
「一報入れるべきだったな。想定よりも早く引き継ぎが終わった」
「それはいいけど。ぼくまだ仕事が残ってるぞ」
ブライアンがぼくに視線を向けた。またしても胸が高鳴るのをなんとか誤魔化して、ぼくはその青灰色の視線を受け止める。
「仕事は忙しいのか?」
「……どうだろう。独立してすぐは、それこそ本当に地獄のような忙しさだったからなあ……。まあ余裕はある方じゃないかな、あの頃に比べればだけれど」
ぼくが言い終える前にブライアンの手が伸びて、ぼくの目元に触れた。その男の気遣わしげな視線に、ぼくは遅ればせながら自分が昨日全然眠れていなかったことを思い出し、先ほどの胸の高鳴りとは真逆の不安にうろたえてしまった。自分でも呆れるくらいあからさまに気分が落ち込む。この
けれどそんなぼくの気鬱とは裏腹に、ぼくを見つめるブライアンの目にはただいたわりだけが溢れていて、ぼくの胸は先ほどの高鳴りとは少し違う優しいリズムで鳴った。
高いベルの音が十五階への到着を告げた。ブライアンがぼくの目元から手を引いて、突っ立ったままのぼくの代わりに先にエレベーターを降りた。その背中を見つめ、思わず苦いため息をつく。
三年前と同じだ。信じられないスピードで毎秒毎秒、自分が彼に落ちていっているのがわかる。さすがにもう、自分の気持ちに素直に振り回されてやるような可愛げは持ち合わせてはいないけれど、取り返しのつかない深みまで引きずり下ろされるのはきっと、それほど遠い未来の話じゃない。
気を取り直して男を家に招き入れる。行儀よく手洗いを済ませたブライアンが、お茶を淹れようとしたぼくをキッチンから追い出した。
「おれが淹れるから、お前は早いところ仕事を片付けろ。リクエストは?」
「健康に良さそうなやつ。――ええと、ターメリックのお茶にしてくれる? リコリスとかカルダモンが入っている、黄色いパッケージの」
お茶への造詣がそれほど深くない幼なじみのために具体的な要望を伝えると、ぴたりと動きを止めていた彼が何事もなかったかのようにその動きを再開した。その様子につい小さく笑いを落として、ぼくは眠っていたデスクトップを叩き起こす。茶葉とティーセットの準備を終えた男が、ぼくのデスクの側を通り過ぎながら口を開いた。
「ところで、その仕事とやらはどのくらい時間がかかりそうなんだ?」
「やろうと思えば、何時間でも仕事を増やすことはできるね」
「明日以降のお前が困らない程度で頼む」
「四時間くらいかなあ」
そう答えて、ぼくはデスクトップ越しにちらりとソファの様子を覗いた。生真面目な熊が、さっそく巣作りを開始したようだ。ソファの前のサイドテーブルに、てきぱきと書類やラップタップを配置している。
キッチンの電子ケトルが水の沸騰を高らかに告げ、ブライアンが立ち上がった。そのひたむきな表情に、ぼくは目を覚ましたばかりのスクリーン上で意味もなくポインターをうろうろさせる。
「……ブライアン、お前の話にはどのくらい時間が必要?」
「三十分くらいだな」
「わかった。先にお前の話を聞くことにするよ」
元刑事の探偵が、もの問いたげ――というより探るような視線でぼくを見た。どうやらすっかりお仕事モードにバーは振り切れているらしく、先ほどのエレベーターで垣間見せた甘さのかけらは霧散してしまっている。
まあ、その方がぼくだって自分のペースを守りやすいというものさ。椅子の背もたれに体を押し付けて、幼なじみの探偵に向かって手をひらひらと振る。
「自分のことだから、もう少しきちんと主体性を持たなきゃと思ってね」
「いい心掛けだな」
言葉の割にどこか腑に落ちなさそうな男の様子に、ぼくは眉をひそめた。
「何か問題でも?」
「いや。お前の変化を歓迎するよ、本当に」
「まあ、仕事に集中するために早く話を終わらせてたいってのも本音だけど」
そう誤魔化して、ぼくは仕事用のデスクから立ち上がった。キッチンでブライアンからカップを受け取って、そのまま揃ってソファと斜め向かいのイスに座る。探偵とクライエントの正しい距離だ。
ブライアンが、自分のデバイスから何やら情報を引き出しながら口を開いた。
「十一日の夜に、お前と時間を過ごした男のことについてだが」
「ああ、大柄で筋肉質っていう例のやつな」
「お前が挙げた、特徴に当てはまりそうなお前の知り合いに会ってきた。五人とも別人だな」
「もう調べがついたんだ……!」
「不要かとは思ったが各人の調査記録と、裏を取った当日の動きをまとめたものを送る」
ブライアンがそう言った瞬間、ぼくの背後で情報を受け取ったデスクトップが澄んだ高い電子音を奏でた。
「朝の大学生二人は、特徴から外れていたな。一応調べておくか?」
「……いや、いいよ。二人とも当時は顔見知りですらなかったし」
「まあそれが賢明だろうな」
ぼくに肯定的な相槌を打ちつつ、伏せたブルーグレイの目には別の何かが見え隠れしている。けれどそれをぼくが問いただしたところで、こいつは素直に自分の考えを吐き出しはしないだろう。
諦めと共にため息をついて、ぼくは続ける。
「じゃあもう、調査は暗礁に乗り上げているってことかな」
「まさか」
どこまでも淡々とした、いかにもプロって感じの顔でブライアンが肩をすくめた。
「店頭に設置されてあったカメラのデータをもらった。帽子のつばが影になっているが顔の輪郭と体つきは確認できるから、この画像でも調査を進めるつもりだ」
「へえ、そういうデータってもらえるものなんだ」
「始めは断られたよ。だが、ドリンクスパイキングの可能性があると伝えたら、快くな」
そう言って探偵が淡い微笑をひらめかせた。優しげでいてどこか不穏なその笑顔に、ぼくは内心でお店の担当者にお詫びと祝福の言葉を唱える。
ブライアンが続ける。
「今日の目的はお前にその画像を確認してもらうことなんだが――念のために聞くが、大丈夫か?」
「ああ、うん。もちろんいいよ」
気軽に返事をして、そして一拍置いてからぼくはブライアンの質問の意味に気がついた。なるほど。元刑事はこういったことにも気が回るものなのか。
「……ありがとう、ブライアン。ぼくは本当に大丈夫だ。正直なところ、実態のない悪意の方が、ぼくにとっては恐ろしい」
「わかった」
短くそう言って、ブライアンがデバイスに画像を表示させる。想像していたよりも鮮明な画像だった。顔のパーツは確認することはできないけれど、彼の言う通り顔のラインと体つきははっきりと見てとれた。元刑事が心配するわけだ。たったそれだけの情報でも、自分の中のあの夜の出来事が急速に焦点を結び始めるのがわかる。
さらに注意深くその人物を観察する。
初めに聞いていた通り、髪の毛はブラックやダークブラウンよりかは明るい色のようだった。それに、本当に筋肉質で体格がいい。自分の魅力をよく理解しているのか、体のラインが出る伸縮性のあるシャツと、サイズがぴったりなジーンズを身につけている。五秒にも満たない動画だけれど、その堂々とした立ち振る舞いからは人目に晒されることに慣れていそうなやつだという印象を受けた。
時計は、たぶんけっこういいところのブランドもの。胸元に光ったのはドッグタグだ。そういえばぼくも、もっと若い頃には少し憧れたっけ。あまりにも似合わなくて、そのうち身につけるのをやめたのだった。
自分の記憶とその画像を詳細に照らし合わせ、ぼくは首を横に振る。
「……知り合いにはいないな。初めて見るやつだと思う」
「ありがとう。この人物について、もし何か心当たりを思いつくようなら教えてくれ」
「イエス・サー」
「おれからは以上だ。何かおれに聞きたいことはあるか?」
「お前って、
「いや。
ぼくの無茶苦茶な話の転換にも臆することなくしれっと答え、男がデバイスをテーブルに放り出した。
「まあ、朝のあれは大人げなかったと反省しているよ。我ながら少々浮かれすぎていたな」
「浮かれるって、お前が?」
「そうだ。まだ分かっていなかったのか?」
にこりと口角を上げて、ブライアンが腰を浮かせた。その意味に気がついてぼくも彼の目をじっと見つめ返す。
互いに目を瞑らないまま距離が近づき、そのままぼく達は三度目のキスをした。
昨日のキスは、なんだか現実感がなくてよく思い出せなかった。朝の二回目のキスは、驚きすぎて味わうどころではなかった。
だからぼくは今初めて、ただ体の一部が接触しているというだけのこの行為に、自分の中からあらゆる感情が生まれてくるのを感じていた。ブライアンと彼の香水の香りが彼の肌から立ち上ってきて、ぼくの体の芯が震える。触れているのは唇だけのはずなのに、うなじの産毛をそっと撫でられているような感覚が波のように繰り返しぼくに襲いかかる。ブライアンの唇は少し乾燥していて、想像していた通り温かくて、そして想像していたよりもずっと優しかった。こんなにも満ち足りた感覚を覚えるのは、いったいいつぶりのことだろう。
お互いから目を逸らせないまま、ぼく達はゆっくりと唇を離した。
「……仕事が残っているんだったな」
「うん」
うわずった声で答えて、ぼくはのろのろとカップを持ち上げた。心地よさに関するあらゆる脳内物質が縦横無尽に放出され、頭蓋骨の中で暴れ回っていた。ふわふわとした足取りでデスクに戻りかけていたぼくは、夢見心地のままふとブライアンを振り返る。
「あのさ。なんというか、ぼく達小さい頃からなんでもかんでも一緒にやってきただろ」
「ああ。サマースクールにも一緒に参加したな」
「それなのに今まで、キスをしたことなかったなんて不思議な気分なんだ。お前とはずっと一緒にいたのに、キスでこんなに幸せになれるなんて知らなかった」
ブライアンの手からデバイスと書類がこぼれ落ちて、ばさばさゴッという音を立てた。床に落ちたデバイスと散らばった紙に視線を落としたまま、ぼくは懸命に言葉を終わらせる。
「つまり、だからぼくも、悔しいけどお前のことちゃんと特別だって思ってるから! ――それをちゃんと伝えておかないと、フェアじゃないと思っただけ」
「……嬉しいよダーリン」
わざとらしいくらいの柔らかな声に顔を上げると、ブライアンが片手で頭を抱えたままちょっと引きつったような笑顔を浮かべていた。
「とりあえずお前をソファに引き戻してもいいか?」
「それはまだちょっと、ぼく達には早いと思う!」
人によっては気を悪くするだろう言葉に、ブライアンはただ楽しげな笑い声を上げた。その笑いにぼくの胸がまたしても一つ、優しい音を立てる。
浮ついた気分のままデスクに戻ったぼくは、ディスプレイに表示された二つの通知を見て思わず眉をひそめた。
一通はブライアンが話しながら送ってくれた報告書だろう。もう一通の見慣れないアドレスからのメッセージには、『クロエ・マイヤーです』というタイトルがつけられていた。
ルーカス・ポッターさん
こんにちは、クロエです。先日は大学に来てくださってありがとうございました。
今日は、不躾なお願いがあってこのメッセージを送っています。
手紙のことをヴィクトールから聞きました。その手紙を、わたしにも見せていただくことはできないでしょうか?
どうしても確認してみたいことがあります。
厚かましいお願いをしてしまってごめんなさい。お返事をお待ちしています。
敬意を込めて
クロエ・マイヤー
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