5章 1 (大学生再び)

「だからあ」

 ぼくはもう何度目かわからないため息と共に、クールブロンドの巻き毛を両手でかきむしった。

「確かに万人が思い描く典型的な形のイスではないけどさ、少なくとも脚の役割は果たしているだろ。はあ? その曲線がいいんだってば! それに耐重量だって……」

 夢中でまくし立てながら、ほとんど無意識のうちにデスク上のマグカップを掴み取って喉に流しこむ。デザインが気に入って購入したデスクトップの画面の向こうで、相手もぼくと同じくらい夢中になって言葉を並べたてていた。優秀な内臓スピーカーが、その細やかなニュアンスまでも余さず拾い上げて事務所に響かせている。

「いいか、カーク。あんたまた、いつものようにゴールドとかゴールドとかホワイトとかゴールドとか、床や壁に大胆に使いまくってるんだろ。だったらそのデザインが絶対に合うんだって! ――いいから、まずはぼくの椅子のデータを置いてみろよ! 話はそれからだ!」

 ぼくが画面の向こうにそう叫ぶのと同時に、レセプションからの連絡を告げるチャイムが鳴った。最近多いな。ぼくは結構マメに来客情報をメーガンやワイアットに一報していてるから、ほんの数日前まではこんなにレセプションから連絡が来るなんてことはなかったのに。

「お客様がきたみたいだから切るね。まずはぼくの椅子をVR上においてみろ! それで文句があるならいくらでも聞くから!」

 そう言って通信を切り、立ち上がってコントローラーの元に向かう。ソファで優雅にコーヒーを口にしていたブライアンが「人気者だな」とぼくに声をかけた。

「おかげさまで、最近ちょっとそんな気がしてきているとこだよ」

 答えながらコントローラーのボタンを押した。モニターに、ワイアットの爽やかな笑顔が映し出される。

「やあ、ルーク。最近人気者だね」

 ブライアンとそっくり同じことを言って、彼がぼくへの来客を告げた。

「この間遊びに来ていた、大学生達がまた訪ねてきているみたいだよ。今度は二人だけど」

「まじか……ちなみに、どんな子が来てる?」

「二人とも男の子で、そのうちの一人は赤髪だね」

 なるほど。とりあえず二人のうち一人がカシムだということだけは分かった。そういえば、昨日一方的に刑事の連絡先を送りつけてそのままだ。

 ちらりとソファに陣取るブライアンへと目を向ける。ぼくの様子を横目で観察していた男が、ぼくの視線に小さく頷いた。

「……オーケイ。何となく用事は分かったから上げてもらっていい? どうせそろそろ休憩にするところだったし」

「了解」

 爽やかな笑顔でそう言って、ワイアットが通信を切る。

「以前話していた大学生か」

「そうみたい。やつらにはソファに座ってもらうから、こっちのガラステーブルに移動してもらってもいいか」

「おれもそろそろ出るから、挨拶だけさせてもらう。夕方にまた寄るよ。その時に昨日できなかった情報の共有をさせてくれ」

「悪い話ではないことを祈るよ……」

 ぼくの言葉にわざとらしく肩をすくめ、ブライアンが立ち上がった。自分のカップをシンクで洗い、洗面台に消える。ぼくの目には完璧に準備が整っているように見えるんだけれど。

「……大学生が来るからって浮かれているんじゃないだろうな」

 低いつぶやきは、しっかり洗面所まで届いていたらしい。ブライアンがひょっこりと顔を出し、余裕の表情でにやりと口角をあげた。

「察しの悪いやつめ」

「何がだよ」

 それには答えず、ブライアンはただ人の悪い笑みを浮かべたまま再び洗面所に引っ込む。ちょっと釈然としないまま、ぼくは電子ケトルのスイッチを入れ、前回と同じイッタラのカップを取り出した。ポットに茶葉を入れていたところで玄関のチャイムが鳴る。

「やあ、いらっしゃ――わあお、意外な組み合わせ」

 扉の向こうで大人しく待っていた青年二人――何とカシムとヴィクトールだ!――が、ぼくの言葉に顔を見合わせて、ぎこちなく頷いた。

「……わたしもそう思います」

「……否定はできない」

「まあ、とりあえず入ってよ。要件は中で聞くから」

「ありがとうございます」

 カシムの礼儀正しいお礼の言葉が、やや尻すぼみになった。大学生二人がぼくの背後に視線を固定したまま、びっくりした様子で口を閉ざしている。

 彼らの表情に釣られて振り返ったぼくは、洗面所から出てこちらに向かってくるブライアンの姿に、思わず左手でひたいを押さえてしまった。シミもしわもない真っ白なシャツはいつもと変わらないけれど、さっきまではカバンに忍ばせてあったはずのネクタイがいつの間にか彼の首元を彩っていた。文句なしにこいつに一番似合う、華やかなロイヤルブルー。折り目の効いたスラックス、そして手入れが行き届いたベルトと靴はシンプルな黒色だった。シャツのボタンはすべて、一寸の隙もなく留められている。

 男が、ぼくですらうっかり見惚れてしまうほどの優雅な足取りでこちらに歩みより、ぼくのすぐそばで立ち止まった。自分が最もハンサムに見える引き締まった淡い表情で二人の青年を見下ろし、そして完璧なタイミングで口元を緩める。――絶対に、それが魅力的だと分かってやっている精悍な笑顔だ。つい先ほどまではきっちりまとめられていた髪は、魅力が最大値になる絶妙なバランスにやや崩されていた。

 苦々しく口を閉ざすぼくの隣で、ブライアンがゆっくりと青年達に向かって手を差し出した。

「初めまして。ブライアン・ダーシーだ」

「あ、はい、初めまして。カシムです」

「ヴィクトール・モロー」

 ぶっきらぼうに名乗るヴィクトールですら、今のブライアンにはやや気圧されているようだった。無理もない。一体なんなんだ? まさか本当に、若い男の出現に浮かれているんじゃないだろうな。

 もしそうだったら今すぐにでも別れてやる。

「おれはもう行かなければならないが、どうぞごゆっくり」

 青年二人にそう告げると、ブライアンが固い決意を胸に秘めたぼくを振り返って笑いかけた。

「じゃあな、ダーリン。また後で」

 その笑顔にふと嫌な予感を覚えて、ぼくは反射的に半歩足を引いた。すぐに男が長い足で悠々とぼくに追いつき、意味ありげな表情でぼくに迫る。いやいやそんなまさかな――そんなぼくの思いを余裕の笑みで一蹴すると、ブライアンが猫のように柔らかく身をかがめてぼくの唇に自らの唇を押しつけた。

 ただ勢いを押し付け合うような昨晩のつたない口づけが何だったのだと思うほどの手際の良さと心地よさ――いやいやそうじゃなくて、こいつは本当に全く、一体全体何をやっているんだ!

 男がぼくの唇から身を起こした。ぼくの表情に満足げに口を曲げると、そのままあっけに取られているぼく達三人に艶やかな一瞥を残して、玄関の向こうに消えた。

「……ええと、立ち振る舞いがすごくかっこいい人ですね」

 おそらく本心なのだろう。カシムが感嘆のため息をつき――そしてためらいがちに付け加えた。

「ただ、あの人、なんというか……」

「変なやつだろ。ぼくも最近のあいつは、なにを考えてるか少しも分からないんだ」

 疲労のにじむぼくの言葉に、カシムとヴィクトールが顔を見合わせた。しばらくの間お互いを小突きあっていたが、結局二人してそのまま黙り込んでしまう。

「それで、二人はなんの用があって突然事務所に押しかけたんだ? 今日は平日だろ。学校は休みかい」

「今日の授業は午後からです。わたしは、あなたが連絡を返さないから少し心配になって」

 青年の言葉に、ぼくは自分が昨晩からデバイスをカバンの中に入れっぱなしにしていることに気がついて飛び上がりそうになった。

「――ああ、そうだ! そうだった。ごめんよ、カシム。昨晩はまじで体調が良くなくてさ」

「いえ、なにもなかったのならむしろ良かったです。それに、警察の話も共有させてほしかったので」

「もう事情聴取受けたんだね」

「ええ、あなたの頼みだったので」

「それでヴィクトールと訪ねてきてくれたのか」

 ぼくの言葉に、つまらなそうに突っ立っていたヴィクトールが顔を上げて首を横に振った。

「いや、ぼくは手紙を見せてもらいにきただけですよ。ごく原始的な方法で届けられた、例の間抜けな手紙です」

「ああ、そういやそんな話したんだっけ」

「その手紙の話をクロエにしたら、あいつ、何か感づいたみたいで。このぼくがいくら頼んでも何も教えてくれないから、自分で謎を解きに来たというわけです」

「あっそ……」

「あなたの家はちょうど大学への通り道にあるから、ちょうどいいんですよね。カシムとは、たまたまそこの道で合流しました」

「二人とも講義は午後からなので、十二時までにはここを出ます」

 大人しく相槌を打ちながら話を聞いていたぼくは、カシムの最後の言葉に少しばかりほおを引き攣らせた。まさか十二時までいすわるつもりじゃないだろうな。フリーランスの忙しさを甘く見るなよ。

 気を取り直して二人をソファに沈め、ぼくは三人分のお茶を準備した。ドライフルーツ入りパウンドケーキを食べるか聞いてみたら「朝食は食べたが腹八分程度に抑えたので準備してくれるならいただくのはやぶさかではない」という返答だったので、そちらも若者二人に持っていく。

「それで、事情聴取を受けたって話だっけ」

「彼らは『捜査協力』と言っていましたけれどね。電話をしたらたまたまお互い近くにいたので、直接会って話をしました」

「へえ。何聞かれたか聞いてもいい? 単に好奇心だから答えなくてもいいけど」

「そんなに特別なことは何も。事件当日は何をして過ごしていたか、アランとはどういう関係だったのか、アランの交友関係について知っている範囲で教えてほしい、わたしから見た彼の印象はどうだったか」

 カシムの説明に、ヴィクトールがケーキの最後の一口を飲み込んで鼻を鳴らした。

「ふん、気に食わないな。ぼくの方が根掘り葉掘り色々聞かれたんだ。ぼくのほうが君よりも疑わしいとでも?」

「……当たり前だろ、今のアランの最も親しい友人の一人なんだから。ぼくが警察だったとしても、カシムよりかは君の方にたくさん話を聞くよ」

「ふん、それもそうだ」

 まんざらでもなさそうにそう言って、ヴィクトールはややくすんだ薄い青緑セラドングリーンのカップを手に取った。入れ違いでカシムがライトブルーのカップをテーブルに置き、口を開く。

「ヴィックは何を聞かれたんだ?」

「別に。君と同じくアリバイとアランとどうやって知り合ったか、アランの交友関係、トニーについて、あとはひたすらぼく自身のことだ」

「へえ」

「ひどい時間だった。刑事が訪ねてきた時のハウスメイトのあっけに取られた顔が、唯一の愉快な瞬間だったな」

 無遠慮ににやにや笑うぼくの隣で、話を聞きながら何かを考え込んでいたカシムが口を挟んだ。

「ヴィックも夜の十時半前後の時間の行動確認が、アリバイ確認だと考えているだな」

「当たり前だろう」

「ということは、やっぱり薬かな」

「だろうな。それが一番合理的――というか、状況からみてそれしか考えられない」

「……そうだよな」

 眉にしわを寄せてため息をついたカシムと、それを見て眉を上げたヴィクトールが揃って、ふとぼくの方へと目を向ける。クールな表情でクールにお茶を口にしていたぼくは、二人の視線にクールに首を横に振る。

「ぼくに意見を求めるなよ。残念ながら何ひとつ話についていけてない」

 正直者のぼくに感銘を受けたのか哀れに思ったのか、特にばかにすることなくヴィクトールが淡々と説明した。

「葬式の時に、神父が言っていたんですよ。アランが『眠りについた』時間が早朝の一時だったと」

 それで理解できるだろう、と言いたげな緑目の青年の言葉に、カシムが補足を入れる。

「刑事さんに行動を確認された時間と、かなりの差があるでしょう。現場が彼自身のベッドで、殺人か自殺か司法解剖が行われてなお判断がつかない。緩やかに死に向かう量の、何か睡眠薬のようなものを彼は飲まされていたのではないかと」

「薬学は完全に専門外だが、これだけの時間差があるということは、薬自体は大した量ではなかったんだろうと思うね。アランの体が、耐えられなかっただけで」

 緑と青の目にそれぞれ陰が落ちる。その陰を振り払うように、ヴィクトールが首を一振りした。

「まあ、とにかくお互い大したことは聞かれなかったということだな。情報共有は終わりでいいだろう? 次はぼくの番だ、ルーク。そろそろ例の手紙を見せてもらえませんかね」

「君がどうしてナチュラルに人の手紙を見せてもらえると信じてやまないのか理解に苦しむけれど、まあいいよ。ちょっと待っててよ」

 ぼくの皮肉に、ヴィクトールはただ軽く肩をすくめてみせた。手紙が見られるなら別に、ぼくの小言なんてどうでもいいのだろう。

 わざとらしくカップに口をつけ、爽やかな緑茶とカモミールのフレーバーをゆっくりと味わってからぼくは立ち上がった。ガラステーブルと仕事用のデスクを通り過ぎ、事務所の奥にある扉を開ける。本棚の上の奥の方に、放り出したまま存在を忘れかけていた箱はあった。気持ち悪くて触りたくもなかったはずなのに、一緒に中身を確認してくれる人がいるというだけで、このベージュのありきたりな箱が本当にごくありきたりな箱に思えてくる。

 後ろ手で扉を閉めてソファに戻り、テーブルの上に箱を置いた。二人の青年が見守る中、ぐるぐるに箱を縛っていた紐を解いてその蓋を開ける。

「なんだ、このへんな目玉」

「マティ。この手紙を封印するためのお守りだよ」

 ヴィクトールが、地動説を唱える異端者を前にした十七世紀の修道士のような目でぼくを見た。今にも「異端者!」と叫び出しそうな緑色の目が、目玉のお守りに続いて取り出された紙の束に吸い寄せられる。

「ずいぶんとボロボロの紙だな。これがエコというやつなのか」

 何かずれたことをぶつぶつ言っているヴィクトールの言葉を無視して、手紙を表に向けた。改めて見ても、あまりに不吉な言葉の数々だ。

 うんざりと顔をしかめるぼくの隣で、手紙を覗き込んだ青年たちの体が目に見えて大きく震えた。そしてその次の瞬間、二人の口から恐怖の叫びが漏れる。

「うわああああ!」

「うわ、耳痛っ」

「何ですかこれは! なんでこれを放っておいているんですか?! 隠しさえすればこの手紙が自然と消えてなくなるとでも?」

「手書きじゃないか! なんで同じような言葉の羅列が手書きなんだ?! まさかコピーアンドペーストも知らないほどの原始人なのか?」

「なんてことだ、七枚もある……! ロビンソン警部補には伝えたんでしょうね? 答えてください、ルーク!」

「犯人は乳幼児だ! 間違いないね! 原始人と比べたら乳幼児だって十分現実的だ!」

「ええと、とりあえず二人とも落ち着いてくれる?」

「あなたは少しは焦るべきでしょう!」

「のんきに思考停止してたやつに言われたくない!」

「すみません……」

 青年らの剣幕に気圧されるぼくに、吊り上げていた目尻をほんの少しばかり下げた二人が続ける。

「参ったな。これは、想像以上に優先順位が高い課題ですよ」

「ポストに入ってたのは、ぼく達があなたを訪ねた次の日でしたね。正確な日時は分からないんですかね?」

「ああ、コンシェルジュのメーガンがたまたま手紙が入れられるところを見てたらしくてさ。手紙が入れられた正確な日時が知りたければ聞きに来いって言ってくれたんだよね」

「ふん、なるほど」

「とても頼りになる方ですね」

「で、結局そいつはいつ入れられたものだったんです?」

 ヴィクトールの言葉に、ぼくは黙り込んだ。空気が一気に再び不穏な色を帯びる。

「……ルーク。まさかとは思いますが、聞いていないんですか?」

「……まあ、今まで手紙の存在すら忘れてたくらいだからね」

 ぼくの言葉に若者二人がすっくと立ち上がった。ぼくは二人の次の行動が読んで、冷静に両耳を塞ぐ。

「ばか――――!」

 二人の声が、見事にシンクロした。

「どうして、そんな親切な提案をしてくれているのに忘れられるんですか! 自分の身の安全に関わることですよ!」

「目の前にヒントがぶら下がっているのに、なんでそのまま計算を続けるようなことができるんだ! 問題を解く気がないのか?!」

「いや、その、ホントにごめんってば」

「とりあえず、すぐに聞きに行きましょう」

「待った待った、メーガンはまだ出勤じゃないと思うよ」

 青年たちがもどかしさと苛立ちが絶妙にブレンドされた目でぼくを見下ろす。しばし立ち尽くした後で、しぶしぶソファに座り直した。

「今日、必ず日時を確認して、わたしに連絡をください。いいですね?」

「日時を確認するまでは、あなたに平穏な夜は訪れないと思え」

「わかったよ、もう……」

 投げやりを装いつつ、ぼくは若者たちにここまで言わせてしまったことをさすがに反省した。自分が取り掛からなくちゃ何も始まらない問題を、少しばかり先延ばしにしすぎた気がする。

「二人は、この手紙はアランのことと何か関係があると思う?」

 ぼくの言葉に含まれた『能動性』のかけらに気がついたのだろう。カシムとヴィクトールの表情から苛立ちが消え、ただ真剣なものになる。

「確信はありません。けれど、その可能性は高いんじゃないかな」

「その間抜けがアランの知り合いとは考え難いですがね。タイミングから考えて確率は高いでしょうよ」

「一体、こいつはぼくの何が気に食わないんだろう」

 ぼくの疑問に、ヴィクトールがすかさず答えた。

「自分でも気がつかないうちに、あなたが犯人を特定するための鍵を握っている。ミステリのセオリーだ」

「……君さ、実は結構ミステリ好きだよね」

「別に。それで、犯人に心当たりは?」

「あったらとっくに刑事さんに伝えてるよ」

「アランと最後に会った時、そのあとの予定について、何か聞きませんでしたか?」

 カシムの言葉に、ぼくのこめかみにまたしても痛みが走った。アランとの最後の会話。彼の、その後の予定。

 約束だよ、と言う彼の声がこだまする。

「……たぶん聞いていないと思うけど、ぼくは、たぶん何かアランと約束をした気がする」

「約束」

「何を約束したのかは思い出せないんだ。本当に」

 ぼくの言葉に、二人が顔を見合わせた。

「……わかりました。何か思い出したら、ちゃんと警察に相談してくださいね」

「もう思考停止しないでくださいよ。アランに関わることなんですから」

「はいはい、ぼくなりのベストを尽くすよ。さて、そろそろ次の予定があるから学校に戻ってくれる? また何か聞きたいことがあれば連絡をくれ」

 すかさずヴィクトールが自分の端末を取り出した。鮮やかな緑色の目で、じっとぼくのことを見つめる。どうやらついにぼくと直接連絡を取り合う気になったらしい。

 青年とお互いの連絡先を登録し合い、ぼくは二人を玄関に送り出した。扉を閉める直前に、ふと思いついてカシムを呼び止める。

「君さ、アランの写真持ってない? 高校時代のものでいいんだけど」

「同じ学年だったので、探せばあると思いますが……」

 不思議そうにぼくを見つめる青年に、ぼくはやや気まずい思いをしながら言い訳をした。

「その、このままアランの記憶が薄れてしまうかもしれないって思うと、ちょっと怖いんだよね」

 青年の少し垂れ目気味の目が、ぼくの言い訳に優しくほころぶ。

「わかりました。見つけたらすぐに送りますね」

「助かるよ」

「その代わりと言っては何ですが、ぼくからもひとつお願いをしていいですか?」

 安堵に緩んでいたぼくの顔が、カシムの言葉にややこわばった。

 一体どんな面倒なお願いをされるのだろうと身構えるぼくに、彼が続ける。

「あなたとアランが会った場所に、わたしを連れて行ってほしいんです」

 どうしてそんなことを頼むのだろう、と不思議に思ったけれど、写真と引き換えだと思えばお安い御用だ。

「いいよ。日時はまた後で相談しよう」

 ぼくの言葉に満足そうに「ありがとうございます」と笑うと、カシムはイライラした様子でこちらを見守るヴィクトールの方へと足早に歩き去って行った。

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