下
ギターを抱えたまま全く動かない僕を、少女は不思議そうに見ていた。
当たりは暗く、街灯だけが彼女を照らしており、彼女の白い顔がぼんやりと空間に浮いているように見えた。
しばし沈黙が続く。何をしていいかわからない妙な緊張感が続く。
彼女は一言もしゃべらなかったが、立ち去る様子もない。視線は僕のギターに向けられている。
「これ、ききたいの?」
僕がギターを指して言うと、彼女はびっくりしたみたいに僕の顔を見た。
急にしゃべりだしたから驚いたのだろうか。僕はもう一度聞いた。
「僕の曲、ききたいの?」
少女はじっくり僕の顔を見て、コクンと頷いた。
「ごめんね。君が知っているような曲はできないよ」
少女は僕の顔を凝視している。あまりにまっすぐ僕の目を見るので思わず目をそらしてしまった。彼女は黙って僕の前に立っていた。やっぱり立ち去る様子はない。
もういいや。どうせ路上で弾き語りなんて今日で終わりにするんだから最後に一曲ぐらいやっても変わらないだろう。
僕は仕方なく、ギターを弾きながら小さな声で歌い始めた。
真夜中一人暗い部屋で
僕はギターを抱えてる
弾いたら下手だと気づくから
可能性だけ抱えてる
あの子の歌を作りたい
僕はノート開いてる
書いても無駄だと思うから
ページはずっと白いまま
「伝えたい」って言葉がすでに
「伝わらない」って意味に思える
「伝わらない」ってあきらめは
「伝えたい」って意味だった
ねえ、そこにいてくれないか
僕が今から弦になるから
一緒に震えてくれないか
つぶやいた言葉は
暗い空気だけ揺らした……
つぶやくように歌い出したが、段々声が大きくなった。今の状況と重なっていくような気がして、どんどん感情的になってしまった。音と、歌詞とその場の雰囲気にのまれるような感覚にとらわれる。段々自分が歌っているという意識が消えていった。勝手に身体が動く。空間に溶け込む。自分の所在が分からなくなる……
時間にしてみれば4分もない。曲を終えて、陶酔した感覚にぼうっとしているとパチパチという音が聞こえた。
顔を上げると、制服姿の少女が拍手をしていた。彼女の表情はほころんでいて、僕の曲を聞いて喜んでいることが分かった。作り笑顔とか愛想笑いとかそういった類のものではないとはっきり分かった。それほどまでに、彼女の表情ははっきりしていた。
単純な話だが、僕はその表情を見る事ができただけで、今までの悩みが吹き飛んでしまった気がした。
歌詞も曲調も歌唱力もカリスマ性も、何一つない僕でも、僕自身が作った何かで、誰かが喜んでくれる。その事実は僕の冷え切った心をじんわりと溶かしてくれた。たった一人の観客がいてくれるだけで、こんなに違うものだったのか。
「……聞いてくれてありがとう」
僕は心からそう言った。少女はニコニコして僕を見ていたが、思い出したように腕時計を見た。そして、「まずい」という顔をして(本当に表情が豊かな子だ)、僕にペコっと一礼して去っていった。
取り残された僕は、しばし茫然としたが、心は言葉にならない喜びでいっぱいだった。
それから一時間ほど駅前の商店街にいたが、もう誰も僕の曲を立ち止まって聞くことはなかった。でもそんなこと気にならなかった。
家に帰るまでも、さっきまでの暗い気持ちとか、何一つ変わってない状況とかを忘れて、明日もまた、歌いに来ようかな、なんて思えるくらいに僕は浮かれていた。
そして、僕はまんまと次の夜も弾き語りのために、商店街に来ていた。駅前では昨日と同じ、カバー曲を歌う金髪の男が立っていた。
しばらく、通り過ぎる人々に向かってギターを弾いていると、昨日の暗い気分がぶり返してきた。やっぱり自分の曲に意味なんてないのではないか。昨日の彼女は僕が作った幻想なんじゃないか。そんな気持ちがどんどん大きくなった。
もう商店街のお店はほとんどシャッターが閉まっていて、24時間営業のコンビニだけが光っている。目の前に見えるスペースも数か月後にはコンビニになるらしい。改装工事はすでに始まっていて、正直以前何の店だったかはよく覚えていない。
商店街の全部がコンビニになる事を想像してみる。どの店に入っても同じ商品があって、もうどれがいい品物かを考える必要はない。24時間ずっとどの店もやっているから、朝か夜かもわからない。売れている商品が売れている順に並んで、何を買えばいいか考える必要すらない。
その様子を想像して、何故か僕は駅前の路上シンガーのことを思い出した。売れた曲のマイナーチェンジだけが繰り返されて、何がいいのかわからなくなっているのはどこでも一緒なのかもしれない。
そんな情けない言い訳めいたセリフが頭をよぎった時、あの制服の少女が現れた。
少女は僕を見つけると、パッと表情を明るくした。そしてパタパタと僕の近くまで寄ってきてくれた。
僕は彼女が幻想でなかったことにほっとし、また出会えたことを本当にうれしく思った。
「こんばんは。今日も聴きに来てくれたの?」
少女は黙ってニコニコしている。早く弾け、とでも言うように、ギターの方に目をやった。捉えようによっては失礼に思える態度だったけれど、僕にとってはそれが何よりうれしかった。
それから僕は何曲かオリジナルの曲を演奏した。彼女はどの曲も嬉しそうに聴いてくれたし、終わったら拍手をくれた。その様子を見て、通行人が何人か僕の前に留まってくれた。もしかすると、怪しい男と制服の少女を見て不審に思ったのかもしれないが、それでも僕の曲を聞いてくれるのはうれしかった。
最終的には4~5人が僕の周りで曲を聞いてくれた。僕はうれしくて仕方なかった。制服の彼女はその真ん中で嬉しそうに僕を見ていた。
何曲か終わると、少女はまた時計を見て、焦って帰っていった。
それを合図に、周りにいた人々も散会していった。
それから、しばらく僕は商店街に通い続けた。聞いてくれる観客は少しずつ増えて、常連みたいな人もできた。もちろん制服の少女も来てくれた。
僕はそれが本当にうれしかった。感謝を伝えるために、少女のための曲を作りたいと思った。
でも、いい曲を作ろうと力めば力むほど、言葉を選べば選ぶほど使い古された表現ばかりが浮かんでしまって、僕の曲に思えなかった。どうすればきちんと感謝が伝わるんだろう。考えれば考えるほど、表現を凝らすほど、レトリックに頼るほど、伝わらない気がした。
僕は、彼女に初めて歌った曲を書き換えることにした。誰にも聞かれないふさぎこんだみたいな歌詞から、引っ張り出してくれた彼女への歌にする。それが一番いい形になる気がしたのだ。
書き換えた歌詞を携えて、商店街に向かった。しかし、それから何日経っても彼女はなかなか現れなかった。
僕は、路上での演奏を続けていたが、彼女が現れないことがずっと不安だった。
学校とか勉強が忙しいとか?
体調を崩しているとか?
もう僕の曲に飽きてしまったのか?
最後に来てくれた時、僕の態度が良くなかったのか?
頭の中を黒いもやが渦巻く。
僕は彼女に伝えきれない感謝しているけれど僕は彼女のことを全然知らなかった。
どうすればいいんだろう。そう思っても、僕にできることは何もなかった。
僕は、彼女が来るまでここで歌い続けることを誓った。
制服の少女を見なくなってから、何か月経っただろうか。
弾き語りはもう僕の日課みたいになっていて、聞いてくれる人がいる時もいないときもとりあえず身体は向かうようになっていた。時折、個人経営の居酒屋で演奏させてもらったり、マイナーなユーチューバーに取り上げてもらったりして、少しずつこの道で生きていくことができるようなビジョンが見えてきたような気がした。
絶対にアーティストになりたいという気概があったわけじゃなかったけれど、いろんな人と知り合えて、新しい道が広がっていくような、充実した毎日だった。
SNSでの宣伝活動やギター流しなんかをしているうちに、段々と商店街での弾き語りをする回数は減っていった。彼女のために変えた歌詞のことも少しずつ忘れていった。
演奏をさせてもらった個人経営の喫茶店から帰る途中、僕は暗い商店街の中を歩いていた。小腹が減ったので、何となくコンビニに入って、何も考えず菓子パンを買った。店から出ると、僕がかつて歌っていた場所に目が行った。
そこには、一人の女性が立っていた。
立っていた、というより立ち尽くしていた、といった方がいいかもしれない。
なぜか僕は、その女性を見て制服の少女を思い出した。
「あの、どうなさったんですか?」
後ろから僕が声をかけると、女性は振り返った。
年齢は四十代ぐらいだろうか。白い肌が特徴的だった。
「ああ、いえ。こちらで歌を歌っている方がいらっしゃると娘から聞いて……」
そう聞いた瞬間、目の前の女性の肌の色や目の形などに、制服の少女の面影を感じた。
「あ、それは、多分僕です」
「そうなのですか? 娘が大変お世話になりました」
女性は丁寧にお辞儀をした。虚脱感にまみれた礼だった。
「そんな、頭なんて下げないでください!! 私こそ彼女に本当に助けられたんです。ずっとずっとお礼が言いたいと思っていたんです」
女性は頭を上げた。彼女の眼にはなぜか涙が溜まっていた。
「……あの、彼女、娘さんはどうしたんですか?」
「……あの子は二週間前に亡くなりました」
脳幹を殴られたような衝撃が走った。
彼女が、死んだ?
「生まれつきあの子、難病指定された病気だったんです。一月前に病状が悪化してそのまま……」
「そんな……」
僕は崩れ落ちるように膝をついた。
彼女が死んだ?
僕を救ってくれた彼女がもうこの世にいない?
二度と、会えない?
その事実はなかなか受け入れられなかった。あまりに急な話で現実感がなかった。
ただ、目の前の女性の涙が、それが嘘でないことを伝えていた。
「亡くなる二か月前くらいだったかしら。家に帰るのが遅い日が続いて、何をしているのか聞いたら、道で歌っている人を見てたって言っていたんです。だから、ここ数日その方を探していたのですが、あなた、だったんですね」
「……ええ、そうです。彼女は私の最初の観客でした」
「……そうですか。では、これだけは伝えておかないといけないですね」
少女の母親は、僕を見た。目は虚ろだった。
「娘は、生まれつき耳が聞こえないんです」
……え?
「だから、あなたの曲は多分聴こえていませんでした」
……嘘だろ?
「……やっぱり、知らなかったんですね」
混乱する頭の中で、妙に冷静な自分が現れて彼女とのやり取りを脳内で再生した。改めて振り返れば、思い当たる節はいくつかあった。
僕の顔を凝視していたこと。
表情が豊かなこと。
そして、一言もしゃべらなかったこと。
「あの子、あなたに気づかれないようにしていたみたいなんです。聞こえていないことが伝われば、あなたを傷つけることになるからって」
僕は、何も言えなかった。
嗚咽のようなものが自然と口から洩れた。
しゃくりあげるような音が、どこかから聞こえた。
しばらく、僕は自分が泣いていることに気づけなかった。
「あの……じゃあなんであの子は僕の曲を、何回も聴きに来てくれたんですか? 僕の曲に拍手をくれたんですか?」
声がかすれて、うまく出せなかった。
それでも女性は答えてくれた。
「……わかりません。私にはなにも」
僕は、その場に座り込んだ。何が悲しくて泣いているのかよくわからなかった。
尻でコンビニのビニール袋を、中に入ったパンごと踏みつぶしてしまった。妙に柔らかい、気持ち悪い感触が気になった。背負っていたギターは路上に投げ出されていた。
僕はどのぐらいそうしていたのだろう。少女の母は僕の隣に立ち続けていた。
少女の母が静かに言った。
「あの……もしよろしければ、あなたの曲を聞かせていただけませんか?」
「……今、ここで、ですか?」
「はい。娘が何を考えていたか、知りたいんです」
僕は緩慢な動きで、ケースからギターを取り出した。ケースは路上に放ったままにした。
僕は彼女のために歌詞を変えた、僕の最初の曲を歌った。
真夜中一人暗い部屋で
僕はギターを抱えてる
弾いたら下手だと気づくから
可能性だけ抱えてる
あの子の歌を作りたい
僕はノート開いてる
書いても無駄だと思うから
ページはずっと白いまま
「伝えたい」って言葉がすでに
「伝わらない」って意味に思える
「伝わらない」ってあきらめは
「伝えたい」って意味だった
ねえ、そこにいてくれないか
僕が今から弦になるから
一緒に震えてくれないか
「伝えきれない」ってことが
君にちゃんと伝わるように
歌い終わった。
少女の母は、何も言わずに首を横に振った。
「やっぱり、わかりません。私には。あの子があなたの曲の何が好きだったのか」
「……そう、ですか」
少女の母は僕に一礼すると、立ち去っていった。
もう、その答えは永遠に分からない。
僕は座り込んだまま、ギターを抱えてうなだれていた。
そんな僕のことを、新しくできたコンビニの光がぼんやりと照らした。
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