第二章6『少女にとって、その男は――』


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 階段状の観客席の中腹。

 幅の広い通路の途上で、アンヌ=アウレカムは一人の少女と邂逅していた。

「こんにちわ。私、エレナ=トールブリッツと申すのですけれど、覚えてらっしゃるかしら? アンヌ=アウレカムさん」

「……Sランクの人」

 あら、と驚く相手にアンヌはただ首を傾げる。

「意外ですわね。周りには興味がないと思ってましたのに」

「そんなには興味ないよ」

「なら、覚えてもらっていることを光栄に思うべきかしら?」

 別に好きにすればいいのに、と彼女の言葉にアンヌは心の中でどうでもよさを感じていた。

「何か用?」

 こちらの問い掛けに、相手は肩を竦めて告げてくる。

「別に。ただ見かけたので声を掛けただけですわ」

「そう」

 そんな短かなやり取りを終え、二人は“彼”の試合へ視線を戻す。

 もうすぐこの試合は終わるというのが、両者の見解だった。

 “彼”を相手するにあたって、最も注意すべきは魔力切れだろう。

 体術の上手さは数合で十分に把握できる。だからこそ誰もが魔力戦に移行する。

 それは当然の帰結であるが、同時にある問題も抱えてしまう。

 魔力が切れた時、どうあっても彼の得意分野に上がらざるを得ない、ということだ。

 既に相手は魔力を使い過ぎた。

 魔力戦に移行し始めの頃と今とでは、魔法の威力に明らかな減衰が生じている。

 だからもう終わり。

 燃料切れになる前に仕留めきれなかった相手の負けだ。

「そこまで!」

 大きな審判の声。モニターには予想通りの結果が表示されていた。

 彼――ツトム=ハルカを見れば、まだまだ余裕といった表情で一息を吐いている。

「あらら。残念」

「惜しかったなぁ~」

「まあでも一応Sランク並とか言ってたんだし、しょうがないんじゃない?」

「俺、今度挑戦してみよっかなぁ~」

「お前じゃ無理だよ」

 ふざけた笑い声がまた近くから聞こえていた。

 彼らは一体何を見ていたのだろう。

 体の良いハードルとして彼を据えようものならその代償は計り知れないと知るべきだ。

 彼はあなた達とは“違う”のだから。

 ……そうだ、違う。彼は“違う”。

 自分が思った言葉に、アンヌは強く肯定を返していた。

 かつて見たあの激戦を制した彼。倒れても倒れても立ち上がり続け、挑み続けた彼。

 それは決して普通ではなく、自分ですらも“特別”を感じるほど。

 だけど――

 ……だけど本当にそうだろうか?

 自らの肯定に連鎖するように、否定の自問が沸いてくる。

 特別。なにがどう特別だというのだ。

 彼はただ自分の試練を乗り越えただけ。分不相応だったかも知れないが、それでも決して乗り越えられない訳ではなかった。

 だがこの身が望んでいるのは“そんな程度”の物ではない。

 “それ”を叶えることは、“他人”にとって遥か頂き、天にすら届き得る断崖絶壁を踏破するに等しいものなのだと、散々思い知らされてきただろう?

 だから多少根気がある程度の“特別”では到底足りえない。

 そもそも――

 ……まだまともに話してもいないのに、どうしてそう特別と言いたがるの?

 そう思いたいだけだろう、とアンヌの中で“不信”が煽る。

 その言葉が、自問自答だというのに酷く胸に刺さった。

 何度も期待して、願って、望んで、求めても、最期には現実を突きつけられる。

 だからもう諦めるべきなのに、それでも不意に望んでしまう。縋ってしまう。

 ……私も意外と諦めが悪い。

 彼と同じかもと思うと、アンヌは少し心が軽くなった。

 ……ああ、そうだ。そう思えるくらいに、私は“彼”に期待してしまっている。

 あの戦いは、そう思うに足る物だと、すんなり受け入れられるから。

 それでもやっぱり不安は残る。

 彼のことを何も知らないから。本当はどういう人なのか、微塵も知らないから。

「…………」

 どうすればいいのだろう。

 どうしたらいいのだろう。

 分からない。人と関わることをずっと遠ざけてしまっていたから。

「…………」

 ふと、アンヌは隣を見やる。

 エレナ=トールブリッツ。彼女は何の気兼ねもなく、話し掛けてきた。話し掛けてくれた。

 それを今はありがたく思う。

 たとえまだ自分の真実を知らないからだとしても、それでも“起こした事実”を越えて話し掛けてくれたから。

 ……そういう意味では、彼女も“特別”になるのだろうか?

 ジッと見つめた視線の先、

「どうかしましたの?」

「……何でもない」

 不意に掛けられた言葉に対し、アンヌは首を振って応えるばかりだ。

 分からない。ああ、分からないことだらけ。

 誰に期待すべきなのか。

 誰にも期待すべきではないのか。

 まだ誰かに期待しようとするほど自分は弱いままでいいのか。

 ……もう何も感じない方がいいのかな。

 だけどそれは嫌だなと、やっぱりアンヌは思ってしまう。

 だってこの胸は高鳴ったのだ。あの戦いで。“彼”の戦いで。

 それを嘘にはしたくない。無かったことにはしたくない。

 だから、

「ねえ」

 踏み出そう、一歩を。彼のように。

「彼について、教えて」

 知りたいと思ったから、知りに行こう。


● ● ●

 

「……急になんですの?」

 まったく、とエレナ=トールブリッツが呆れるのをアンヌ=アウレカムは聞いた。

「ハルカさんの事を聞いていますの?」

 こくこくと、彼女に頷きを返す。

「あなたは彼のことを知ってるみたいだったから」

 なにせ彼の実力を少なからず知っていなければ、周りが甘く見過ぎているなどとは思わない。

 こちらの問いに対し、彼女はどこか可笑しそうに笑みを浮かべながら、

「まあ、この前少し話しましたから多少は」

 そう答えた。

「どんな人?」

 続けた問いに、彼女は深く考えることもなく、

「面白い人ですわね」

 率直な感想を告げてきた。

「面白い?」

「ええ、とても興味深い方ですわ。病気を持っているからだとか、Xランクだからだとか、そういう話ではなく、もっと根本的に、人として中々稀有で、面白い人だと思いますの」

「そう、なんだ」

 どうやら彼女にとっても、彼は特別らしい。それを聞いてアンヌはどこか嬉しくなる。

「あなたも興味がありますの?」

 彼女の問い掛けに、決めた覚悟を手放さぬように拳をギュッと握ってから、しっかりとした頷きをアンヌは返す。

「どうすれば、彼をもっと知れるかな?」

 問うた先、彼女は軽く目を見開き、驚いていた。

「本当に意外ですわね」

「何が?」

「貴方が彼にそこまで興味を持っているなんて思いませんでしたの。私達Sランクには興味がないと言ったのに、どうして彼には興味がありますの?」

「それは――」

 問われた言葉に、どう返すべきかアンヌは少し迷う。

 きっと言っても分からない。この身が抱える“それ”は決して誰にも分からないから。

「…………」

 押し黙ってしまったこちらを、彼女はジッと見つめ、しかし不意に、

「ま、何だって構いませんわね。好みは人それぞれでしょうし」

 笑ってみせて、それ以上は聞いてこなかった。

「えと、あの……、ありがとう」

「いえいえ、こちらも少し踏み込みすぎましたわ」

 ただ、と彼女は口元に指を当て、

「もしその気になりましたら教えて下さいます? “女性”として興味がありますわ」

「? 分かった」

 言われた言葉の意味はよく分からなかったが、アンヌは彼女に頷きを返した。

 そんなこちらを見て、目の前の彼女は何故か微笑むばかりだった。

「さて、どうすればハルカさんを知れるか、でしたわね」

 そう言って話題を戻すと、ふむ、と彼女は少し考えてから、

「いっそ戦ってしまえばいいんじゃありません?」

 それが一番手っ取り早くて分かりやすい、と彼女は笑ってそう告げる。

「――――」

 言われた言葉に、確かにその通りだと、アンヌは納得した。

 自分が求めているのは、結局のところその一点。

 趣味だとか、好きな物だとか、そういう物が知りたいんじゃない。

 どういう人間なのか、“期待”してもいいのか、それが知りたい。

 だけど――

 ……戦えば、嫌でも“答え”を知ってしまう。

 それが少し怖い。こうやって迷っている方が、まだ希望を持っていられるから。

 ……でもやっぱり、答えは欲しいよ。

 ならばもはや、その選択以外あり得ないのもまた事実。

「……私、戦う。そうすれば、彼の大事な物が見えると思うから」

 それがあれば私はきっと、そう無意識に呟きながら、こうしてアンヌの中で心は決まった。

「事情は分かりませんけれど、良き戦いになることを望みますわ」

 隣の彼女が笑う。

 それを見たら、こちらも自然と笑みが浮かぶ。

「ああ、でも――」

 笑い合いながら、しかし不意に彼女が告げる。

「私が先約ですのよ?」

「そうなの?」

「ええ、教師公認の、約束ですの。さすがにこれは譲れませんわ」

「そっか、そうなんだ」

 それを聞いて、ますますアンヌの笑みは濃くなった。

 だって彼はもう挑んでいた。挑み始めていた。

 それが堪らなく嬉しくて、だから期待は膨らむばかりだ。

「じゃあ、その後にするね」

 彼女には色々と話を聞いてもらったから、ここで蔑ろにはしたくない。

 それに見てみたいのだ、もう一度。彼の“挑み”を。

「では、お互い健闘致しましょう。求めた物が得られると信じて」

「うん」

「楽しみですわね」

 ああ、本当に。


● ● ●


 二人の眼差しはツトム=ハルカという一人の少年に向けられていた。

 しかし彼が彼女らに見られているように、“彼女”もまた見られているのだ。

 一番という冠を望む者に。

「楽しそうだね、お二人さん」


● ● ●


 突然の声に、二人は背後へ振り返る。

 そこには壁があるだけで、誰もいない。

「上だよ、上」

 声に従って見上げれば、上の観客席から柵に寄りかかって見下ろしてくる男子生徒がいた。

 少し褪せたような黄色の髪を少し遊ばせながらも、キチリとした印象を受ける男子だった。

「こんにちは」

 彼は片手を上げて二人に挨拶する。

 それに対し、

「……人を見下ろしながら話すのがお好きで?」

 先程までのアンヌへの態度とは裏腹に、随分と嫌そうな顔でエレナが文句を返す。

「これは失礼」

 彼女の言葉に、彼は悠然と柵を跳び越え、二人の前に着地した。

 そして、

「僕の名前はゴルド=ルクセリア。以後お見知りおきを」

 腕をわざとらしく大きく動かし、一礼。

 傍から見ればとても紳士的な態度だろう。

 しかし、目の前で見る二人は僅かな違和感を如実に感じ取っていた。

 礼儀正しさの中に、ちらちらと見え隠れするのは明らかな嘲り。

 それは二人に対してもそうであるのだが、何よりその嘲りが向けられるのは周りにいる一般生徒に対して。

 どこまでも自分が上であり彼らは下だという傲慢が、感じ取れた。

 その態度が二人にとって、特にエレナにとってとても癇に障るものだった。

「それで、何か用ですの?」

「せっかちだね。会話を楽しもうという気はないのかい?」

「全く」

「それは残念」

 辛辣な彼女の対応に、彼はわざとらしく肩を竦め、落胆した振りをする。

 そうして彼は気を取り直して両腕を軽く広げ、

「実はアウレカムさんに折り入って頼みがあって来たんだよ」

「何?」

 告げた先、アンヌの態度はひどく冷めていた。

 しかしそんなものなど露知らず、

「ぜひとも僕と戦っていただきたい」

 深く礼をして、彼は彼女に試合を申し込むのだった。


● ● ●


「別にいいけど……」

 アンヌの了承に、野次馬よろしく三人を何気なく覗っていた周囲が沸いた。

「おい、あの二人ってSランクの奴らだろ?」

「Sランク同士の戦いだってよ!」

「うわ~、楽しみ~」

 彼らが期待を示すのも当然だ。

 上位勢の戦いとは、彼らにとって未知の物。そしてそれはある種の娯楽そのもの。

「ありがとう。――ではそうだね、明日辺りにでもどうかな?」

 アンヌの返事に対し、改めて深々と礼をしつつ、ゴルドが一つ提案をする。

「ん、分かった」

 深く考えることもなくアンヌは彼に承諾を返す。

「わざわざ直接会わなくてもよかったのではなくて?」

 傍で見ていたエレナが彼に問う。

「こちらから頼むのだからそれぐらいの礼節は尽くすよ」

「明日の理由は?」

「……随分と疑うね?」

「だって貴方、胡散臭いんですもの」

 彼女の言葉にゴルドは、やれやれ、と肩を竦めてみせる。

 そして、

「言いがかりも甚だしいな。それでもトールブリッツ家のご令嬢なのかい?」

「あら、慎重を期すのも立派な処世術ではなくって?」

 彼女の中々の態度に、彼は吐息を一つして、しかしそれ以上は何も言わない。

「それじゃあ明日、よろしく頼むよ、アウレカムさん」

 彼はにこやかにアンヌにだけ笑いかけ、その場を早々に去って行く。

 彼に大して興味を抱いていないアンヌは、それを何の感慨もなく見送るが、エレナの方はあまりいい顔をせずにその姿を見送った。

 それを隣で見ていたアンヌは、

「嫌いなの?」

 問いに対し、

「ええ、嫌いですわ」

 彼女ははっきりとその言葉を口にした。

 そして、

「彼、最近急成長してる企業の子息なんですのよ」

 続いた言葉に、ふ~ん、とアンヌは興味なさげに相槌を打つ。

「老舗のうちとしては色々と気に入らない態度が目立ちますの」

 特に隠れ高慢ちきな辺りが、と更に付け加えて、エレナはただただ溜息を吐いていた。

「せっかく貴方と話せたのに最後の最後で台無しですわね」

 そうして彼女は苦笑しながら、

「あんな男にだけは負けないでくださいまし」

 それだけを告げて、彼女もまたこの場から優雅に去って行く。

 彼女を見送ったアンヌもまた、一度ステージへ振り返り、ツトムがいなくなったことを確認してから、会場を去っていく。

 その最中も、

 ……私も彼に頼みに行かなきゃ。

 いつにしようか、とツトムのことを考えるアンヌは、ゴルドのことを全く気にも留めていなかった。

 彼女にとって男二人の価値はそれほどまでに隔絶していた。

 ツトムという少年は、彼女に期待を持たせる“唯一”の存在だったから。


● ● ●


 その日ツトムは、初めのクラスメイトを皮切りに数名の同級生達と試合を繰り広げ、その全てに勝利を納めていた。

 その結果が夕方には記事とし掲載され、同級生達の間では彼の評価が十分に高いものとして広まっていった。

 しかし彼らの評価は全て自分達の延長線上としてのものだ。即ち、頑張っているから強い。

 ならば自分達も同じくらい強くなれる。

 そう思うだけで、彼の真の実力と、その強靭な精神性は微塵たりとも理解されていなかった。

 更に彼らはまだ知らない。本当のSランクという存在を。

 それがどれほど度外れているか。ツトムの実力をもってなお届かぬ彼らの強さを。

 そして、そのSランクすら遥か超える規格外が存在することもまた、彼らはまだ理解できていない。

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