第一章1『自分にとっての“当たり前”』


● ● ●


 世界にありふれる“モノ”とは何か。

 例えば空気、例えば光、例えば水。

 大地や空といった“世界の根底”となる物は、どのような世界であっても絶対的に存在し、世界が世界であることを証明し続ける。

 しかし世界の根底とは、必ずしも画一的な物ではない。

 例えば大地が当たり前に浮かぶ世界、例えば水が全てを覆う世界、例えば太陽や月が二つある世界。

 そんな多種多様な“世界”は、ここではない何処かに確かに存在している。

 たとえ他の世の誰も知らなかったのだとしても。

 そんな無限の世界の中で、この世界もまた一つの根底を持っていた。

 “それ”は空気であり、“それ”はエネルギーであり、大地と、生物と、“見えざる者”によって生み使われる“力”。

 それを、世に生きる人々は“魔力”と呼んでいた。


● ● ●


 あの“試験”からしばらく経ったある日の早朝。

 少年は一人、広大な公園の一角に据えられた、開けた場所にいた。

 背の低い草が敷き詰められたそこは、色々と動き回るのに最適な場所だった。

 周りを見回しても、見つけられるのは僅かな人数。

 こんな早い時間に、こんな場所にいる人間はそうはいない。

 だから毎日欠かさずここに通う少年にとって、彼らは残らず顔見知り。

 そんな皆には既に挨拶を済ませたから、これからすることに少年は一切遠慮しない。

 今一度周囲が無人であることを確認してから、少年は拳を構えた。

 “訓練”であり“鍛錬”。

 少年がここで行おうとしているのは、すなわち“そういうもの”だ。

「…………」

 風の音を聞きながら大きく深呼吸をし、心を落ち着ける。

 そして、

「ッ!」

 素早く右拳を放つ。次いで左拳、もう一度右拳。

 そこから先はただひたすらにコンビネーション。

 右、左、右、右、左、右、左、左、右。

 重心を移動させ、姿勢を傾け、アッパーやフックを織り交ぜて、蹴りや踵落としも織り交ぜて、ただひたすらに打撃の連携を重ねていく。

 数十分間、少年はただの一度も止まることなく、始めの位置を中心とした小さな円上を縦横無尽に動き回り、打撃する。

「――ハァッ!!!」

 声を張り上げ、一際強い拳を放ってから、ピタリと静止する。

「…………」

 少しだけ乱れた呼吸を整えながら、少年は姿勢を直す。

 自然体のまま、静かに目を閉じ、そうして意識を切り替えていく。

 ここまでは体術の訓練。それを終えたから、次の分野へと移行する。

 それは少年にとっての“鬼門”だった。

 閉じた視界の中で、少年は己を意識する。

 血の流れ、心臓の鼓動、筋肉の唸りと共に、少年は自らに流れる“力”を感じ取る。

 それは無形にして千変万化のエネルギー。

 全身を巡り、全身を覆い、全身に漂う力――すなわち“魔力”に他ならない。

 “魔力”の流れを精細に感じ取りながら、少年は右手を伸ばす。

 ゆっくりと工程を確認し、最高効率を意識しながら、少年は伸ばした右手に力を収束させる。

 収束していく魔力の流れは、どこまでも流麗で、滑らかだ。

 そうして一定量が右手に集まると、

「……≪フレア・ボム≫」

 言葉が、発せられる。

 それは魔力を変容させるための“起句”。

 無形の魔力に定型を与え、現象へと転換させる“術”の始まりである。

「――――」

 音にもならぬ音が鳴る。耳には届かず、響きもせず、しかして世界に鳴り渡る“声”。

 それは笑い声。その声の“正体”を知る者は多く、しかしその“正体”を見た者は少ない。

 彼らは“見えざる者”。

 世に溢れ、世を創り、世そのものでありながら、決して世に自ら干渉せぬ“在りて無き者”。

 人々はそんな彼らを“精霊”と呼び、敬い、慈しみ、親しんだ。

 その逆が、必ずしも上手くいかずとも。

「…………」

 精霊は遊ぶ。少年の発した起句を頼りに、少年の魔力で遊ぶ。

 結果、どうなるか。

 収束した魔力は、徐々に“ある現象”へと変じていく。

 それは光と熱の塊――すなわち“炎”。

 少年の起句に応え、“遊んだ”のはそういう性質を持つ精霊だ。

 そうして様々な性質を持つ彼らの助力を得ることで、人は、生物は、様々な現象を魔力にて引き起こす。

 それを指して“魔法”あるいは“魔術”と人々は呼ぶのだ。

 今、少年が行っているのはその中でもとりわけ簡単な魔法。

 炎へと転じた魔力は、一度小さく収縮する。

 球状に圧縮された炎の塊は、しかし次の瞬間、

「――――」

 勢いよく弾け飛ぶ。半径一メートルにも満たない、小さな爆発だ。

 ≪フレア・ボム≫。

 魔力を炎へと変じさせ、圧縮解放。そうして爆発を引き起こす、初歩の魔法だ。

 圧縮と解放のみに終始するそれは、魔法技能の基本も基本。

 誰もが子供の内に学ぶ程度の魔法である。

 そういった魔法は他にもいくつかあった。

 少年はそんな魔法を――人々が言うところの“初級魔法”を、≪フレア・ボム≫に続いて、次々と行使していく。

 水の弾丸を撃つ≪アクア・シュート≫。

 雷撃を放つ≪ライトニング≫。

 植物を生えさせる≪グローリー・プラント≫。

 石壁を突き出させる≪ストーン・ウォール≫。

 それぞれ、成形、放出、促進、変形を行う魔法だ。

 少年はそれら全てを淀みなくこなし、だけどそれで終わりだった。

 それ以上の、所謂ところの“中級魔法”を行使することはない。

 ただひたすらに、初級魔法を無限の如く行使し続ける。

 幾つもの属性の初級魔法を、幾重にも連携させて行使する様はある種凄まじくあるものの、しかし所詮は初級、程度が知れると言わざるを得ない。

 少年ほどの年齢にもなれば、中級魔法を行使すること自体は決して難しくない。

 それこそ早い者なら更にその上の、“上級”と呼ばれる高度な魔法を扱える筈だ。

 にも関わらず、少年はひたすらに“初級”のみを訓練していく。

 傍から見れば、それは酷く滑稽な光景かもしれない。

 幼子にも出来る様なことを、大真面目に訓練しているのだから。

 しかしそれでも、少年は決して止まらなかった。

「――――」

 数十分の時が過ぎ、少年は静止した。計画していた全ての魔法訓練を終えたのだ。

 間髪の一切ない魔法の連続使用にも関わらず、少年の顔に疲労の色は見られない。

 どこ吹く風と当たり前に呼吸して、その身に纏う魔力もまた一切乱さず立っている。

 そうして、

「…………ふぅ」

 大きな深呼吸を一つして、約一時間に及ぶ自主訓練を少年は終えようとしていた。

 それはいつも通りに訪れる、何年にも渡り何百何千と繰り返してきた終わりの時間。

 いつもならば心を無にするなり、今後の訓練について考えるなりするのだが、

「…………」

 今日は少しだけ違っていた。

 少年が思うのは、かつての“試験”。

 その内容と結果に一切の不満はない。やり切ったし、やり遂げた。

 しかしだからこそ、これからを不安に思う気持ちも僅かにあった。

 教師は言った。君のこれからを思えば挫くのが務めだと。

 それは自分を慮ったが故の言葉だ。

 自分がこれから身を投じようとしているのは常人であっても厳しい環境。

 そんな中にこんな己が入ればどうなるか、それは火を見るより明らかだろう。

 ついて行けずに壊れるだけ。

 だがだからとて、屈する訳にはいかない。そんなもの許してはならない。

 譲れない“モノ”がある。成し遂げねばならぬ事がある。

 “それ”がいつから生まれたモノなのか、何から学んだモノなのかは分からない。

 ただ言えることは、“そうしたい”と思ったことだけ。

 ……心配されるのはごめんだ。

 迷惑を掛けるのもごめんだ。

 ……だから挑む。

 だから立ち向かう。

 “それ”がどれだけ困難であっても、何度でも立ち上がり、何度でも挑み続ける。

 ……諦めたくない。

 諦める訳にはいかない。

 それだけが少年を突き動かし、進ませ続ける“想いの形”。

 そのことを再認識した瞬間に、少年の中で不安はハッキリと踏み潰された。

 不安も、恐怖も、絶望も、踏み越えていくと心に決めているから。

「…………」

 少年は一呼吸して、思考に区切りを付ける。

 そうしていつも通りの行程に戻っていく。

 ――つまりは帰宅だ。

 しかしこの少年にかぎって、“帰宅”が普通であるはずがない。

 帰宅という平凡な行為もまた訓練の一環に変える。そういう男だ。

「≪ライズ・アップ≫」

 発動するのは身体強化の魔法。それはいつも通り、往路復路での当たり前。

 ここから家まで、決して最短距離を行きはしない。

 距離を稼ぐために、実質街を一周してのランニングで、少年は我が家へと帰宅する。

 だからその始まりとして、少年は大きく深呼吸し、肺の空気を入れ換える。

 早朝の澄んだ空気を胸一杯に感じてから、少年は青く広がる空を見上げた。

 どこまでも無限に広がり、全てを包む天の空。

 そこはどうしようもなく高く、手の届かない場所。

 それでも少年は手を伸ばすことを止めない。

 だから、

「よし!」

 少年は気合いを入れて、走り出す。

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