序章2『諦めることを知らず』
● ● ●
少年は一直線に距離を詰めた。
彼我の距離は数メートル。一瞬のうちにそれはなくなった。
相手の懐に飛び込むと、右足を踏み、右の拳を即座に振るう。
素早いが愚直なストレートだ。
相対する女性は、繰り出されたその拳を、上半身を後ろに傾け難なく躱す。
身体が大きく反れて、バランスの崩れた彼女の身体は後方へと倒れ込む。
だからそれを支えるために、彼女の左脚が下がる。
左脚は後ろに、右脚は伸びて前に、だから――
「――――ッ!」
そこから先は、一瞬だった。
彼女が回る。高速で回る。
左脚を軸に、時計回りの回転。
伸び上がった右脚が勢いよく一周し、がら空きの少年の背に、その足裏を至らせる。
後は、勢いそのままに、
「ガッ!」
それを、蹴り飛ばす。
少年がまるでボールの如く勢いよく戦場を飛んでいく。
彼を容易に転がしたその一撃は、まさしく脚力のみによって為されたもの。
人一人を容易く弾き飛ばすその力は、明らかに異常だ。
十数メートル近くを吹き飛ばされて、ようやく少年が止まる。
地に倒れ、軽く咳き込んだ少年は、しかし即座に両の手を着き、一気に身体を持ち上げる。
立ち上がった少年は、相手を見た。
余裕綽々といった笑みで、右脚を浮かせて遊ばせる相手を。
彼の視線を正面から受け止めた女性は、肩を竦めながらケロリと告げる。
「言っておくが、“強化魔法”の類いは使っていないよ?」
当然だろう、というように彼女は片頬を上げて笑った。
「加減はしない。君のこれからを思えばこそ、ここで挫いてやるのもまた“教師”の務めだ」
だから、と彼女は続け、
「もう、“諦める”かね?」
強者の余裕を見せつけながら、彼女は少年に問う。
実力の差は歴然で、彼女はその差を以て少年の心を挫く。
それが仕事であり、せめてもの情け。
分不相応な“環境”は、彼の身を壊すと知っているから。
だから少年がここで“諦めた”としても仕方がないと、彼女は割り切っていた。
たとえそれが、自分にとってつまらない結果だったとしても。
そうして彼女は、静かに少年の返答を待つ。
だが、そんな時間は数秒と経たずに終わりを迎える。
「まだまだァ!」
少年は行動を以て答えを示した。
● ● ●
この戦いを知る者は当事者以外にいない。いてはいけない。
――その筈だった。
「来てみるものですね」
打撃音に混じりながら呟かれたのは男の声。
照明の及ばない薄暗闇、観客席の中腹にある通用口の傍に、その男は立っていた。
通路の手摺りに軽く手を掛け、薄い眼鏡越しに眼下の戦いを見守る。
男にしては長いウェーブ掛かった黒髪を伸ばし、ゆったりとスーツを着込む彼は、不意に自らの傍らに立つもう一人を見やった。
少女だ。
綺麗な少女が、そこにいる。
眼下で戦う少年と年を同じくし、彼よりも一段低い身体は細く、しなやかだ。
彼女の持つ薄クリーム色の髪は、膝辺りまでスラリと伸びて、この暗闇の中でも僅かな光を反射し神秘的に煌めく。
人形の様に澄んだ美しいその瞳は今、下の“戦場”へと熱心に注がれていた。
傍らに立つ男の言葉など気にも留めず、彼女はただ食い入る様に“戦い”を見つめていた。
そんな彼女を見て、男は小さく笑いながらゆっくりと手近な階段を降りていく。
“戦場”へと近付いていった。
無意識に、少女もまた彼に続く。
視線は決して“そこ”から離すことなく。
少女は見つめる、戦い続ける少年の姿を。その理由を自覚せぬままに。
当事者はまだ、彼らの存在に気付いていない。
● ● ●
女性は何度目とも知れぬ打撃を捌きながら心の中で感嘆していた。
目の前の少年を一言で表すなら、“努力の人”だ。
戦い始めは捻りのない真っ直ぐな打撃を繰り返していた。
無論その程度の一撃はいくら打たれようと難なく捌ける。
だから幾度となくカウンターを見舞う。
だが、少年は中々にしぶとく、どれだけ倒れ伏しようと、何度も何度も立ち上がる。
打撃に一切の手抜かりはない。
にも関わらず、彼の復帰は即座で、その勢いは未だ衰えることを知らなかった。
その体力と打たれ強さには、まさしく目を見張るものがあった。
動きは止まらず、一切休みない。
それを可能としている身体は、日頃の鍛錬の賜物なのだろう。
中々に好感の持てる少年だった。
だからこそ余計に、“底”を試したくなる。
身体の強さは理解した。ならば次は戦術。
戦闘は、今なお加速している。
始まりから今に至るまで少年の戦術は同じだろうか?
――答えは否。
“努力の人”、そう思った所以はこちらにも現れていた。
彼はこちらの戦術に合わせて、自らの技術を無数に組み替える。
試行錯誤。持ち得る手札の内、どれが有効打たり得るか、どの傾向がそれを導き出せるのか、それを実戦の中で試し続けている。
開始から続く打撃の応酬こそが彼の試行そのものだ。
始めの試行は単純だった。
カウンター主体のこちらに対し、彼は素直な打撃だけでなく迎撃や回避を誘発させるような“仕掛け”の打撃を織り交ぜ始める。
その変化に、当然こちらも対処する。
重心、目線、攻撃速度、空気の流れ、その他諸々。
虚と実を見破る術はあらかた身につけている。
だからこれまで通り、回避も迎撃も十二分に可能。
そうして変化した彼の戦術にも、容赦なく対応してみせた。
すると彼は再び戦術を変化させた。こちらに肉薄し、攻撃の回転率を上げたのだ。
虚実ない交ぜの戦術はそのままに、攻撃に攻撃を、回避に攻撃を、こちらの身体すら足場にしてあらゆる動作を攻撃へと繋げていく。
連携を重ね続け、止まることをしない。
そうすることでこちらの処理限界を引き出そうとしている。
だがそれは、逆も同じ。
……さて、どちらが先に限界を迎えるだろうか?
● ● ●
“化け物”、それが少年が女性に抱いた感想だった。
自分が今まで磨き上げてきた技術の悉くに、目の前の相手は対応してみせている。
高速で行われる打撃の応酬は、既に己の処理限界に近い。
決まると思った一撃は容易く挫かれ、交わした打撃の数はもはや数え切れない。
膠着状態のように激動の応酬は続き、まるで変化がない。
それどころか、いつ集中が途切れてもおかしくない極限状態が、永遠のように続いている。
身体以上に、心が疲弊していた。
このままでは本当にどうしようもない。
決め手に欠ける訳でも、奥の手を出せない訳でもない。
ただ相手はこちらの悉くに対応し、その全てを決定打たり得なくさせているだけ。
これほどの無理難題があるだろうか。
こちらの努力の集大成が、皆悉く打ち砕かれていく。
鍛錬の全てが、通っている筈なのに決して抜けはしない。
受け切った上で、頑なに耐え切られていた。
どこまでも残酷に、ただただ対応が為され続ける。
拳打も、蹴打も、頭突きすら視野に入れて構築する戦術も、片端から砕かれ潰される。
これ以上ない絶望を突きつけられ、少年の心の奥底に“声なき声”が木霊する。
――無理だ。
そう思って諦めるのは簡単だ。
――できない。
そうやって逃げ出し、苦痛を避けるのも間違ってはいないのだろう。
――出来るはずがない。
そう言い訳することで諦めを正当化し、自己の精神を守ることも必要なことだ。
響く言葉。反響し続ける“その声”は、知っているようで知らない声。
それは誰も彼もが思い浮かべる、自己防衛の甘言。
受け入れるのは容易く、一度知れば病み付きになる甘美な猛毒だ。
喰らってしまえと“声”が告げる。
溺れてしまえと“誰か”が諭す。
ここまでよく頑張ったと“絶望”が手をこまねいて待っている。
“諦め”という終焉は目の前に。
いつの間にか“立ちはだかる相手”とその“絶望”が重なって見えて。
だからそれを――
● ● ●
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――ッ!!!!」
雄叫びを上げながら、少年は“全て”を打ち砕く。
迷いのない打撃は下らぬ“誘惑”を跡形もなく吹き飛ばし、霧散させる。
心の中で、吠え上げる。
……諦めて、逃げて、何になる!
それじゃあ何も掴めない。
……それじゃあ何も得られない!
勝利を放棄し、敗北という安寧を受け入れ、自らの可能性を否定する。
……それで良いというのならそれに甘んじていろ!
それが嫌だから、抗い続ける。
何度繰り返そうと届かなくとも、何度繰り返そうと掴めなくとも。
……諦めるわけには、いかないんだ!
それこそが己の“決意”。
……今までで届かぬというのなら、今から届かせればいい!
心は燃え上がる。目の前に“壁”が、“絶望”が、挑むべき“それ”が高く聳え立つ程に、どこまでもどこまでも、“魂”は激しく燃え上がり続ける。
だから思考する、超える術を。
己がここに至るまでの全てはとうにぶつけた。
だがそれでは届かない。ならばどうする?
「――――ッ!」
答えは簡単だ。
……今まさに、目の前に、学ぶべき存在がいるだろう!
相手の一挙一動、どれだけ見た? ただ流し見ていたなどとは言わせない。
己の戦術とは、相手の動きに“挑む”ものなのだから。
……よく見、よく聞き、よく感じろ!
五感の全てはとうに全開だから、後は吸収し、応用しろ。
そしてただひたすらに、
……突き進めッ!
● ● ●
高速の応酬は更に加速する。加速し、加速し、加速し続ける。
もはや当事者達すら自らの一挙一動を理解できていない。
経験による反射のみが互いの動きを構築し続け、応酬を積み重ねていく。
思考は置き去りで、常人に至れる領域はとうの昔に過ぎ去った。
これは鍛え抜かれ、磨き抜かれた強者達の狂宴。
彼我の差は絶大なれど、それが今この時に埋まらぬ訳ではない。
対応は徐々に同等と化していく。
ならばその差は埋まったか?
――答えは否。
未だ差は大きく、埋められたのは僅かのみ。
それでも応酬は続いている。それはひとえに技術の入り込む余地すらなくなりつつあるから。
打撃の応酬。その回転率はもはや尋常ならざる高さを示し続ける。
そこに高度な技を組み込めるような隙も時間もありはしない。
だから応酬は続き、均衡は保たれる。
だが両者には“差”があった。
戦闘技術における実力差ではない。立場としての“差”だ。
挑む者は全力を以て敵手を打ち砕きに行く。
その過程で如何な痛打を浴びようとも、不屈の意志で持ち堪える。
対して挑まれる側は一つの制約を設けられていた。痛打を浴びてはならない、という制約を。
それは実力差が大きくとも均衡が保たれる一因であり、彼女の最大の弱点でもあった。
なぜなら、もはやそんな悠長なことを言える余裕など無くなっているのだから。
ならば結果はどうなる?
「ハアアアアアアアアアアアアアアアアア――――ッ!!!!」
答えはここに、現実となる。
● ● ●
「……これは、“やられた”、な」
決着の言葉を、女性は告げた。
先程までけたたましく鳴り続けていた無数の打撃音は失せ、久方ぶりの静寂が戦場を包み込む。激しく乱れた空気も、もつれ合い弾き合った互いの闘気も、ゆっくりと落ち着いていく。
全てが一度静止し、再び動き出すほんの僅かな時間。
女性はゆっくりと目を閉じ、そして開く。
眼前にあるのは少年の拳。こちらに直撃する寸前で、止まった拳だ。
これこそが決着の一打。避けきれず、捌ききれず、浴びざるを得ぬと理解した一撃である。
ならば勝利は彼の手に。
……あっぱれ。
己はここで兜を脱ごう。見事少年はこちらを捉え、自らを届かせたのだ。
そう理解したからなのか、少年は拳を止めていた。
……いや。
違うな、と即座にその考えを否定する。拳が止まった原因が分かってしまったから。
最後の一撃。それが届く瞬間、確かに己は痛打を浴びると理解した。
だが、本来の、枷も何もない戦いにおいて、それは決着たり得ない。
だから身体は自然と動く。その次を紡いでいくために。
彼はそれを察知したのだ。こちらが一撃を浴びながら繰り出そうとしたカウンターを。
素晴らしい直感だと言わざるを得ない。ああ、本当に。
……あのまま受けていれば、止まらなかったのは果たしてどちらだろうか?
その先を想像して、思わず笑みが浮かんでしまう。
だけど笑みの理由はそれだけではない。
……なんと心躍る戦いであったか。
久しく感じていなかったどうしようのない高揚が、なおも心に渦巻いている。
……全く以て期待が高まるばかりだよ。
視線の先、件の勝者は上がった息を未だに整え切れていない。
その瞳は強く輝き、終わりを理解してなおこちらに視線を強く向けている。
だからついつい子供じみた満足の笑みを返してしまう。
こちらの笑みを見た少年は、そこでようやく緊張の糸を解いたようだった。
ゆっくりと拳を下ろし、深呼吸を一つ。
そして、
「ありがとうございました!」
勢いよく礼をした直後、少年はその場に倒れるように座り込んだ。
「体力の限界かな?」
「……まあ、そんなところです。ただそれ以上にホッとしたと言いますか――やり切った」
そんな感じです、と少年は続け、疲労を窺わせながらも爽やかな笑みを浮かべた。
そこには先程までの力強さはもう残っていない。
落差が激しいなと思いつつ、少年に労いの言葉を掛ける。
「おめでとう。これで晴れて君も私の生徒というわけだ」
そう告げると、まるでそんなことなど忘れていたかのように少年は一瞬呆け、
「ありがとうございます!」
再び礼をする。そんな少年の姿に苦笑しつつ、
「まあ、今日は帰って祝杯でも上げ、ゆっくり休むといいさ」
告げた言葉に、
「はい!」
少年もまた屈託のない笑みを浮かべてしっかりとした頷きを返した。
「それでは入学式で――」
また会おう、と言おうとして、ふとある事に女性は気が付く。
ようやく、というべき気付きだった。
「……全く、受験生に試験を見学させるのはどうなんだ? ダイグウジ先生」
観客席の最前列に見つけた二つの人影に向けて手を振ると、その片方が手を挙げて返答する。
……彼が試験官ということは――
隣にいるのは“あの子”か。
そう理解しながら、少年の方へ向き直ると、彼もまた向こうの二人に視線を向けていた。
ボーッと見つめるその様は、まるであちらの少女に見惚れているかのように見えて、
「彼女に興味があるのかな?」
問いかけると、少年はハッとした様子で咄嗟にこちらへ向き直り、
「い、いえ、そんなことは……」
焦ったように否定の言葉を口にする。
それに苦笑しつつ、
「まあ、入学式にでも会えるさ」
何気なく言った言葉に、彼がピクリと反応した。
「あ、彼女も合格してるんですね」
少年に言われてから自分の失言に気付いたが、まあ別に大したことではない。
「試験はこれからだが、ほぼ確実だろうなぁ……」
少し前に彼女が“した事”を思えばそれは当然の帰結で、だから、
「君も君で注目されるだろうが、彼女も彼女で君とは逆の意味で注目されるだろうさ」
告げた言葉に、しかし少年は首を傾げるだけだ。
今はそれでいいのだろう。いずれこの少年も彼女の“真実”を知る時が来るのだから。
「さあ、もう帰りたまえ。入学式でまた会おう、ツトム=ハルカ君」
試験は終わり。彼の勝利を以て今日この日は幕を閉じる。
「ありがとうございました!」
去っていく彼を、手を振って見送りながら、来る未来に思いを馳せる。
……果たして君は彼女を受け止められるだろうか?
そんな期待ばかりが、胸にあった。
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