第7話


  月曜日


 四二九号室の扉には、手紙が貼りつけてあった。彼女からわたしへの手紙だ。


   突然ですが、わたしはここを去ることにしました。といって、東京にも行きません。田舎に帰ることにしたのです。わたしの田舎は湖こそありませんが、坂道から海が見える美しい街です。わたしがギターの腕を磨いた街です。なにをするでもないですが、しばらくわたしはこの街で休息しようかと思います。

   ギターを再び弾くかどうかについては迷っています。デモテープを作るなどと言っていたわたしですが、正直に言えばまたあの右目と左目の世界がピシッとヒビ割れるのが怖いのです。

   ですから、わたしは自分が生まれ育った街で心身を休めることにしました。療養施設を出たのですから、一歩前進といったところでしょうか。いえ、もしかしたら一歩後退かもしれません。いずれにせよ、わたしはもうあの四二九号室でデモテープを作るという夢想に浸ることはできません。

   あなたには散々と生意気なことを言ってしまいました。他ならぬわたし自身が人生の局面の乗り切り方を知らなかったのですから、滑稽なことです。

   故郷に帰って、わたしがどうなるかはわかりません。以前より良くなるかもしれないし、悪くなるかもしれません。眠る前の不安も続くような気がします。それでも故郷にはいい風が吹いていると、わたしはそんな希望的観測であの街に帰ります。

   あなたはどうか、会社員になって、児童文学、いえ、ティーン文学でしたね。それを完成させてください。なんの根拠もないけれど、あなたならできると思います。         

あれだけの早さで依存症から回復できたのですから。

   あなたと話せた六週間はとても楽しかったです。それでは、もう会うことはないでしょうから、さようなら。ありがとう。


わたしはその手紙を読み終わると、もう一度最初から読み直した。彼女が精神的に参っ

ていたのは間違いない。ただ、このような最後になるとは思っていなかった。わたしとしては、彼女が故郷で回復できることを祈るしかない。彼女もまた、そう願うと信じている。

 彼女は、鋼鉄のそよ風にさらわれてしまったのだろう。わたしはそう思うことにした。誰よりも熱心にギターと詩に力を注いだ女性。そのように彼女を記憶しておくことが、一番正しいことのように思えた。

 生真面目に人生に取り組み、魂を燃やして音楽に取り組んだ。その結果が療養施設での数年間になってしまったのだろう。いつか彼女は言っていた。自分はミュージシャンをやるには神経が細すぎたと。

 顔も名前も知らない女性に対して、わたしはなんとも言えない気持ちになった。自分が助けてあげられたとも思えない。ただ、もっとなにか協力してやりたかった。

 大学で遊び惚けていたわたしがこうして清掃員の仕事に就き、真摯に生きた彼女が故郷で心身を休めることになったことを思うと、人生の不公平さを感じずにはいられない。そのことがわたしには悔しかった。


  火曜日


 わたしは一人で四二九号室の前の窓辺に立ち、遊覧船を眺めていた。彼女と乗ろうと言ったことを思い出す。

 昨晩はよく眠れなかったし、久しぶりにアルコールが欲しいとも思った。不安感に苛まれた夜だった。それでも、わたしはアルコールの誘惑に勝った。もうこれから先の人生でアルコールを飲むことはないと思う。それでも、昨日はアルコールが欲しかった。彼女のことを考えずにはいられなかった。

 イチゴオレを飲みながら、松林を眺める。緑が揺れている。彼女も病室からこの風景を見ていただろうか。


  水曜日


 たったの二日で、彼女がいないことに慣れた。もともと、ここには一人で佇んでいたのだ。六週間、彼女と会話をしたにすぎない。

 昨晩もまた、不安感から眠れなかった。アルコールに勝つ自信はあったけれど、不安な夜が続くのは辛かった。

 わたし自身、なぜ彼女がいなくなったことがこれほど辛いのかはわからない。なにも親友同士になったわけではない。

 ただ、彼女とは眠れない夜を共有していた。その事実は大きい。

 遊覧船は夕陽に照らされて光っている。あの遊覧船に一緒に乗りたかった。そんな思いがある。それだけじゃない。彼女と東京に行きたかった。

 彼女は東京でアルバイトを探し、わたしは会社員になる。そうしてお互いに励まし合う。そんな夢想があった。


  木曜日


 書類選考の結果が送られてきた。わたしはウォーターサーバーを売る会社の事務員の一次審査に合格した。清掃会社にはそのことを伝え、二次の面接のために東京に行く許可をもらった。

 嬉しくはある。でも、その嬉しさを伝える相手がいない。

 なんでもない存在だった彼女が、その存在がなくなるとわたしの中で大きくなっていった。そこには確実に喪失感があった。

 もう二度と会えない。彼女はそう言っていた。わたしもそう思う。


  金曜日


 仕事が終わり、携帯電話で業務の終了を告げると、わたしはまた遊覧船を眺めた。

 わたしは今、かなりメランコリックになっている。大きなものを失ったからではない。失ったものを大きく感じすぎてしまっているためだ。

 彼女から教わった、人生の局面という言葉を思い出す。そして、なんとかこの言葉をティーン文学に使えないか考えた。

 なかなか上手くいかない。

 わたしはただ、もう一度彼女と話したかった。


  土曜日


「最近、絵が活きいきしていますね」

 絵画療法士の先生が言った。

「そうですか?」

「はい。心が自由になっている感じがします」

 絵画療法士の先生は笑顔で言った。わたしも笑顔を作ってみる。

「あの青いヒマワリの辺りから変わったと思います」

 絵画療法士は言った。

「ですよね」

「はい」

「わたしもそう思います」

 わたしはもう、硬直したように黄色いヒマワリを描くだけではなくなっていた。思いついたまま、様々な絵が描ける。

 精神が解放されたのだろう。でも、なぜだろうか。思い当たることはない。


  日曜日


 不安のない夜がいつか来る。わたしはそんな言葉を小説に書こうとしていた。でも、今はそうは思っていない。当時のわたしに言えるのは、不安のない夜は来ないということだ。

そして、それでも人生は続いていくということ。わたしに言えるのはそれだけだ。アルコールの誘惑に勝てるだろうか。

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