第6話
月曜日
「自分を受け入れた時、人を受け入れるようになるんだって絵画療法士の先生に言われました」
「どこかで一〇〇万回くらい聞いた言葉だね」
「そうですね」
わたしは笑って五月の風にそよぐ松林を見た。
なによりもわたしはまず、自分を受け入れる段階なんだろう。自分でもそれがどういうことなのかはわからない。依存症になった自分、就職に失敗した自分、それらを受け入れろということだろうか。だとしたら、それはもうある程度できている気がする。それとも違うのだろうか。
「仕事は探してるの?」
「はい。まだ探してる段階ですけど」
正直に言えば、今のリハビリ期間が終わることに恐怖を感じている自分がいる。月曜日から金曜日まで清掃の仕事をして、土曜日に絵画療法と精神分析を受け、グループセラピーを受ける。そして日曜日は泥のように眠る。この生活のサイクルを悪くないと思っている。
「忠告しておくと―」
「はい」
「―今の生活に慣れてはダメだよ」
「今ちょうど、この生活も悪くないなって思ってました」
「そう思うと抜けられなくなる。あなたはまた会社員になるんでしょう?」
「そうでしたね」
もう一度会社員になるというのは、ほとんど意地だった。世間体も関係ない。ただ、あの睡眠薬に溺れるキッカケを作った社会人生活をもう一度やり直したいのだ。もしかしたらわたしは思っているよりも負けず嫌いなのかもしれない。
「児童文学の方は?」
「書きたい気持ちばかりはあるんですけど」
わたしは苦笑して空を流れる雲を見上げた。四階の窓から空を見上げることはあまりなく、その新鮮な景色に驚いた。
火曜日
「わたしも外の世界に出てみるべきなのかもしれない」
彼女は冷静な声で言った。
「その方がいいですよ。自分でもなにがいいと思ってるのかわからないですけど、その方がいいです」
彼女は、十九歳で東京に出て行った時のようにやり直すつもりだと言った。そしてわたしの知らないギターの名前を挙げて、そのギターを買うのだと言った。デモテープも作ると言っている。
「本当に何年もここに入っていて、参っちゃってたの」
「それはそうですよ」
彼女の声は明るかった。それがわたしをホッとさせた。
「あなたも就活頑張らないとね」
「そうですね」
「児童文学も」
「あ、ティーン文学にしたんです」
「どっちでもいいよ」
「よくないですよ」
わたしは改めて中高生の頃に自分がなにを求めてたのか問い直してみた。ボトルメッセージを東京湾に投げた自分、サリンジャーをこれ見よがしに読んでいた自分。あの頃には、確かにわたしは他人を求めていた。それが今では、一人の世界に閉じこもっている。
あの頃の自分に、今の自分はなにを言ってやれるだろう。人間、案外一人でも生きていけるよ、だろうか。それは違う気がする。あの頃の自分に対する一言さえ、それさえわかれば、ティーン文学も書ける。そんな気がした。
「またギターを習い直すのもいいな」
彼女はそんなことを言って鼻歌を歌った。耳に残るメロディだな。わたしは素直にそう思った。
水曜日
「外の世界に出るなら、わたしもまずは仕事だな。東京で」
「東京なら仕事も沢山ありますよ」
彼女は、次にまた音楽を始めるなら、もう二度と自分を追い込まないと言った。気分の赴くままに作るのだそうだ。わたしもそれがいいような気がした。そして彼女はわたしにも、小説を書くなら考えすぎてはいけないと言った。わたしはその忠告を必ず守ると言って、カフェオレを飲んだ。
「わたしたち、顔も見たことないけど、意外と似てるかもね」
「顔がですか?」
「そう」
「ですかね」
「顔だけじゃない。なにもかも似てるかもしれない」
「そうですかね。わたしは怠け者の大学生でしたよ」
「なんでなのかわからないけどそんな気がするの」
わたしも道が違えば、ギターに熱中して、韻律にこだわりすぎるほどこだわって、右目と左目の間にヒビが入ったりしたのだろうか。いや、そうはならない。わたしはどこまでも自堕落な人間だ。どんな道を歩んでも、最終的には睡眠薬に溺れていた気がする。
「前の会社員時代、夜眠る前が苦しくてそれで睡眠薬に手を出したんですけど、なんとも言えない浮遊感があるんですよ。それで、ああこれで眠れる。安心だぁって思うんです。あの気持ちよさは、なかなかないですよ。それでも夜中に目が覚めちゃったりするんですけどね」
「眠る前の不安感、今はあるの?」
「ないですよ。会社員じゃないですもん」
「眠る前に安心できたら、どんなにいいだろうね」
「本当ですよ」
考えてみると、わたしは子供の頃から睡眠に困難を抱えていた。翌日が来る。そのことが怖かったのだ。話す友達もいない学校に行く。そのことが苦痛で仕方なかった。あの頃から、睡眠薬中毒になる土壌はできていたのかもしれない。
「今、わたし十八曲あるの」
「凄いですね」
「デモテープに入れる価値があるのは八曲かな」
わたしは彼女の弾んだ声を聞きながら、一筋の飛行機雲を見上げていた。
「八曲っていうのはいかにも昔のレコードみたいでいいじゃないですか」
「ギターの伴奏、弾けるかな。勘を取り戻さないとね」
彼女は療養施設を出て東京へ行き、わたしも就職活動をして東京へ行く。なにもかもが好転する。
わたしの脳裏には、なぜか青いヒマワリがあった。今にして思えば、あれが変化の兆候だった気がする。
「あなたが話した、人生の局面を切り抜けるって話、今はよくわかります」
「そう?」
「青いヒマワリ。あれがわたしの変化を表していたんだと思います」
「わたしもずいぶん説教臭いこと言ったよね」
「そんなことないですよ」
「ならいいけど」
わたしはふと思いついて、「不安のない夜がいつか来る」と言った。
「なあにそれ」
「わたしが十代の自分に言いたい言葉です。でも、今はまだ言えません。まだわたしはアルコールと闘ってる身なので」
わたしは自分のこの、不安のない夜がいつか来るという言葉が気に入った。まだ使いどころはわからないし、今の自分に使える言葉じゃない。でも、いつかこの言葉を書けるようになった時が、ティーン小説を書ける時だと思った。
「わたしはいつも眠る時は不安」
彼女は言った。
「なぜですか?」
「また次の日が来てしまうから。それって不安でしょう?」
「そうですね」
わたしは、わたしたちは、まだ翌朝に怯えている。どうしようもない。昨日があって、今日があって、明日があって、明後日がある。そのことにまだ耐えられない。日常が終わることなく続いていく。恐ろしい。
飛行機雲は、いつの間にか消えていた。外に風はない。五月の夕方はまだ明るく、希望に満ちているように見えた。
木曜日
木曜日は五月の霧雨で松林が煙っていた。彼女も黙ったまま、物音一つ立てない。
わたしはふと心配になった。ここのところの彼女は妙に浮き沈みが激しい。落ち込んでいたかと思うと、この二日は上機嫌だった。わたしに精神医学のことはわからないけれど、気分の上下が激しいのがいいことではないことくらいは知っている。
「気分が悪いの?」
わたしは彼女に問いかけてみた。彼女からはなんの反応もなかった。
金曜日
「昨日はごめんなさい」
「いえ。大丈夫ですか?」
「最近、気分の波が激しくて」
「変化の時だからですよ」
「そうね。また明日は青いヒマワリを描くの?」
正直、そのつもりはなかった。今はただ、思いついたままに絵を描きたい気分で、それが一番、自分の心を開放している気になれる。自分の心が自由になっている感覚が、日に日に強くなっていた。もうあまりアルコールにも惹かれない。
「好きな絵を描きますよ」
「あなた、この数週間でだいぶ回復したね」
それは実感していた。一つには、規則正しい生活が大きい。もう一つは、なんだかんだで絵画療法だ。そして、仕事が終わってから彼女と話すことも精神衛生にいいように思えた。
「昨日は履歴書を書きました」
「へえ」
「ウォーターサーバーを売る会社の事務です」
「受かるといいね」
気持ちとしては、半々だった。書類選考で落ち続けて、ここで清掃員を続けるのも悪くない。彼女は今の生活に慣れてはダメと言っていたけれど、正直に言ってここでの生活の静かさは捨てがたいものがある。バスがなくなってしまうので三十分早く上がらせてほしいという要望さえ聞いてもらえない職場だけれど、仕事は楽だし、気持ちも安定していられた。会社員になれば、この安定はなくなるかもしれない。そう思うと気が滅入るのは確かだった。
「人の回復を見るのは楽しい」
彼女は言った。わたしはそれほど回復しただろうか。自分ではわからない。
「人生の局面の乗り切り方を学ぼうとしなかったわたしが、今こうしているのは不思議ですね。言われてみれば」
「わたし、なんであんなこと言ったんだろう。人生の局面の乗り切り方なんて、図書館で習うもんじゃないのに」
「図書館でも習えますよ、きっと」
しかし彼女は、「図書館で習ったはずのわたしがこの様だよ」と言って哀しそうに笑った。
「そんなこと言ってはダメですよ」
「そう?」
「あなただってこれから旅立つんですから」
「そうね」
「デモテープも作って」
「そうだった」
彼女はどこか上の空だった。わたしの昨日からの心配は続いた。彼女は明らかに弱っている。
「わたし、デモテープなんか作れるかな」
「一度はデビューした身なんですし、そりゃあブランクはあるでしょうけど……」
「ギターもまた弾けるかな……」
「どうしたんですか?」
わたしは彼女のあまりの弱気が気になって問い質した。
「だってわたし、何年もここでしか生活してないんだよ」
「だから、そろそろなんですよ。このまま一生ここにいるわけにもいかないじゃないですか」
「わたし、あなたみたいに働けるかな」
「働けますよ。わたしの知り合いで、三十四歳まで働いたことないっていう人がいましたもん。その人も今は働いてますよ」
わたしは必死に彼女を励ましたが、わたし自身も不安の最中にあった。再び会社員に戻ることが怖くて仕方なかったのだ。だからこそ、彼女への励ましもなにか上辺だけのものになってしまった。
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