第5話

月曜日


「まだヒマワリの絵を描いてるの?」

 彼女が言い、わたしは「一昨日は青いヒマワリを描きました」と答えた。

 自分でもなんでそうしたのかわからない。絵画療法士は、一緒に考えてみましょうと言った。わたしは、少し変わったことがしたかったんですとだけ言って、青いヒマワリを眺めていた。

 なんで変わったことをしたかったんでしょうね。絵画療法士は言った。わたしとしては答えようがなかった。きっと、古典の一つも読めない自分に腹が立って、奇抜なことをしたくなったんだと思う。

「なんでヒマワリを青くしたの?」

 彼女も絵画療法士と同じことを尋ねた。

「変わったことをしたかったんです。我ながらヒマワリを青くするなんてありふれていると思ったんですけど、黄色よりはありふれていないでしょう」

「そういうのは心境の変化として分析されるの?」

「多少は」

 アルコールを断って二週間が経った。なにか自分の変化を形にしたかったのかもしれない。黄色い花より青い花の方が気持ちが落ち着く。その落ち着きを表現したかったのだろうか。

 彼女が言う人生の局面の乗り切り方を、わたしは絵画療法でやっている。なぜ、自分はこの絵を描いたのだろう。描いた自分自身に問いかける。自分でも思ってもみなかった解釈が出てくる。内観を得るとはこういうことなのだろう。

「あなた、本当にまた会社員になるの?」

「なんでそんなこと訊くんですか?」

「なんとなく、あなたに会社員は向いてないような気がするから」

 彼女の言うことは恐らく当たっている。でも、十八歳から二十一歳を無益に過ごした自分のけじめのようなものなのだ。わたしは彼女のように神様にギターを選ばせてくださいと願ったわけじゃない。児童文学者になりたいと思っていても、そう願いすらしなかった。そんなわたしがどうせ会社員にも向いてないと宣言してしまうのは、卑怯な気がした。頑張らなかった人間なりの責任を取りたかった。

「なになら向いてると思います?」

「さあ、それはわからないけど」

「芸術家なんて向いてますか?」

「それは芸術家として失敗したわたしに訊くことじゃないかな」

 彼女はいつまでも自分をミュージシャンとして失敗したと言い続けるつもりなのだろうか。わたしはふとそんなことを思った。


  火曜日


「曲が溜まってきた」

「それはよかったですね」

 わたしはそう言ってコーヒー牛乳を飲んだ。アルコールを断ってから、甘い飲み物にハマっている。

「この病院から出ることはできるんですか?」

「わたしの希望と家族の許可、それと主治医の判断。それが合致したらね」

「それは難しいことなんですか?」

「どうだろう」

「今まで、あなたから希望を出したことはないんですか?」

「ない」

 わたしはそれを意外に思った。彼女から外に出たくて仕方ないという感じは伝わってこなかったけれども、ギターに触れないことや鉛筆すら与えられないことには不満を持っていた。彼女を閉じ込めているのは、彼女の家族と主治医なのだと思っていた。

「だってわたし、中学校二年生からずっとギターしかやってなかったんだよ? 今、むき出しのままのわたしが外に出てなにができるの? よしんばまたレコード契約できたとするでしょ? でも、以前のわたしと違うことはわたし自身が一番よく知ってるんだから。もうここに入って何年も経つの。ちょっとした浦島太郎だと思わない?」

「それは人生の乗り切るべき局面とは違うの?」

「そんなのは人間形成の話。今のわたしには、社会人として生き抜いていく力そのものがないの」

「人には内観を得ろって言っておいて、それはないんじゃないですか?」

 わたしはつい意地悪なことを言ってしまったけれど、彼女が恐怖におののいているのはわかった。確かにギター一筋で生きてきた彼女が今から外の世界に出て、一体どれほどのことができるのだろう。ましてそのギターの腕も落ちているのだろう。

「曲が溜まってきたって言ったけど、出来が以前より良くないこともわかっているの。こういう勘は結構当たる」

 わたしはなにを言うべきか見当もつかなかった。彼女は療養施設から出たがっていない。出たら自分が粉々になってしまうとでも思っているようだ。そしてそれはあながち間違いじゃないのかもしれない。

「わたし、ファミレスのアルバイトしかしたことないんだよ? 十九歳からは事務所にお給料もらって曲作り。それだけ。そうして失語症になってすべて終わり。右目と左目で見る世界が変わって、それで終わり。なにもかも終わり」

「わからないけど―」

 わたしは声を絞り出した。

「―その局面もなんとか乗り切れますよ。本で乗り切るのか、経験で乗り切るのか、それはわかりませんけど」

 そしてわたしは続けた。

「いつか一緒にあの遊覧船に乗りましょう」


  水曜日


「昨日は取り乱してごめんなさい」

「いいいですよ。誰にでもそういうことありますよ」

 わたしは日々、アルコールに対する欲求が減ってきた。イチゴオレやカフェオレの飲みすぎは多少気にしていたが、アルコールでないだけましだと思っている。

「あなたは明らかに回復してるね」

「そうですね。本来、アルコール中毒は数週間で治るものじゃないんですけど、わたしの場合はどうも上手くいってるようです」

 最近は、起きてからストレッチもしている。それも身体にはよく効いているようで、動きのキレが増した。また、夏目漱石もAMAZONで買った。『こころ』だ。今まで一度も読んだことはなかった。読もうと思ってから十二年以上が経っている。

「わたしの忠告なんて無視してもいいけど、急な回復には落とし穴もあるっていうから気をつけてね」

「はい。ありがとうございます」

 インターネットで見るサイトも、最近は職探しのものが増えてきた。週五日、完全週休二日制で、残業の少ない仕事を選んでいる。

「わたし、外の世界に出て行ったらどうなっちゃうんだろう」

 彼女はまた弱気なことを言っていた。人生に対して強引な印象があった彼女はここにはいない。ただひたすら後ろ向きだった。

「願うしかないですよ。自分は外の世界でやれますようにって」

「そうね」

 彼女は力なく笑った。

「それにしても、遊覧船って結構怖いよね」

「まあそうですよね。下は湖ですから」

 わたしはもう一度彼女のことを考えた。中学時代からギターだけのことを考えてきた少女。十九歳で認められ、すぐに失語症で失脚したミュージシャン。これでは外の世界を怖れるなという方が難しい話だと思う。

 彼女は人生の局面を乗り切るという話を自信満々にしていた。大学生になって人生と真っ向から立ち向かわなかったわたしを批判もした。その彼女が、弱気になっている。それはよほどのことなのだろう。少なくともわたしは、自分にはあんなに偉そうなことを言っておいてとは思わなかった。

 あれだけ強く人生に信念を持っていた彼女も、療養施設から出るとなると恐怖心にかられる。それが当然だろう。わたしには言ってやれるべき言葉もない。

「松林の中も歩きたいね」

 彼女は言う。

「そうですね。きっと綺麗ですよ」

「一緒に東京にも行こうか」

「いいですね」

 急に弱くなった彼女を、わたしは失礼ながら哀れに思ってしまった。


  木曜日


「原稿用紙を買いました」

「お、ついに書くのね」

「筋書だけですけど」

 今日の彼女は幾分元気に思えた。声に溌溂さが戻っている。

 夜中、果たして自分はなにを書きたいのかを改めて考えてみた。ボトルメッセージが届いた女の子。その話も悪くなかったけれど、わたしが本当に書きたいのは孤独が癒される物語だ。なにもそれがボトルメッセージの話じゃなくてもいい。

「孤独だったってことありますか?」

 わたしは彼女に尋ねてみた。

「今ね。この数年が人生で一番孤独」

 そう言う彼女の声は明るい。

「それってどうやって解消されると思いますか?」

「少なくとも他人によってじゃないな」

「それじゃあなんでしょう」

「これさえあれば自分は大丈夫なんだっていう……自信? 自信とも違うな。これという支えかな。学生時代のわたしだったらギターね。そういうもの。他人は孤独を紛らわせてはくれるけど、孤独を解消はしてくれない。これさえあれば……、これさえあれば……、そういうものが孤独を解消してくれると思う」

 彼女の答えは、わたしの思った通りのものだった。彼女なら絶対にそう答えると思っていた。わたし自身もそう思っている。孤独を癒すのは、別の孤独なのだと。少なくとも人ではない。人と話すのは確かに楽しい。孤独が紛れもする。しかしそれが余計に孤独と闘いにくくもする。

 ただ、この考え方はあまりにも寂しいとも思った。この世界のどこかに、自分の孤独を解消してくれる誰かがいることを信じられないで、それで本当に児童文学が作れるのだろうか。

「恋人がいたことはある?」

 わたしは彼女に訊いた。今までで一番深入りした質問で、緊張した。

「もちろんあるよ。でもあれは重荷だね」

「そうですよね。最初はトキメクんだけど、だんだんと存在が重ったるくなって」

「そう。きっとまだ相性が合う人に会ってないんだと思う」

「願わないと」

「そうね」

 そうしてわたしたちはしばらく黙った。

「これでいいのかな」

 彼女が言う。

「なにがですか?」

「人で孤独が癒せないって、そんなんでいいのかな」

「わたしもそう思ってました。睡眠薬、アルコール、そんなもので人生を誤魔化して、孤独の解消は人じゃないって、それでいいのかなって。でも、そうとしか思えないんですよ」

「わたしも」

「やっぱり遊覧船、怖いですよね」

 わたしは湖に浮かぶ遊覧船を見て言った。


  金曜日


「さて、今週の仕事も終わりです」

「また少し孤独の話をしましょうよ」

「いいですよ」

 わたしはバナナオレのパックを開けると彼女の言葉に応じた。

「考えてみたら、いいと思うの。本当に成熟した人なら一人でいられるもの」

「確かにそれはそうですね」

「だから孤独を解消するのはやっぱり他人じゃない」

 それはそうだ。でも、人となにかを分かち合わない人生で果たして本当にいいんだろうか。

 わたしと彼女は当然違う。彼女は若い頃に図書館に通い、自己の世界の確立に力を注いだ。わたしは違う。わたしは若い時間を娯楽だけに使い、最終的には就職にも失敗して睡眠薬に溺れた。

 でも共通点もある。それは一人きりの世界で完結して生きていることだ。他人が入り込む余地はそこにはない。彼女は療養施設の四二九号室で一人作曲をし、わたしは安アパートで児童文学を書こうとしてる。そこに他人はいない。他人を受け入れようという気持ちも、少なくともわたしにはない。まだわたしは自分を受け入れるのに必死だ。

 子供の頃、メッセージボトルが届いていたらどうなっていただろう。きっと、文通相手のことを重荷に思ってすぐに疎遠になったんじゃないだろうか。

「わたしたちは寂しい大人ですよ」

 絵画療法士はなんと言うだろう。そんなことがふと気になった。

「大人……かな」

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