第4話

 月曜日


「もしわたしが会社員をやりながら児童文学も書くって言ったら、あなたは無理だって言いますか?」

 わたしは週明けの夕方にそんなことを訊いてみた。松林は五月になって緑の濃さを増している。その美しさを眺めながら、半ば夢心地でそんなことを言ってみた。

「無理とは言わないけど、今までそんなに会社勤めが大変だったなら難しいことではあるんじゃない?」

「給料は少なくても残業は少ない企業に就職しようと思ってるんです」

 女は少し黙り、「よく知らないけど、求人広告には残業少なめって書くものなんじゃない?」と言った。

「まあそうなんんですけど」

「なんでまた児童文学を書く気になったの?」

 今までの会社勤めは、会社一辺倒になってしまうからダメなのだと思ったのだ。家に帰ってからの目標があれば、会社は会社、私生活は私生活と割り切れるのではないかと考えた。家に帰って児童文学を書くために会社に行っている。そう思えば、いくらか楽なのではないか。そんな案を思いついた。

「会社以外に趣味を持とうと思って。それに、睡眠薬やアルコールの代わりに創作って使えると思ったんです」

「それはいいかもしれない。でも、追い込みすぎちゃダメだよ?」

「わかってます。ピシッといってしまいますからね」

「この病室から遊覧船を見ると、自由にギターを弾いて歌えてた頃を思い出すなあ」

「いつ頃から弾いていたんですか?」

「中学校二年生。それまでは、勉強も普通、運動はできない、口下手、あなたと同じで友達も少ない。そんなだったけど、お小遣いを貯めてエレキギターセットを買ったの。バンドブームだったしね。でもなんで買ったのかはよくわからないな。いずれにしても、買ってから二週間でそれなりに弾けるようになったの。それからは毎晩、願った。神様、わたしにギターを選ばせてくださいって」

「楽器をやったり小説を書いたりする人は、願わなくても自然と神様に選ばれるものだと思ってました」

 彼女は、「そういう人もいるかもしれない」と言った。

「でもわたしは違ったの。せっかく弾けるようになったギターを、手放すことのないようにしてくださいって神様に祈った。それが意志になったの」

「そういうものなんですね」

 わたしも、児童文学を選ばせてくださいと願おうかと思った。果たしてその願いは受け取られるだろうか。

「高校一年生の文化祭では、カバー曲三曲と、オリジナル曲一曲を演奏した。凄く褒められたの。褒められるっていいよね」

「わたしは褒められたことないです」

 彼女は「ははは」と笑った。

 それから彼女は高校の軽音楽部にスカウトされ、腕を磨いていったという。新しいコード、意外なソロの弾き方を習うだけで、彼女は心底から嬉しかったらしい。そうして夜遅くまでギターを弾いた。そういうところが、わたしには選ばれた人という感じがした。彼女なら選ばれるように努力したんだと言うところだと思ったけれど、それでもわたしには選ばれし人に思えた。

「そうしてどんどんギターの世界にのめり込んで、読書もするようになった。作詞のためにね。本って本当にいいもの。自分がぼんやりと考えていたことが綺麗な言葉で切り取ってあったりするの。それだけじゃない。自分がこうだろうと思っていたことを、木っ端微塵に砕くようなことも書いてあった。こんなこと言ったら性格が悪いと思われるのは重々承知だけど、共感しか呼ばないベストセラーなんてゴミだと思ったもの」

「それからどうなったんですか?」

 彼女は大学に行く気をなくし、音楽一本で生活しようと思うようになった。そう決めたことで親から家を追い出されたが、彼女は東京に一人で向かってデモテープを作り続けたという。それが十九歳の時にレコード会社の耳にとまったのだから、やはり彼女は才能があったのだろう。

「考えてみたら、その時にはもうわたしの神経症は始まってたんだよね」

 彼女は、歌詞の一行一行がどうしても繋がっていないと思うようになっていた。実際にはディレクターがそんなことはないと言ったのだが、彼女はどうしても韻律が揃っていないように感じた。

 さらに、彼女の特徴だったドラムに対して少し遅れ気味にリズムギターが入るというのも、意識するあまり上手くいかなくなっていた。

「結局、わたしも願ったけれど選ばれなかったのかもしれない」

 それでも彼女の音楽はアンダーグラウンドの世界では評論家から軒並み高評価をもらい、ラジオヒットにも恵まれた。そんな時に起こったのが、例の失語症だ。自分の音楽を微に入り細に入り分析した結果、彼女は演奏ができなくなってしまった。

「考えてみたらあなたの会社員のプレッシャーと同じかもね」

「さあ、それはわかりませんけど。でも好きなことを突き詰めすぎた結果ですから、違うんじゃないですか?」

「そうかな」

 彼女の声は沈みこんでいた。窓の外には相変わらず遊覧船が浮いている。いつか就職が決まったら乗ってみたい。


  火曜日


「ポリスってバンド知ってますか?」

 わたしは二日連続で彼女に自分から話しかけた。

「もちろん。凄く好き。『メッセージ・イン・ア・ボトル』は誰がなんと言ったって名曲だよ」

 わたしは東京湾にメッセージボトルを入れた話をもう一度した。

「あのボトルが、誰かに届く話を書きたいんです」

 ポリスの歌詞では、主人公は世界に孤独のSOSを訴えたメッセージを瓶に入れて海に流した。そして一年後、一億本の孤独のメッセージが海辺に流れ着いているのを見つけるのだ。わたしもそんな児童文学を書きたかった。

「子供の頃、わたしのことをわかってくれる人は一人もいないんだろうなって思ってたんです。なんていうか、わたしがどれだけ寂しいかをわかってくれる人が」

「うん」

「でも、そう思ってる人が沢山いるってあの歌詞でわかって、凄く救われたんです。単純ですよね」

「単純でいいじゃない。単純のなにが悪いの?」

「それもそうですね」

 彼女には、こう言ったら、こう思われるかもしれないというところがなかった。誰しもがこれを好きと言ったらこう思われるかもしれないという恐怖心に似たものを持っている中で、彼女には一切そういったところが感じられない。これが確固たる世界を作る努力を怠らなかった人なのかなとわたしは思う。

「あなたはこれを好きと言ったら恥ずかしいかな、なんて考えたことはないんでしょうね」

 わたしは思ったことを率直に言った。

「そんなバカな。そんな気持ちばっかり持って中高を過ごしたよ。軽音楽部でも、今さらそんなの聴いてるのかなんて言われて恥かいたり」

「わたしは中学、高校と休み時間にサリンジャーをこれ見よがしに読んで過ごしていたんです。誰かが話しかけてくれないかなって思って」

「そんな中高生だったから大学に入って遊び惚けちゃったのね」

 わたしは反論できなかった。実際、その通りだ。大学ではすんなり友達ができて、サリンジャーを見せびらかす学生時代はどこかに行ってしまった。

「あの頃の自分を助けるような児童文学、ティーン文学を書けたらなって」

 そうは言っても、わたしはまだワードソフトも原稿用紙も買っていなかった。学生時代と同じように、児童文学者になれたらなと案を練っているだけだ。願ってはいない。


  水曜日


「あなたは自分のこと惨めだと思う?」

 わたしはぼんやり松林を眺めながら彼女が話しかけてくるのを待っていたので、彼女がそう言うとしばらく考えた。

「そりゃ、惨めだと思いますよ」

「なんで?」

「就職に失敗して、睡眠薬中毒になって、今はアル中。二十六歳で清掃員のバイトをやっていて……、これで惨めじゃない方がおかしくありませんか?」

「でもあなたの言ってることって、全部外側からあなたのことを見た時のレッテルってだけじゃない?」

「……そうですけど」

「昨晩、自分のことを考えていたの。なんて惨めなんだろうって。神様にお祈りしてまで手に入れたギターという世界で、勝手に自分を追い詰めて療養施設にいる。こっちの方が惨めじゃない? 外側から見てじゃなくて、心底から、わたし自身がそう思うってこと」

 わたしはそうは思えなかった。わたしには彼女は一種の殉教者のように感じられた。自分の世界に真っ直ぐで、それによって追い詰められた人。

「結局、ミュージシャンをやるには神経が細すぎたんだよね。わたしはそんなに沢山のミュージシャンに会ったわけじゃないけど、大事なのは体力だよ。会社員に大事なのは?」

 それを会社員として失敗したわたしに訊かれても困った。ただ、これだけは言える。気にしない力だ。それさえあれば、大抵のことは上手くいく。彼女にもそう説明した。

「そこはミュージシャンと似ているのか似ていないのか、難しいね。音楽の世界は、こんなのリスナーは気づかないだろうなっていうところにも凄く神経を配るわけ。一方で、もうこれ以上は根を詰めてやってらんねえよっていう豪快さも必要なの」

「会社員に必要なのは、後者だと思います」

 わたしにはそれがなかった。新入社員ならば、先輩や上司が言ったこと、自分の抱えている仕事、すべてが気になるのは当たり前だ。でもわたしは二年経っても同じように周囲の言葉が気になった。その言葉は、今になって冷静に考えるとそれほど気にすべき言葉ではなかった。ただの先輩の小言だ。それが気になって仕方がなく、抱えている仕事にも影響した。辞めた今は、なんであんな言葉を気にしていたのかとわかる。

「わたし―」

 遊覧船を見ながら口を開いた。

「―就職決まったら、いや、まずはアル中を脱して、それから就職が決まったら、あの遊覧船に乗ろうと思ってるんですよ。それでこの四階を眺めるんです」

「わたし、手を振る」

「そうですね」


  木曜日


 その日、四二九号室の彼女は話しかけてこなかった。わたしは五月の山々を眺めながら彼女が話しかけてくるのを待ったが、六時過ぎまで彼女は話しかけてこなかった。

 あの奇妙な明るさの下には、どうしようもない暗さがあるのかもしれない。わたしはそんなことを考えながら、四階の窓辺をあとにした。


  金曜日


「時々、どうしようもなく陰鬱な気持ちになることがあるの」

 彼女は言った。

「そういう気持ち、わかるって言ったら失礼かもしれませんけど、わかります」

「この部屋には本しかないけど、当時ライバル視されていたミュージシャンは今どんな扱いを受けてるんだろうなとか、そんな考えても仕方がないことを考えるわけ」

「それが普通じゃないでしょうか」

「そうかな」

 ギターが好きで仕方なく、ギターを好きでいさせてくださいと願った女性が、他ならぬそのギターによって世界にヒビ割れを感じてしまった。失ったものは大きいだろう。彼女自身、あの頃には戻れないと言っている。置き去りにされたと感じない方がおかしい。

「でも昨日は曲が書けた。自殺防止で鉛筆もないんだから、却って慎重に作詞ができるね。ギターなしでの作曲にも慣れてきたし」

「こんなこと言いたくないですけど、もしシンガー・ソングライターに戻って以前ほどの評価が得られなかったら、その時は自分を保ってられますか?」

 わたしには、世間に作品を発表する人がどの程度まで自分の評価を気にするものなのかわからなかった。もしわたしが児童文学者になったら、きっとインターネットで評判を調べまくるだろう。

「自分を保つのは簡単だよ。だって、ほとんどの批評が的外れなんだもん。それに、自分の真意が届かないことにも慣れるものなの。あるいは酷評されたりすることにもね。自分の世界を作ってさえおけば、そういうのって気にならないの」

「じゃあわたしはやっぱり自分の世界がないんですね」

「まだ二十六歳じゃない。こないだは十八歳から二十一歳の大事な時期を遊びに使ったって言っちゃったけど、これからだって取り返せるよ。本は逃げない。特に古典と言われる本はね」

 問題は、わたしがそんな古典と言われる本を読めるかどうかだ。ドストエフスキーや夏目漱石を読んだ方がいいということは、みんな知ってる。でも実際に読むのは、読みたいと思っている人の一〇〇〇分の一くらいだと思う。

 やっぱり彼女は自分で願って、本を読んだりギターの練習ができたりするんだろう。それはやっぱり特別なことだ。憧れすらある。わたしはいずれ読みたいと思っている山積みの本にひとつも手を出していない。

「あなたは特別ですよ」

 そう言うと、自然と涙が流れた。

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