第3話

月曜日


「アルコールの件はどうなった?」

「受け入れてもらえました。これから一日ずつ闘っていこうと」

「そう」

「あなたはシンガー・ソングライターに戻ろうとは思わないんですか?」

 わたしは初めて踏み込んだ質問をした。音にこだわりすぎた挙句、言葉を失ったミュージシャンが今はなにを思っているのか、純粋に気になったのだ。

「毎日、暗い詩を書いて、それに曲をつけてるよ。ギターがないとやりにくいけどね」

「まだ魂は燃えてるんですか?」

 女は少し黙って、「燃えてるとは言い難いね」と言った。

「でも一度燃えたんだから、また何度でも燃えると思ってるの」

「前向きですね」

 その前向きさは、どこか無理をしているようにわたしには感じられた。また魂が燃えると信じこもうとしている。そう思えた。

「現役だった頃は、これからどこまで伸びるんだろうって思ったくらいなの。ギターの腕前もグングン上達してね。これはわたしの勘だけど、あの頃には戻れないな。でもいいの、今ある魂を燃やすだけだから」

 彼女が強い人なのか、それとも弱さを必死に隠しているのかわたしにはわからなかった。


  火曜日


「アルコールは?」

「昨日は断てました。土曜日から三日連続です」

「調子いいじゃない」

 女は能天気な明るさで言った。

「依存症は、毎日が闘いなんです。今日はやらなかった。今日もやらなかったって。そうしてアルコールに手を出さない習慣を獲得していくんです。それでもやっぱり、今日も手を出さなかったって思うらしいですよ」

 わたし自身、それを実感していた。まだたったの三日なのに、三日もアルコールに打ち勝ったという気持ちがある。

「これも全部、向き合うべきことに向き合わなかったツケですね」

「わたしはそこまで言わないよ。向き合わなかったのには、向き合わなかった理由があると思う」

「どんなですか?」

「本当の自分に気づいてしまう怖さだとかね」

 それはあるかもしれない。わたしは本当のところ空っぽな自分しかいないことに、薄々勘づいていた。だから図書館で自己を知る本を避けていたのかもしれない。あるいは、自分が狂ってしまった理由を知りたくなかった。知ったら、それを受け入れるだけの神経が自分にはなかった。

「もっと軽い話しましょうよ」

 女は気丈な声で言った。

「なんでしょう」

「なんでも」

「考えておきます」

 この土地に引っ越してきてから、遊覧船に乗ったことは一度もない。今度の週末に乗ってみようかな。わたしはそんなことを考えた。


  水曜日


「例えば好みのタイプは?」

 女は明るい声で尋ねた。

「好みのタイプですか」

 わたしはしばらく考えて、「吟遊詩人みたいな人ですかね」と答えた。

「それ、生活力あるの?」

「ないでしょうね」

 わたしは笑った。

 世間の価値に惑わされず、自分の世界を守り通す意志の強さと繊細さ。そんなものを持っている人が、わたしの好みだった。

「ミュージシャンには大勢いるよ」

「いいかもしれないですね。吟遊詩人と、アル中の妻」

「よくないよ」

 彼女は、吟遊詩人も結局は世界が欲しいのだと言った。自分自身のやり方で、わがままを貫き通して世界の名声を得る。自分の世界を大事にしているように見えて、実際は欲の固まりなのだと言う。

「それでいいんですよ。誰がなんと言おうと世界の本質を知っているのは俺だけだっていう不遜な態度がいいんです」

 それはわたしにはないものだ。就活のプレッシャーに追われ、仕事のプレッシャーに潰されたわたしには、吟遊詩人こそが憧れだった。君の世界は君の世界、俺の世界は俺の世界。そして俺はこの詩で周りをねじ伏せる。そんな気概がわたしも欲しかった。

「あなたはそんなミュージシャンじゃなかったんですか?」

 女は考え、「半分半分といったところかな」と答えた。

「世間の名声を得たいという気持ちはもちろんあった。でも、どこまでも自分のためだけに音楽の世界を深めたいという欲望もあったから。だからヒビが入ってしまったんだね」

「あなたはどんな人が好みなんですか?」

「自我がない人ね」

「自我がない人」

 彼女は、自分の物の見方を一切持っていない人とは違うとつけ加えた。

 常に自分の世界を、それも確固たる世界ではなく、なんとなく自分の世界を持っている人で、「ビーフカレーは嫌いだ」と言っておきながら「いいじゃない食べましょうよ」と言うと折れてくれるような人だと言うのだ。

「それは確かに自我がないですね」

「そういう、つまらないこだわりとかを一切持っていない人がいいの。それはできないよとか、それはやりたくないよとか言わない人」

「それはいいですね」

 そうしてわたしたちは笑った。初めての女性同士の会話だなと思ってわたしは嬉しかった。


  木曜日


「昨日もアルコールに勝ちました」

「凄いじゃない」

「我ながら」

 アルコールで意識を薄めて安心したいという思いと、依存症を断ってもう一度会社員になりたいという思うが拮抗してきた。

 確かにわたしは人生の大事なところで勉強を怠った。それはもう取り返せない。でも、怠ったなりに、巻き込まれるようになった会社員という役割をキチンと演じたくなっていた。それは自分が選び取った道とは言えない。それでも、怠けながら行き着いた道なのだ。それを向いていなかったと蹴ってしまうのは、楽なことのように思えた。

「どうしてももう一度会社員になりたいんです」

「なんで?」

「意地のようなものです。それで今度こそ合わなかったら……、その時は東京でフリーター生活をします。児童文学でも書いて」

「あなた意外に負けず嫌いなのね」

「もう嫌なんです。ああ、これ自分には合わないかあって投げ出すの」

「なるほど」

「あなたはシンガー・ソングライターへの道、どの程度諦めていないんですか?」

「もし仮に宝くじで三億円当たっても、シンガー・ソングライターに戻る努力は続けるだろうね」

 わたしはその気概に心底から憧れた。わたしはいくら会社員に戻りたいと言っても、三億円が当たったら会社員には戻らないだろう。そんな話を彼女にもした。

「でも、それってつまんないよ?」

「そうですか?」

「だって人間って休むために働くものだし、働くために休むんだもん。それに、どんな趣味も中途半端のあなたが三億円当たったところで、得るのは生活の楽さだけだよ?」

 生活の楽さを得るだけ。そう言われると、大学時代の怠け者だった自分の記憶が蘇ってくる。わたしは楽な生活をしながら、結局なにも得ることができなかった。そんな日々が繰り返されるだけなのか。楽、だけれど、虚しい。

「また言うけど、人生はなにかを追い込んで、生きる意味を掴むためにあるんだから。三億円でそれが保留状態になったからって、それのなにが楽しいの? 楽なだけじゃない。そうして楽な道を選び続けた結果が、今じゃない。同じことをするつもり?」

「でも、なにかを得るためだけに生きてる人ばかりじゃないと思うんですよ」

「だからみんなつまらないんだよ。追うものがないから。あなたも結局は大学時代と同じで楽な方楽な方に流れようとしてるだけじゃない。人生に立ち向かおうとしてないよ」

「あなたは追求だけが生きる道だと思いすぎてますよ」

 わたしはそれだけ言うと、四階の窓辺から去った。


  金曜日


「みんながみんな、追及をして右目と左目の間にピシッとヒビが入っちゃうのは、違うかもね」

 四二九号室の女は独り言のように言った。

 みんな、自分を懸けるものがほしい。それが見つからない。だから苦しい。彼女はそのことを知らない。それでも彼女はわたしに歩み寄ってくれた。

「世の中のほとんどの人が生きる意味を掴まずに死んでいくんですよ。願ったから懸けるものが見つかるってものでもないです」

 わたしはできる限り熱を抑えて言った。

「そうかもね。わたしには想像もつかない世界だけれど」

 人生に立ち向かうために図書館で心理学の本を借りる。そんなこと、わたしもまったく思いつかなかったわけじゃない。でも、できなかったのだ。それは面倒臭かったからかもしれない。自分の中の知りたくないことが書かれているかもしれない恐怖から逃れたかったのかもしれない。いずれにせよ、わたしはわかっていてもできなかったのだ。四二九号室の彼女は、自分が図書館に行くべきだと思ったらすぐに行ける人なんだろう。

 果たしてそれは意志の強さなのか。わたしにはわからない。人間にはどうしても一歩を踏み出せない人と、一歩を踏み出せる人がいる。その差は願うか願わないかだけでは決まらない。

 人生に真面目なのか、不真面目なのか。そういう問題かどうかもわからない。一つ言えるのは、どちらにせよ二種類の人がいるという話だ。どちらがいいのかはわからない。人生で掴むべきものを見つけて、右目と左目の間にピシッとヒビ割れができるほど追求できる人が正しいのか、流されるまま就職して依存症になる人間が正しいのか。

 もちろんわたしは自分の生き方が正しかったとは思わない。人生と真っ向から向き合う機会を棒に振ったのは間違いないのだから。楽しい本だけを読んで、人生について真剣に考えなかったのは他ならぬわたしだ。でも、だからといってそれを全否定されたくはない。わたしにも楽しい思い出はあった。大学時代の、くだらない遊びではある。でも当時のわたしにはそれが必要だったのだ。

「わたしは、お前はただ怠けていただけだって言われても返す言葉がない。でも人生まで否定されたくはないです」

「そうね」

 四二九号室の女は力なく肯定した。

「明日でアルコールを断って一週間になります」

 わたしは話の方向を変えた。

「偉いじゃない」

「いずれ……、もう少しアルコール断ちができたら履歴書も買います」

「やっぱり会社員になるのね」

「はい。あなたは会社勤めしたことありますか?」

「ない。会社勤めしたくなくてギターを頑張ったのかもしれないね」

 そう言って女は笑った。

「気を揉むことが次から次に起こるんですよ」

「想像ができないな」

「仕事そのものの責任ももちろんですけど、責任を感じすぎだって言ってくる先輩がいたり、もっと責任を持ってやれっていう上司がいたり」

「こんな言い方しかできないけど、大変だね」

「でも考えると大変じゃないんですよ。わたしが勝手に大変だと思っちゃってるんです。そうやってどんどん背負いこんじゃうんですよ」

「それで睡眠薬中毒というわけね」

「はい。伸びきったゴムみたいに生活してた人にも苦労はあるんですよ」


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