第2話

月曜日


「先週は言いすぎた」

 バスを待つあいだ、四二九号室の女は言った。

「いいんです。全部当たってるので」

「代わりにわたしが療養施設に入った話をしようか」

 わたしは湖に浮かぶ遊覧船を見ながら、「どうぞ」と先を促した。

「わたしはもともとシンガー・ソングライターだったの。だったって言い方、本当はしたくないけど、世間的にはシンガー・ソングライターだったって言い方をするんだと思う」

 なんとなく、わたしは彼女がシンガー・ソングライターだったことに違和感を覚えなかった。彼女の喋り方は、どこか芸術家のようだと思ったからだ。発声の明確さ、声の溌溂とした雰囲気、奇妙な、不自然とさえ言えるような明るさ。それは人生を謳歌する芸術家というわたしの貧困なイメージに合っていた。

「わたしでも知ってるミュージシャンですか?」

「それはなんとも言えないな。自分で言うのもなんだけど、知る人ぞ知るって感じだったから。大学時代を遊んで暮らしてた人じゃ知らないかもしれない」

「なにか歌ってみてください」

「イヤだよ」

 そう言って彼女は照れ臭そうに笑った。

「なんで療養施設に入ってるんですか?」

「わたしこれでも、研究熱心なミュージシャンだったの。ギターのことも、韻律のことも、一所懸命に考えていて。MとNとWは柔らかい響きだとかなんとかね。ギターのコード進行も専門の先生についてもらって勉強してた」

 わたしはそれが少し意外だった。彼女は感性に任せて作曲するような印象を勝手に浮かべていたからだ。少なくとも学究肌とは考えられなかった。でも、よく考えると彼女のこの妙に明るい声も、夜に一人で研究をしている姿を隠すためのもののようにも思える。

「ある日、わたしにしては大きいライブがあったの。一〇〇〇人くらいの規模の会場でね。そこでのライブの数日前、わたしの声が急に出なくなっちゃった。関係者は大慌てでね、すぐに病院に行ったの。でも原因はわからない。声が出ないはずがないって言われた。だからすぐに、これは精神的なものですねって結論を出された。仕方ないよね。医者が診ればそうとしか言えないんだもの。だってわたし、喋ることもできなかったんだから」

「大変でしたね」

「そりゃもう。一〇〇〇人規模のライブが中止って経済的には大打撃だもの。わたしのキャリアの面でもね」

「でしょうね」

「わたしは考えたんだけれど、どうも神経性の病で納得するしかなかった。その時点で、わたしの見ていた世界にピシッとヒビが入ったのを感じた。右目と左目で見ている世界が少しずれてるような」

「それで療養施設に」

「いいえ。それからわたし、必死にリハビリしたの。リハビリって言っても、音楽から離れて休養を取るだけだったけれどね。事務所が海の見える別荘を借りてくれて、そこで夕方に買い物して、静かに自分だけの夕食を丁寧に作るっていう生活をしたの。でも、そんなことで音楽が頭から離れると思う?」

 彼女がどれほど音楽に懸けていたのかは知らない。でも、音楽について突き詰めて考えるような人が海の見える別荘で音楽から離れるだけで回復に向かうとは思えなかった。むしろ、悪化するのではないか。

「ギターを手放した途端、幻聴の嵐。ギターの音がするの。わたしのギターの音。それがとても下手なの、聴いていられないくらい。冗談じゃないと思った。わたしはこんなに下手じゃない。それで、事務所には黙って海辺の楽器屋でアコースティックギターを買った。本来わたしはエレキギターを弾くんだけれどね、アコギの方が押さえるのも難しくて訓練にはいいの。それでギターを弾き始めたら、妙にチューニングが気になって。絶対に合っているはずなんだけどね、六弦全部を鳴らしてみると、なにかちょっと違うの。それで十分くらい調弦してた。それでもう一度、ピシッと視界にヒビが入ったの。それで終わり。わたしそれ以降、声も出るようになったし、エレキギターも弾けるようになったんだけど、もう前みたいに魂が燃えてる感じがしないの。あぁ、終わったなって思った。そしたら昼も夜も笑えてくるわけ。B級映画に出てくる狂人みたいに。それでここに入ることになったの」

 ただなんとなく大学時代を過ごし、ただなんとなく両親に心配をかけないためにと就職しただけのわたしとは、まるで違う世界の話だった。わたしにはそこまで懸けているものはない。そんなものには出会わなかった。

 こう言ったら彼女は怒るかもしれないけれど、わたしには彼女が羨ましかった。気がおかしくなるくらいに突き詰めるべきものがあるというのは、それだけでもう幸せなことではないだろうか。

「熱中できるものがあったっていうことが、もう幸せだったと思います」

「その言い方だと、わたしに熱中できるものが降ってきたみたいな言い方だね」

「違うんですか?」

「恋愛の話の時にも言ったでしょう? 人間は自分で願いを持たなきゃ基本的には動かない。わたしはわたしが熱中できるものを必死になって求めたの。わたし自身がそう願って。あなたのその、幸運にも熱中できるものが見つかったって言い方は、ちょっとムカつくな」

「すみません」

 わたしはとりあえず謝ったけれど、あまり納得していなかった。わたしだってなにかを求めていた時期はある。でも、なににも巡り合わなかった。それはわたしが願っていなかったからなのだろうか。そうかもしれない。でもそれだけじゃないだろうと思った。四二九号室の彼女は、やはり恵まれていたのだ。

 四月にしては珍しい強風で松林が揺れ、湖の水面も荒れている。わたしはその景色を見ながら、彼女の人生に対する強引さになんとか反論を試みようとした。けれど、上手い反論は出てこなかった。


  火曜日


外は強風で、窓そのものも揺れていた。子供の頃から、強風は好きだ。なにかが起こりそうな予感がする。

「風、強いね」

 女もやはり楽しそうに言う。

「なんかわくわくしますよね」

「わかる。吹けよ風、呼べよ嵐」

 わたしたちは初めて二人で笑った。悪くない気持ちだった。

「昨日思ったんだけれど、あなたはやはり人生に対して強引だと思うんです。願うとか……。それが間違っていると言うわけじゃないんですけど、願っても上手くいかないことはありますよ」

 わたしは昨日の違和感をそのまま口に出したけれど、彼女はそれを笑い飛ばした。

「わたしがいつ、願ったらそれが手に入るなんて言った?」

「そうは言ってないですけど……」

「手に入らなくても願い続けるの。それが大事なの」

 強風は松林を大きく揺らしていた。わたしは少し怖くなった。


  水曜日


「子供の頃、なにになりたかった?」

 女は突然そんなことを訊いた。どういうわけか、彼女の言葉には素直に応えてしまう魔力のようなものがある。

「児童文学作家ですかね」

「へえ」

「大学時代は遊んでましたけど、それまでは児童文学や冒険小説を読んでいたんです。それにマンガも。絵が描けなかったから児童文学を書こうかなって」

「そういう考え方があなたって感じだね」

 実際、わたしはそれなりに本気で児童文学作家になりたかった。大学に入って遊びを覚えたらそんなことはすっかり忘れてしまったけれど、いろんな作品案を練ってもいたのだ。

「高校時代、中学時代も、友達がいなかったんです」

「そういうこと言う人に限って何人かはいるんだよね」

「いえ、本当に一人も」

 わたしは中学時代も高校時代も苛められこそしなかったが、ずっと一人だった。一人になろうとして一人になったんじゃない。彼女の言い方を借りれば、願ってはいた。それでも一人だった。そんなわたしを支えてくれたのは、彼女が言うような人生の局面を乗り切るための本ではなく、娯楽作品だった。ずっと夢の中で生きていたと言ってもいい。

「中二の夏休み、自転車で東京湾まで行って、ボトルを海に流したんです。これを受け取ったあなた、友達になってくれますか? って住所と名前を書いて」

「誰かから連絡来た?」

「いえ」

「それは残念」

「わたしが書こうとした物語は、いつだって一人ぼっちの女の子が親友を見つけるというものでした」

 女は黙っていた。少し話が暗すぎただろうか。でも事実なのだから仕方がない。

「あなたはずっと安心感を求めてたのね」

 彼女は言った。そうかもしれない。横に誰かがいる安心感。それが欲しくて仕方がなかった。しかしそれは睡眠薬に代わり、わたしを蝕んだ。

「実際、あなたが言う通り、わたしは人生と向き合うのを避けてきたんです。フィクションの中に生きていて、それが楽しかった。それが急に会社勤めですからね。できるわけがなかったんです」

「そうだよ。防御策はいくらでもあった。図書館で心理学の本でも数冊借りればよかったのに。人生は追い込んで、なにかを掴むためにあるんだから。掴み損ねたわたしが言うことでもないけどね。真実から逃げれば逃げるほど真実は怖くなるんだから。これ本当だよ?」

 真実、という言葉はあまりに抽象的すぎてピンと来なかったけれど、わたしもなにかを掴みたかったのは確かだ。人生に意味を求めていたと言ってもいい。そう考えると、だらりと過ごしていた大学時代が悔やまれる。わたしはなにをやっていたんだろう。

「それにまだ二十六歳でしょ? 児童文学作家を目指せばいいじゃない」

 彼女はそう言うけれど、わたしはまったく違うことを考えていた。会社勤めへの復帰だ。ここで会社勤めには向いていなかったと逃げてしまっては、自分の人生は余計に狭まるような気がしていた。なんでなのかはわからない。やる気のないわたしなりに、負けたくない一線というのがあるのだろう。


  木曜日


「睡眠薬、今は飲んでないの?」

「飲んでいません。代わりにアルコールに手を出してしまっています。主治医たちには内緒ですけど」

 朝起きて、半日ほど我慢をする。ちょうど清掃の昼休み頃までだ。そこまでいくと、頭からアルコールが離れられなくなる。そして帰りにアルコールを買って痛飲するのだ。止めたいという気持ちは誰よりもわたし自身が一番思っている。それでも止められない。

 意識が覚醒してしまっていることに耐えられないのだ。睡眠薬はわたしに意識の混濁を与えてくれた。その睡眠薬がないのなら、アルコールで意識を薄めるしかない。

「あなた真面目そうなのに」

「睡眠薬の誘惑の前では真面目も不真面目もないですよ。わたしの父だって依存症になる可能性はあります」

「依存症になる奴はクズだって言ってても?」

「はい。依存症になるのに真面目も不真面目もありません。あの現実から逃げられる快感を知ってしまったら抜けるのは難しいです」

「しょっちゅうアルコールを飲むの?」

「ほぼ毎日ですかね」

「多いね」

 輪郭のハッキリした現実世界はあまりにも嫌だ。なにもかもをぼんやりとさせてくれるアルコールが、今のわたしには必要なのだ。

「二日に一回でも、飲まなかった日には今日は飲まなかったって気持ちになるんですよ」

「重症だね」

「そうですね」

「わたしはギターの中毒だった」

「それは生産性がありますよ」

「生産性って大事?」

 彼女の言葉に、わたしは答えられなかった。

「わたしはまた会社勤めができるようになりたいんです」

「本当に? なんで? あなたは向いてない」

「逃げたくないんです。もし次にダメだったら、その時は諦めます」

 一昨日の強風が嘘のように、湖と松林には風が吹いていなかった。これはこれでいい。わたしはそんなことを思った。


  金曜日


「明日は主治医に、アルコールに手を出していることを言います」

「そう。なんで?」

「あなたの言葉を借りるなら願いです」

 自分は依存症を抜けたいのだという願いを、自分に出そうと決めた。

「それでまたヒマワリの絵を描くんです」

「なんでヒマワリの絵を描くの?」

 絵画療法士からも問われる言葉だ。正直、自分でもなんでだかはわからない。絵画療法士と話し合っても、なんでなのかはわからなかった。

 でも、わたしがヒマワリを描くのは、太陽に向かって真っすぐに伸びているからのようなきがしてならない。わたしがした回り道を、ヒマワリはしていない。

「太陽に負けないからじゃないですかね」

 わたしは彼女にそう言った。すると、明日にアルコールに溺れていることも勇気を出して言える気がした。

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