ROOM 429
こがわゆうじろう
第1話
ROOM 429
こがわゆうじろう
月曜日
わたしは午後五時になると、携帯電話で業務の終了を告げた。そしてこれから一時間半、帰りのバスを待つことになる。
湖と松林の見える療養施設、わたしはそこで清掃員として働いていた。二十六歳の春から秋にかけてのことだ。当時のわたしは精神に深いダメージを負っていて、その回復に時間が必要な時期だった。
業務はいつも午後五時で終了、残業は許されなかったが、午後五時からわたしの暮らす街に帰るには一時間半もバスを待たなければいけなかった。でも、それは苦じゃなかった。湖と松林が風に揺れている景色を眺めていられたからだ。
療養施設の四階、廊下の突き当りの窓、そこがわたしの指定席だった。
ただ自然を観察することが、わたしの心を回復させていたような気がする。波打つ水面、揺れる樹々、それらが腐りかけた心に染みていくようだった。
休みの土曜には、精神病院で精神分析と絵画療法を受けていた。自分の精神世界を知るためだ。わたしがなにかを感じる時、どのようにして感じるのか、それらを分析するため。
絵画療法では、ヒマワリやリスを描いた。なんの変哲もない絵だ。療法士はその絵を見てなんらかの解釈を加えるというようなことはしない。そうではなく、なぜこのようなヒマワリやリスを描いたのかを、一緒になって考えるのだ。それが自分の心を探る手立てになるのだという。
自分が解剖されていくような感覚。それに関しては悪い気はしなかった。わたしは今まで自分自身に無頓着すぎたのだ。だから絵画療法で自分の精神の奥深くを知れるというのは興味深かったし、勉強にもなった。わたしは二十六歳でようやく自分自身と向き合うことができるようになったのだ。
「バスを待っているの?」
雨によって水紋が無数にできる湖を見ていると、四二九号室から声がした。女の声、それもわたしと大して歳の違わない声のように思えた。
わたしは四二九号室は空き部屋だと思っていたので驚いて声を出せないでいると、四二九号室の女は「無視されてしまった」と笑った。
「人がいると思わなかったので」
「ずっといたよ。ねえ、バスを待っているの?」
「そうです」
「ここは本数少ないからね」
そう言うと四二九号室の女は黙った。わたしは驚いてしばらく声が出せなかった。その日は、それきり六時半前まで彼女は一言も喋らなかった。
火曜日
「一人で暮らしてるの?」
女は昨日同様、バスを待っているあいだに話しかけてきた。
「はい」
「ここの仕事だけで一人暮らし?」
「家賃は安いですし、なにも趣味はないので」
あの頃、金がかかるといえば精神分析と絵画療法くらいで、わたしの生活に文化的な趣味などなかった。
朝の七時に起きて、インターネットでニュースを見て、八時に家を出て九時にこの療養施設に着く。そして午後六時半までこの四階にとどまって、七時半に家に着く。夕飯を作って食べると、またなんとなくインターネットをして夜の十二時には眠る。それだけの生活だった。
「友達とかいないの?」
「ここに越してきてからは誰も」
「それじゃあわたしが最初の友達だね」
女は笑った。その声は奇妙な明るさに満ちている。とても療養施設に入っている女性の声とは思えないものだった。
「友達いなくて寂しくない?」
「友達がいた頃の方が寂しかったような気がします」
わたしは窓の外を見ながら言った。
「なるほど」
子供じみた考えかもしれないけれど、わたしは心底気心が知れた友達を求めていた。わたしが傷ついている時には寄り添ってくれ、相手が喜んでいる時にはわたしも喜べるような。でも、そんな友達はいなかった。みんなどこかが違う。どこかが違えば、すべて違うのと同じだ。
「ここで働いている人はみんな訳ありだったけど、あなたもそうなの?」
女が尋ねた。
「そうですね」
「そう。割合まともに感じるけどね」
女はまたそれきり黙った。彼女の会話は唐突に始まって、唐突に終わるようだった。
水曜日
「恋もしてないの?」
また女が急に話しかけてきた。
「してないです」
「あなたいくつ?」
「二十六歳になります」
「じゃあしなきゃ」
「恋ってしようと思ってするものですかね」
そう言うと、四二九号室の女は馬鹿にするように笑った。
「決まってるじゃない。いつかキューピットが現れて矢で射抜いてくれるとでも思ってるの? 自分から恋をしようって自分自身で願わないと恋なんてできないよ」
「確かにそうかもしれないですね」
精神分析でも、わたしは常に受け身だと指摘された。いつかなにかが、そう思っているらしい。でも、彼女の言う通り、自分で願わなければなにも始まらないのかもしれない。インターネットで時間を潰しているわたしには難しいことだ。
「あなたは……、四二九号室から出ることはないの?」
「基本的にはない。でも土日はレクリエーションルームに行ったり、グループ療法に参加したりする。わたしにはあまり意味があるとは思えないけどね。でも本くらいは買って読むことができるよ」
「そうですか」
わたしはそれ以上には話す気になれなかった。彼女には、どこか人生に対して強引な姿勢が見られたからだ。それはわたしの対極にあると言っていい。そんな彼女が怖かったし、なによりわたしはアルコールが欲しくてたまらなくなって正常な思考ができなくなっていた。
木曜日
その日は、四二九号室の女は話しかけてこなかった。それが寂しいということはない。話しかけられるのが鬱陶しいということもない。つくづくわたしにはこうだという考えがないなと思う。
ただその日は、春の風に揺らめく松と湖を見ていた。わたしの趣味らしい趣味といえば、この四階の窓から風景を眺めることぐらいだろう。
それでわたしの心が癒されているのかはわからない。無心でいられるのは確かだけれど、それがわたしの精神にどんな影響を及ぼしているのかはなんとも言えなかった。
ゆっくりと心身を休めるのが大事だと、主治医には言われている。わたしにとって心身を休めるというのは、四二九号室前の窓辺から景色を眺めることだろう。
金曜日
「あなたはなんでここで働いてるの? 確か訳ありだって言ってたよね?」
女が無遠慮に話しかけてきた。でも、わたしはもしかしたら訳ありの事情を話したかったかもしれない。なぜ最初に訳ありでしょうと言われた時に話さなかったのか。それもまたわたしの受け身なところだろうか。
「睡眠薬とアルコールの依存症です」
わたしは正直に言った。情けないような気もしたが、主治医からは自分を惨めに思いすぎてはいけないとも言われている。
「依存症って大変なの?」
「我慢ができないですからね」
「そうなんだ」
「それで、父親に依存症になる奴はクズだって言われて東京を出ざるを得なかったんです」
「物事の表面的な部分しか見ないお父さんなのね」
確かに父はそういう人だった。近所の幼馴染がグレた時も、どうしようもないと言って一蹴した。わたしはその時、なぜグレたんだろう。グレたことには訳があるんじゃないのか、それはなんだろうと考えようとしたけれど、父のどうしようもないという言葉に引っ張られて考えるのをやめてしまった。
「で、なんで依存症になったの?」
わたしは正直に言おうかどうか迷った。実のところ、わたしが依存症になった原因はわかっていない。今のところ、筋道を立てて話せる原因はある。ただ、それが本当の原因かはわからない。これからずっと、暫定的にこの理由だという話を重ねていくんだろう。主治医によれば、それもまた治癒の過程ということだった。
「わたしはちょっと勉強すれば入れるような私立大学の経済学部に入ったんです」
「それで?」
「そこでぼんやりと三年間過ごして、最後の一年だけ就活を頑張りました。それで入った印刷会社の仕事がキツくて、睡眠薬に頼るようになったんです。そうすると、仕事のない土日でも睡眠薬を飲んだ時の『ああ、これで一日が終わった。安眠して明日から仕事だ』っていう安心感が忘れられなくなっちゃって、土日の日中でも薬を飲むようになりました。言い訳がましいですけど、本当に仕事がプレッシャーだったんです。睡眠薬を飲んだ時の浮遊感の中でだけ、仕事のプレッシャーから離れられたんです。それで、睡眠薬にハマってしまいました。当時の主治医はお年寄りで、睡眠薬には厳しくなかったんです。二週間に一回の診察で三週間分くらい睡眠薬をもらっていました。今なら明らかな違法なんですけど」
ずいぶん端折って話してしまったことを、わたしは後悔した。本当はもっと詳細に話したいこともある。仕事のプレッシャー、睡眠薬を欲してしまう心理、飲んだ時の安心感。でも、なにを言ってもダメな人間のダメな話にしかならないと思って、わたしはことの概要だけを話した。
「睡眠薬じゃなくて、安心感の中毒になったのね」
「そう、です」
思いのほか、四二九号室の女性はわかってくれた。そう、わたしは睡眠薬ではなく、安心感の中毒になっていたのだ。
「でもわからないことがある」
「なんでしょう」
「大学の最初の三年間のこと。ぼんやり過ごしたって言ってたけど、なにしてたの?」
当時のわたしは本当にぼんやりしていた。ぼんやりしながら焦ってもいたといった方がいいかもしれない。なにかしなければいけない。そんな思いはあった。その一方で、バイトが終わればテレビゲームに熱中し、知り合いと居酒屋でお喋りをしていたのだ。
「本当にぼんやりと、テレビゲームをしたり友達と居酒屋で飲んだり、バイトしたり」
「人生の局面の乗り切り方について勉強できるのが、十八歳から二十一歳なんじゃないの? 本を読んだり、映画を観たり。わたしが言ってるのは、ただ楽しいだけの本や映画の話じゃないよ?」
「そうなんでしょうね。そのことは後悔してます」
「結局、伸び切ったゴムみたいな生き方をしたしっぺ返しが就職してからきただけだね」
「そうですね」
「わたしの言ってることって厳しすぎるかな。内観を深めるような機会は三年間もあったんだよ? それをゲームと居酒屋に使った人が依存症になるって、至極当たり前のことじゃない?」
そう言われると、なにも言えなかった。当時、わたしと親しかった知り合いは、生き方についての難しい本ばかりを読んでいた。わたしは彼女に言ったことがある。「わたしは楽しい本しか読まないの。でもあなたは楽しくない本も読むでしょう?」と。結局、彼女はわたしよりもプレッシャーが厳しい総合商社で今も働いている。彼女は人生の局面の乗り切り方の勉強をしていたんだろう。
「わたしも勉強しなきゃなとは思っていたんです」
「でもしなかった」
「そうです」
「怠け者は報いを受けるものだよね」
今日の彼女は嫌に攻撃的だった。けれどわたしには防御の手段がほとんどなく、その痛烈な言葉を聞いているしかなかった。
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