後編 蟹の海
次の日は幼稚園があって、僕はもう蟹のことを忘れちゃった。でもまた次のたぶん土曜日に、またしても親にめちゃめちゃ怒られて、僕は例の商店街に向かったんだ。
商店街はこの日も薄暗くって、薬局はおばあちゃんもいなくって、ピンクの象だけが店番してた。アーケードを抜けた先の海は相変わらずの藍色で、砂浜は黒っぽい灰色だった。この日も、誰一人海にはいない。海の向こうには白と灰色の工業地帯。たぶんアメリカ。遠くには大きな船も見えた。
波打ち際の蟹を探しに行くと、あの日あれほどいた蟹はいないんだ。一匹もいない。この前作った砂のスタジアムを探したけれど、跡形もない。仕方ないから、また砂山を作った。
昼過ぎ、家に帰るとまた母親にこっぴどく叱られた。また砂だらけで濡れてるからね。どこに行っていたんだと聞かれて、〇〇商店街の先の海だと行ったら頬を叩かれた。「嘘をつくな」というんだな。「そんなところに海はない」と。
僕は6歳だった。頬を叩かれれば涙を流すよ。しかし嘘はついていないんだ。押し黙っているとさらに問われ、それでも僕は「海に行ったんだ」と答えた。母親は「じゃあ一緒に行く」と言って靴を履き、汚れた服を着たままの僕の手を引いて住宅街を歩きだした。
家から7分くらいの商店街は相変わらずで、おばあちゃんはいないし、ピンクの象はそのまんま。シャッターで閉じられた店を横目にずんずん進むと、明るくなっている出口が見えた。
近づくとその出口からは人の家が見えた。アレと思って出るとその先に住宅街が広がって、海などどこにも見当たらない。
それからまた手を引かれて家まで帰った。母親はボソリと「もう砂で遊ぶな」と言った。僕は何も言わずに砂を払い、沸かされていた風呂に入った。そのまま用意された焼きそばを食べ、弟のいる子供部屋、僕が上の二段ベッドで寝た。どういうことなのか、まるでわからなかったけれど、もはや海がどうこう言っても母親とは会話にならないことはわかった。そしてまた商店街を通って海に行くのは母親との関係に大きな問題を生ずるのがわかった。
半年ほど経って、季節は春になりつつあった。僕は幼稚園を卒業し、もうすぐ小学校に上がることになっていた。少し暖かくなっていたから、庭で弟と二人で遊んだんだ。庭に溝を掘ってホースで水を流し、小さな川を作って遊んでいた。
そしたらそこに、小さな蟹が出て来たんだな。一匹だけだったけど、黒っぽい、小指の先ほどのあの蟹だった。おいおい生きていたのかよと思って、僕は嬉しくなった。
すぐその蟹、捕まえたよ。弟に言って、蟹を入れるプラスチックのケースを持って来させた。箱といっても下が透明なプラスチックの水槽になっていて、上が緑色の網なんだ。大きいサイズだったらクワガタやカブトムシを飼うやつだ。水を入れればメダカも飼える。
一人で遊んでろと僕は言って、蟹の入ったケースを持って商店街へ向かうんだ。もう海はなくなっているかもなと思ったけれど、行ってみたかった。
商店街をずんずん進むと、また床が砂で覆われはじめ、出口の先には海が見えた。
春の海は少し明るい感じがしたけれど、相変わらず誰一人いなくって、遠くのアメリカ工業地帯は煙を吐いていた。行き交う船の数は多くなっていたような気がしたけれど、これは気のせいかもしれない。
僕は波打ち際へ行った。波打ち際には今日も無数の穴が開いて、黒くて小指の先ほどの蟹がザワザワと打ち寄せる波に合わせて出入りしていた。プラスチックの蓋を開けて、一匹の蟹を落とした。蟹はちょっと歩いてから、すぐ波に洗われて、他の蟹と見分けがつかなくなった。
このまま、ここで遊んでいくか、少し迷った。
結局、少しだけ海を見て、すぐ家に帰った僕は小学校に上がり、二度と歩いて海に行くことはなかった。その商店街は小学校とは反対側で、駅への道とも違うから、全く行くことが無くなった。
いつしか、わが家から海までは10㎞以上離れていること、砂浜のある海まではもっと離れていることを知識としては知った。中学校の時、一度だけ平日の昼間に学校も行かず、その商店街に行ったことがある。ボロボロの薬局には驚いたことにまだ二人のおばあちゃんがいて、ピンクの象もそのまんま。でもアーケードの先は住宅街だった。
2年前、実家に帰った時、2歳の娘を連れてその商店街に行った。ボロボロの薬局ももうなくて、奥のほうはアーケードが取り壊されて住宅ができていた。30年くらい前にはシャッターが閉まっていたお店が一つ、飲み屋になっていた。
もちろん海はない。でも対岸のアメリカ、たぶんあれ、東京湾を挟んだ千葉じゃないかって、今は思う。それと、娘だけならまだ海に行けるんじゃないかって、今でも少し信じているんだ。
蟹の逆襲 えりぞ @erizomu
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