ドワーフの金塊

みやこ留芽

ドワーフの金塊



 そのいびつな老人と出会ったのは、仮病で学校をサボった夕方のことだった。

 僕はネオンの隙間を落ちてくる雪つぶから、買ったばかりのラノベを遠ざけることだけを考えて歩道橋を渡っていた。


「オッサン、どけよ死にてえのか!」


 すべての発端のクラクションと怒声はちょうどその下から。

 階段をおりてすぐの車道に禿げ上がった白髪頭しらがあたまがうずくまっている。直前でブレーキを踏んだトラック運転手が窓から顔を出してがなっていた。


(……まず降りろよ、大体もっと言うことあるだろ)


 無責任なヤジはごく自然に。僕が縁石えんせきを乗り越えたのは、それを抱えたまま通り過ぎるのがなんとなくしゃくだったからだ。

 目もくらむヘッドライト。光のなか倒れこんだ老人の背中は遠目で見た時よりずっとたくましい。


「あの、大丈夫ですか」


 トラックの運転手がまだ何かわめいている。僕はそれをにらみ返した。

 

(死にたいのか、だって? 当然だろ、だからどうした?)


 あわよくばその車体が急加速して、将来性ゼロの僕をまったく別の世界へフッ飛ばしてくれないかと期待しながら。



「――あんめいぜえずまりや」



 聞きなれない発声が足元から起こった。

 老人が僕を見上げていた。こけ落ちた頬にボサボサの白ひげ、酒気をまとった赤いワシ鼻、もやのかかったように白んだ瞳の奥は青。


「みじぇれめんでおす」


 僕は一瞬自分がどこにいるのか分からなくなった。まさか本当にトラックにひかれて異世界転移でもしたのだろうかと。アスファルトに尻をついた老人の風体はまさにファンタジー小説に登場するドワーフそのものだったから。


「えっ、と、とにかく危ないですからこっちに……!」


 太い腕をもって路肩にひきずり戻した後もドワーフは日本語を話さなかった。コンビニの明かりが照らす植え込みに腰掛け、歩道橋の階段へ背中の上の方を擦りつけながらどこの言葉とも知れない独り言をつぶやいている。僕は弱ってしまった。


「お、おお……!」


 やみかけた雪が再びチラつき始めた時、にわかにドワーフがうめき声をあげた。その腰が再び車道へ向けて浮き。


「ちょっ、と、待ってください!」


 慌てて引きとめ彼の視線を追った先は、中央分離帯。ビール缶がひとつ落ちている。


「……お酒が欲しいんですか?」

「おお、がああ!」

「待ってください買ってきますから飛び出さないで!」


 帰宅ラッシュのさなか。僕はとんだことになったと思いながら後ろのコンビニへ駆け込むとビールを一缶カゴへ。と、目が合ったレジのおばちゃんがすごい顔をしているのに気が付いて慌ててノンアルコールに取り換えた。


ずびりずびり。

 

 渡したビールをドワーフはにこりともせず飲んでいる。


(やっぱりただのホームレスか)


 リアリティも過ぎれば興ざめだと思う。いくら外見がファンタジーでも、だったらこんな場所でノンアルビールなどすすっているワケがない。僕は隙をみて立ち去ろうと腰を浮かせた。その時。


「あー! こんなとこにいたあ!」


 魔女っ子がドワーフを指さしていた。

 いや、は? 魔女っ子?


「すみませんごめんなさい撮影チェキはご遠慮願います、えぇと、ご迷惑おかけしましたー!」


 駆け寄ってきた円錐帽子ウィザーズハットからは長くとがったエルフ耳。ミニスカートをはいたその女の子はドワーフを抱え上げると、僕があんなに苦労して運んだ彼をまるで軽々と路地へと運び込んでいく。

 見送った僕はいよいよひたいを殴ってみた。


(僕がおかしくなったのか……?)





 歌が聞こえる。


  小さな石の粒 溶岩の中

  こぽこぽ ころころ

  そのうち色々 くっついて

  手の形 足の形 顔の形


  ドワーフは山の民 鉄を打つ

  とんとん かんかん

  そのうち火の神 手をはなし

  剣の形 槍の形 鎚の形


  武器は戦をよび は吼える

  おうおう があがあ

  勇気をもって 戦えば

  のこるは 緋の玉 黄の玉





 目を覚ます。夢の残り香は古びた絵本か児童文学のような懐かしさ。

 昨日はあのまま買ったラノベも読まずに寝てしまい。

 念のため撮っておいた歩道橋の写真をみて、あの遭遇エンカウントは夢じゃなかったと確信。


(まさかの、異世界が来たパターンか?)


 現実世界がファンタジーに侵食され、人もその法則に支配され始める。異世界転生に次いでメジャーなジャンルだ。


(もしくはドワーフが異世界人で、あの魔女っ子エルフが召喚者?)


 どちらにせよ、なにかしらの不可思議が僕の周りで起こっている可能性がある。なら必要なのはいち早く対応すること。異界の法則にふれ、理解する。その為には。

 僕は今日も学校を休むことにした。





 歩道橋を訪ねたものの、そこにドワーフの姿はなかった。


(まあ、ずっとここにいるわけないよな)


 当然だ。でも狭い路地をのぞき込みながら街をぶらつくと何となく胸が焦る。

 自分でもそんなバカなと思いながら、もう一度彼に会って確かめたいと思ってしまう。

 むくわれっこない努力を求めてくる日々を、希望のない将来へオートメーション的に運ばれていく日常を壊してくれる別世界があるのか否か。それさえ確認できれば心置きなくに見切りをつけてやるのにと、昼時のハンバーガーショップへ顔を入れたとき。


「――ハンバーガーひとつ。ピクルスオニオンケチャップ全部多めで」


 ドワーフがいた。

 めっちゃ注文してる。ハンバーガー。しかもセコい裏オーダーで。


「……む」


 目が合った。いやそんな睨まれても。台無しだよもう色々と。


「日本語を話せたんですね?」

「カネ、ナイ、サケ、ダイ、ハラエナイ」


 申し訳程度にカタコトにしてきた。

 僕はもうすっかり醒めてしまっていたが、それでもわずかな望みと好奇心がまさって話を続けることにした。最悪ただの変なホームレスだったとしても、それはそれで社会の最底辺として僕の心の安定剤にしてやろう。半日の無駄足分としてそれくらいは許されるはずだ。


「お金はいいですから、あなたのことを教えてください」





 無言で店を出たドワーフについて僕は歩く。

 彼が腰掛けたのは昨日の歩道橋下だった。ゴリゴリと背中の上のほうを階段にこすり付けつつ、黙々もくもくとハンバーガーを食べている。


「ノドが渇いたな」


 このまま帰ってやろうかと心で悪態をついて僕はコンビニへ。


「ノンアルコールじゃないやつだぞ!」

(無茶言うなっての)


 店のガラス越しにあの人が飲むんですとおばちゃんに説明してなんとか買ってきた発泡酒を開けるとプシュッと泡がはじけ。僕は頬にとんだそれを舐めてみた。苦い、何でこんなものが売れるんだろう。


「これで話してくださいよ。あなたが誰で、何で話せないフリなんてしてたのか」


 ドワーフは体をよじると僕の手から缶をむしりとった。腕が上がりにくいらしい。


「……言葉が通じなきゃ、大抵の面倒は避けられるもんでな」


 始まりは言い訳のような言葉から。


「名乗るほどの人間じゃない。生まれで言うなら岩手のとある漁師町がそうだ。親の手伝いをしながら公立高校まで通って、いくらか勉強ができたもんで上京して大学へ進学した」


 思ったよりも昔から話が起こった。

 意外さよりは落胆が大きい。はっきりと彼はドワーフでなくホームレスだったのだ。


「『遠野物語』の柳田國男やなぎたくにお先生のファンでな。民俗学の調査ばかりやってた。それ以外にやりたいことが見つからなくて研究室に居座り続けるうちに教授のカバン持ちをするようになった。三十二の時だったか、初めて教壇きょうだんに立ったのは」

(しかも教師かよ)


 日和見ひよりみで言葉面だけはいい印象ばかりある元職業ジョブに僕からの印象は下り坂を一直線。そして現状に至るまでにさぞかし堕落レベルダウンを重ねたのだろう、とも。そう思えばせめて少しは話の先が楽しみかもしれない。

 こちらの気分など知りもせず、老人は懐かしむように目を細めた。


「楽しかったよ。妻子もできた。俺は必ず有名になって女房にょうぼうむすめに不自由はさせまいと堂々口にしてはばからなかった」


 ふいに、老人の伸び放題のまゆ陰鬱いんうつな陰をおびる。震える手が重いくちびるをこじあけビール缶の中身を流し込んだ。


「ある夏だった。授業がもてたとはいえそれだけじゃ生活が立ち行かん。教授の手伝いで飛騨ひだ山脈のある村を調査で訪れた時、ひとり入った食堂で気になるうわさを聞いた」


 百キロ単位で離れた地名が次々と出てくるスケールに僕は自然と耳へ意識を集中する。少しでも聞き漏らせばついていけなくなりそうで。

 老人は低くうなるように話を続けた。


「隠れキリシタン、というのを知ってるか。昔、キリスト教が禁じられていた時代、密かにそれをおがんだ集落が日本中にあった。村は今なお禁教きんきょう時の信仰様式を受け継いでいて、教授の研究テーマはそれだった。だが訪れた村とは別にもう一つ、隠れキリシタンの村が山中にあるという。そこはまた違った儀式をもち、それを秘密にし続けているらしい。噂とはまさにそのことだった」


 異教の集落と未開の地。怪異譚かいいたんめいた舞台は作り話かと疑ってしまうほど。けれど話す老人は罪を告白するように苦しげで。


「好機だ、と思ったよ。当時の俺はなんとか常勤じょうきんの講師になれないものかと論文を書きまくっていた。新発見となれば学会の目も集められる。俺は教授に頼み込んでそちらの調査にひとり行かせてもらうことにした」


 ヒュウ、と冷たい風が歩道橋をぬけていく。僕はいつしか老人の話に入り込んでいた。


「山に詳しい人間の案内で村へたどり着き、百人たらずの住民と顔見知りになるころには秋になっていた。半農半猟の村人はほとんどが素朴そぼくな善良さをもっていて、ことに若者たちはよそ者の俺を早くに受けいれてくれた。彼らは村の古い因習いんしゅうよりも、正しい大元おおもとのキリスト教を学びたいと俺に言った」


 老人の目元がゆるむと悲しみとも懐かしさともつかない感情が浮かぶ。


「調査に必要なのは現地人の信頼と協力だ。俺は雪で山が閉ざされる前に東京へとって返し、キリスト教の書という書を読みあさって教会に日参した。甲斐かいあってか司教様から特別におしえの勉強会を開く許しをいただいた。村の講堂で行った会での若者たちの熱心さといったら、おおかたの大学生とは比べ物にならないほどだった。……」

「それで大学を辞めたんですか? 生徒の不真面目さを感じて?」


 ふつと口を閉ざした老人に先をせかすように僕。彼は首を振ると。


「まさか。出世欲は以前にもまして高まっていたさ。勉強の合間に若者から聞ける儀式の話はいかにも耳新しいものだったし、それをまとめただけでも一本の論文にできそうなほどだった。そんなおりだ」


 大きな口がビールをあおった。吐きだされた酒気が白いもやになって街路の上をたゆたう。彼はそれが怖ろしいものであるように手で払った。


「『子育て地蔵じぞう』というものがあってな。赤ん坊を抱いた地蔵様で、隠れキリシタンの間ではこれは聖母マリアの見立てになっている。禁教下でおおっぴらに聖像を作ることなどできないからだ。で、若者たちが相談してその秘蔵場所を教えてくれると言い出した」


 やや呂律ろれつの甘くなった老人はだんだんと饒舌じょうぜつに。


年長ねんちょうの若者の……といっても四十いくつだが、堀田ほったという者が家に伝わる祭祀さいし場所を盗み聞いてきたので遠足がてら皆で案内するいうんだな。当然フィールドワークをする者としてほかの住民の信頼を損なうことはするべきではない。だが当時の俺は功名心が勝った。山の奥、冬にだけ凍る湖の対岸にあるというその岩窟聖堂がんくつせいどうを写真に撮ってくるだけで、信仰系統や村への伝来ルートまでがたちどころに証明できる予感があった。いや、予感というより確信だったな」


 まくしたてる、浅く早い呼吸。心ここにあらずといった様子に僕は思わず大声で問いかけた。


「行ったんですか、そこに」

「道半ばでのことだ。大きなやぶ上手かみてにあおぐ、谷底へのびる斜面を真横に突っ切るような道でのことだ。クマに襲われた。ザサリと間近で音がした時にはもう手遅れだった。どうしてそんな巨体に気づかなかったのか、そもそも冬眠しているはずではと呆気にとられるうちに列中ほどの一人がやられた。

 山に慣れた若者といえど降り出した雪で視界も悪い。そもそも熊とまともに戦ったことがあるのは堀田だけだった。銃も一丁だけ。ガァンと頭上のこずえへむけて火花が疾走はしった。見上げた視線をおろした時には堀田は熊の前腕の下だった」


 老人はゴリゴリと背中の上を擦り付け続ける。自分を罰するように。


「散り散りに逃げがけを転がり落ち、凍るような沢の岩陰で力尽きた。左ひざがひどく痛んで、両腕は感覚がなかった。もうだめだと思った。時間もなにもかも曖昧あいまいになったころ、ヘリコプターの羽音が聞こえた。俺は救助された」


 俺だけが、と老人は絞り出すように顔を覆った。

 彼が本当に同じ世界の人間なのか、僕は再び疑問を持ち始めていた。それくらい話は緊張に満ちていた。


「……どんな山奥の村でもそれだけ人死にが出ればニュースになる。小さな村にマスコミが押し寄せた。俺は病院のテレビでその様子を見たがまったくはちの巣をつついたような騒ぎだったよ」


 なんと声をかければいいか分からない。ちぢこまった老人の内側に渦巻く法則を僕は理解することができない。


「報道されるのは実際とかけ離れたものばかりだった。いわく村を侵したカルト宗教、教祖が女連れで山中修行、狂信の果ての惨劇さんげき、とな」

「……滅茶苦茶だ」

「無理もない、村の若者がおおぜい死んだんだ。未成年の者もいた。俺は裁判で……、妻子とは……いや、そんなことはもうどうでもいい」


 心底疲れ果てた様子で老人は曲げた膝の間に顔を埋めた。そこまで聞けばもはや想像にかたくなかった。


「今はただ罰を受けるつもりで生きている。持たず関わらず……」


 発泡酒の缶が地面へかたむけられ、思いとどまったように老人はそれを一息に飲み干した。僕はそれをただの意地汚さとは見れなくなっていた。


「あの女の子は……?」


 きのう老人を抱えて走り去った魔女っ子エルフ。

 彼は複雑な苦痛の表情をうかべた。噛みしめるようだった。


「孫だとさ。少し前から俺を探しに来ては世話を焼いていく。余計な世話を……」

「なんだ、良いことじゃないですか」


 僕はちょっとだけホッとする。格好かっこうは謎だけど一人じゃないというのはいいことだ。特にそんなつらい過去をもった老人にとっては。


「なにが良い! こ、こんな悪人がどうしてこれ以上若い者に、あ、アンタも……!」


 ねじれた腕が僕の胸を強く押す。それはこれ以上の会話を拒むようだった。


「か、関わるんじゃない、これ以上」

「裁判に従ったなら罰は受けているでしょう。誰もそれを」

「どんなつぐないをしても消えないものはある、死んでも……!」


 僕はむしょうに腹が立っていた。何にかは分からない。全てにかもしれなかった。


「死んだ後のことなんてどうでもいいじゃないですか!」


 そんな報われない人生でまだ、と言いかけたのを寸でのところでのみこむ。

 老人は力なく首をふり。

 不意にその肩がびくりと震えた。おののくように禿げ頭をはたき払って見上げる空には大粒のにわか雪。

 カッと見開く老人の目。

 雪が舞っている、はらはらと。


「…………――あんめいぜえずまりやAmen Jesus Maria


 老人が立ち上がる、ふらふらと。

 そのまま車道へと歩き出して。


「待ってください、何するんです!?」

みじぇれめんでおすMiserere mei Deus、おお……!」


 引き留めた腕はすぐさま振りほどかれる。もの凄い力だ。太い肩が不自然に回転してぶちぶちと彼の後ろ首から何かをむしりとる。その手は僕の胸ぐらを強く締め上げると路肩の方へ突き飛ばした。階段の手すりへぶつけた後頭部に散る火花。


「ぅっく、……っなんで。死んでも、って今いったばかりじゃないですか!」


 背中へ叫ぶ。老人の足が止まった。その鼻先をけたたましいクラクションとともにトラックがすり抜けていく。


「……」


 青い瞳が僕をふり返る。疲れ切った目だった。何もかもを憎むでもなく求めるでもなく、そういう心の動きすら面倒がっているような氷の張った湖だった。


「――行かないで、ください」


 震える声でそれだけを絞り出した。ほかに僕に言えることは何もないように思えた。

 ただこのまま老人を死なせることがむしょうに心細くて仕方がなかった。


「……ありがとう」


 あっと僕は声を上げる。老人はその場で膝を折ると胸を押さえてうずくまった。その背中がぴくぴくと痙攣している。


「大丈夫ですか!? 誰か――!」


 ぐったりと横倒れになった老人へ呼びかける。

 白くにごった眼が僕をとらえ、ひび割れた唇がかすかに動いた。


「……たの、む……」

「何を……っ」


 救急車がきたのは十数分後だった。僕はその間ずっと意識を失った老人へ呼びかけ続けていた。


「ご家族の方ですか!?」

「いえ」

「では身元をご存じの方で!?」

「……いえ」

「ご協力に感謝します!」


 救急の人とのやり取りはそれだけだった。目の前で閉じる救急車の後部扉を僕は見送るしかできなかった。あとには老人が吐瀉した酒とハンバーガーが赤々と路面に飛び散っていた。


(僕は何がしたいんだ)


 それからの数日間はもやがかかったようで。

 ニュースをチェックし近くの病院を訪ね歩く。三日ほどそうして過ごしても、あのとき救急車に乗ればよかったという後悔は消えないまま。


(写真どころか名前だって分からないし、見つからなくて当たり前だよな)


 あまりにサボりすぎたせいで学校に親まで呼び出されても、気がつけば足は街へと向いていた。雪の降りしきる歩道橋へ。


「さっむ……」


 呆けたみたいにいつも通りのそこを歩くと少しだけ体の芯が凍えるような気がした。ジャンパーの前をかきよせたとき、えりの裏にいれた指先が何かに触れる。


「これ、は」


   網代 幸男

   家族連絡先 090-3×75-8×08


 一見すると服のタグみたいだった。黒のマジックで小さく名前と電話番号が書いてある。


迷子札まいごふだ……?」


 もちろん覚えがない。入れ込まれたとすれば老人を引き留めようともみ合ったあのとき。彼が直前、何かを首の後ろからひきちぎったように見えたのは多分これで。

 でもどうして。


  ――……たの、む……


 老人の最後の言葉がよみがえる。

 それはここに連絡をしてほしいということなのかそれとも。


(……知らせるな、ってことか?)


 わざわざ破りとって気づきにくい所へ忍ばせたことを考えればそちらの方が状況にあっている。


「なんだよ、それ」


 そこまでして世話になりたくないのか。あとに何も遺したくないのか。じゃあ何のために生きていたんだ。あんな風に怯えて、疲れ切った顔になってまで。

 一度強く握りこんだそれを再び広げたとき、僕は携帯電話を手に取っていた。





 電気街の細路にあるコンセプトカフェの裏口で、エルフの魔法使いに扮した女の子が待っていた。


「寒いでしょ、てかアタシが寒いから中はいって」


 壁一面にファンタジー系のコスプレがかけられた更衣室のテーブルに腰掛けた彼女はやや大人びた雰囲気。

 番号の連絡先はいつかの魔女っ子エルフ。そして僕が電話したときにはすでに警察経由で連絡がいった後だった。


「……おじいちゃんてば、身元なんて歯医者さんにかかってれば簡単に判っちゃうのにね」


 ロッカーをあさった彼女はバッグから静かな手つきで白い小さな壺を取り出し。


「わざわざありがと、律儀りちぎだね、キミ」


 僕はそれに手を合わせた。


「……こういうの持ち出してよかったんですか。その、僕のために」

「いいのいいの、どうせお母さんも迷惑がってるだけだし」


 あっけらかんと笑うと彼女は水筒から熱いお茶を注いで。


「もともと心臓が弱ってたんだって。病院で健康診断も受けてたみたい」

「え」


 びっくりでしょ、と彼女は苦笑。


「生命保険を掛けてたみたいなんだ。三十年くらいずっと。受取人はアタシのおばあちゃん。っていっても去年に亡くなってるから権利はお母さんだけどね」


 あの世捨て人みたいな老人が病院で検査を?

 保険をかけていたなら、やっぱりあの『頼む』とは家族に伝えてほしいということだったのか。けれどなら名前と番号を自ら引き剥がした意味は? 

 黙り込んだ僕をどう思ったのか彼女は椅子に腰かけるとつま先が巻いたファンシーな靴を伸ばした。


「保険会社から連絡といっしょに調査員って人が来てさ。自殺じゃないのかーとかしつこく聞かれたりして、やんなっちゃう」

「……ぁ、ああ……っ!」


 全部がつながった感覚。

 老人は確かに自ら命を絶とうとしていた。それははじめ出会ったあの時もおそらく。けれどなおその道を選ばなかったのはたぶん。

 僕は目の前の女の子を見つめた。


(あんなになってまで)


 正気が抜けたような表情を覚えている。あれほど死にとりつかれた彼が普通一般の目的で検診など受けるとも思えない。ならばそれはおそらく、健康を保つためではなく死期をかぞえるため。


 ――ありがとう――


 だからか、と思う。

 一度は名前すらむしりとって終わりへ向かおうとした彼が、最後にとりもどした理性の声。彼は保険金を無事おろすために、自死ではなく病死を待ち続けた。

 無性に泣きたくなった。悔しさかやるせなさか、それとももっと綺麗な何かに触れたせいか自分でもよくわからなかった。ただ。


(繋がって、よかった)


 連絡してよかったと思った。それはあの人の一面でしかないかもしれないけれど、確かな真実として僕の中に残る。

 僕が死ぬまで。


「泣くの、マジ?」

「いや……あなたはどうしてお爺さんに会ったんですか?」


 興味津々で迫ってきたフリル付きの円錐帽から顔を背けて僕はたずねた。


「うーん、なんていうか、面接で話すことが欲しいなあって」


 彼女は自分で言って呆れたように。


「看護の専門学校に通ってるんだけど。みーんな就職活動中は家族か親戚が大病の罹患りかん歴アリになるの。看病をしてこの道に目覚めましたーとかって」

「嘘をつくってことですか?」


 ちょっとね、と認めると彼女は深くかぶった帽子の位置を調整し、アタシは、と。


「作り話でもそういうこと言いたくなくてさ。だったら実際に人助けしちゃおうって。昔からたまに家にお金が送られてくるの、ここら辺の郵便局が消印けしいんだったからさ。バイトしながら探して」


 探偵みたいで楽しかったよ、と成功したいたずらを思い出すみたいに笑う。その口元を隠すようにお茶のコップがかたむけられた。


「区役所に支援の申請に行ったり、アルコール依存の通院につきそったり。昔のこともチラッと聞いたりして。でも……」


 細い肩が吐き出される白い湯気といっしょにわずかに上下する。


「びっくりするほど悲しくないんだ。薄情すぎて自分でもヒクくらい。なんていうかおじいちゃん、いつもすごく辛そうだったからさ。あぁ、ようやくだねって」


 変かな、と気まずそうに笑う。


「僕もそう思います。……でも、会えてよかった」


 会えて、話せて、その人生にふれられて。

 僕がそう感じたくらいで老人の辛苦には見合わないだろうけど。


「……うん、そうだね」


 ちょっと待って、と彼女はカバンを探ると小さなチャック袋を取り出した。中には綿のような包みがひとつ。


「それ、よかったら持ってて」


 受け取って開くと中にはいびつな黒い粒が一つ。


「火葬の灰から出てきたの、金だって」


 すすけて溶けたそれは一見して金属とも分からない。けれど骨よりずっと重たかった。


「何回か夜逃げしたってお母さんが言ってたから、その時に入れたのかもね」


 緑の付けづめが細いあごの奥を指し示した。


「これ、高価なものじゃ」

「専用の機械で純金に戻せるらしいけど、そんなツテもないし。それにね」


 ちょっとだけうらやましそうな含み笑い。


「おじいちゃんが言ってたんだ。俺の遺産は一緒に酒を飲んだ相手にゆずる、って。こっちが未成年だと思って、遺産なんて無いくせにね」


 だからキミに、と彼女は手のひらを差し伸べた。

 僕は彼女が同い年かそれ以下らしいという衝撃で頭がいっぱいでそれどころではなかったけれど。





 帰り道、立ち寄ったハンバーガーショップで注文する。


「ハンバーガー、ピクルスオニオンケチャップ全部多めで」


 テイクアウトし、歩道橋の柵を机がわりにかぶりつく。


(やっぱ美味くないよな、そんなに)


 せめてもう一枚ほしい。トマトとかチーズとか。

 もし僕が異世界転生したらビッグバーガーを布教しようと冗談まじりに考えて、丸めた包み紙をクズ入れに放り入れた。


(ヒロインがエルフのラノベでも買って帰るか。カバンにさしとけば話のタネになるかもだし)


 もしくは魔女とドワーフの出てくる、願わくばふたりが仲良く一緒にいるような作品を。それくらいの感傷ならあの人もきっと許してくれるだろうから。


 冷たい風から逃れた先のポケットで、指先が小さな金塊にふれた。

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