18-28「漂流」
僕の身体は、海面へと浮かび上がった。
僕は自分の顔が水面から出て、肌で空気の感触を確かめると、無我夢中でそれを貪(むさぼ)った。
足りなくなった酸素を少しでも早く得ようと無理をして空気を吸い込んだために少し咳(せ)き込んでしまったが、僕の呼吸はすぐに落ち着いた。
それから、身に着けていた装備の内で重くてかさばる耐Gスーツを脱ぎ捨ててしまうと、身体が軽くなり、姿勢も安定して、僕は海面に安心して顔を出していることができる様になった。
僕は、水滴がついて視界が悪くなっていたゴーグルを外し、周囲の状況を確認するために辺りを見回す。
そして、陸地など少しも見えない、海の真ん中に落ちてしまったことを知って、困ったことになったと思った。
無事に機体から脱出することはできたが、このまま海の中で漂流することになるのは、あまりにも心細い。
ライフジャケットがあるおかげで浮かんでいることはできるが、僕は泳げないから、どこにも行くことはできない。
ただ、波に任せて、流されていくことしかできない。
頼りになるのは、ライカだった。
彼女が無事にどこかの飛行場に着陸し、そこで僕の救助を要請してくれることだけが、僕が生存できる唯一の希望だ。
ライカは、僕が無事に着水したことを見届けるために、まだ上空に留まっていた。
だが、彼女の機体も、燃料が残り少なくなっている。
僕が無事を知らせるために手を振って見せると、ライカは一度機体を左右に振って、僕に確かに着水した位置を確認したと教えてくれた後、西へ、王国の大地がある方向へと飛び去って行った。
上空に轟(とどろ)いていた、耳に馴染んだエンジンとプロペラの音が遠ざかっていく。
やがて、それは完全に聞こえなくなって、僕の周囲には波の音しかなくなった。
どんどん、心細くなってくる。
ライカは僕を救助するために必死になってくれるだろうし、そのことに少しの疑いも無かったが、右を見ても、左を見ても、水、水、水しかないこの広い海原で、救助隊が僕の姿を発見してくれるかどうかは、分からない。
救助隊が探しに来てくれても、もし、僕を発見することができなかったら、僕はそれっきりだ。
海を漂い、やがて脱水症状や飢餓で命を落とすか、その前にライフジャケットに穴が開くか、空気が抜けてしまって、水の中に沈んで行ってしまうか。
それに、ライカが僕のことを連絡してくれたとしても、救助隊が来てくれるという保証も無い。
王国は今、帝国からの侵攻に、必死に抗(あらが)っている。
僕たち王立空軍は大きな犠牲を出しながらも帝国の艦隊に打撃を与えたが、この海から完全に帝国軍が消え去ったわけでは無い。
敵に襲われて救助隊が遭難しかねない様な状況で、救助が円滑に行われるとは限らなかった。
例え救助が来てくれるとしても、それは、数時間も後になってのことになるはずだ。
僕はくよくよするのはやめて、少しでも前向きに考えようと、気持ちを切り替えた。
僕は、こうやって海に入るのは初めてのことだ。
だから、今までにやったことのないことをしてみよう。
僕は試しに、海水を少し舐(な)めてみた。
海の水は川や湖の水と比べて、とてもしょっぱい。学校でそう習っていたが、実際に試してみると、本当に塩辛かった。
それも、僕の想像よりもずっと、しょっぱい。
これは、このまま漂流し続けて、飲み水が無くなった時に海水で喉の渇きを潤すというのは、とても無理そうだった。
もしも海水を飲んでしまえば、かえって体の水分を奪われて、脱水症状を起こしてしまうだろう。
救助がいつになるのか、本当に来てくれるのか分からない以上、頼りになるのは、脱出の際に身に着けて来たサバイバルキットの中身だけだ。
その中には真水の入った水筒も入っていて、それだけが命綱となるのだが、あまり量は多いとは言えない。
我慢して、2、3日はもつかもしれないという、それだけの量しか入っていない。
大事に、節約して飲まなければならないだろう。
僕はざっと、どれだけ水を飲んでいいかを計算し、少しだけ水筒の水を口に含んで、ゆっくりと飲み込んだ。
少しだけだが、不安な気持ちがまぎれた。
身に着けていた腕時計(防水仕様のため、まだ動いていてくれる)を確認すると、着水してから、まだ30分しか経っていない。
いろいろあったせいか、時間が流れていくのが、異様に遅く感じられる。
それは、海に漂っているということが、あまりにも退屈なせいでもある様だ。
僕は泳ぐことができないし、体力を温存したいというのもあって、楽な姿勢で波に身を任せている。
目に映るのは、青い空と、青い海だけ。
耳に届くのは、波の音だけ。
やることもなく、やれることもなく、ただ、海原で流されていく。
急に、寂(さび)しいという気持ちが溢(あふ)れて来てしまった。
今の僕は、1人きりだ。
近くには誰もいない。
だだっ広い海原に、孤独に浮かんで、流されていく。
このまま、もう2度と、誰かを見ることも無く、声を聞くことも無く、海の底へと沈んでいくのではないか。
そんな風に、思えて来てしまう。
僕は、その時、大声を出して叫んだ。
意味など何も無く、とにかく大きな声で叫んだ。
そうでもしなければ、孤独感でどうにかなってしまいそうだった。
それから僕は、自分が何としてでも生きのびなければならないという理由を、必死になって考えた。
何か理由があれば、僕はこの孤独な漂流に、どうにか耐えられるかもしれない。そう思ったからだ。
まずは、仲間たちと一緒に、平和になった空をあちこちに飛ぶことだ。
これは、絶対にやりたいことの1つだ。
そのためには、この戦争を終わらせなければならない。
どんな風にすれば終わらせることができるのか僕には分からなかったし、僕にできることはパイロットとして飛ぶことだけだったから、それを止めるわけにはいかない。
僕を救ってくれた人々のためにも、やり遂げなければならないことだ。
それから、僕の家族。
牧場はきっと戦火で荒れ果ててしまっているだろうし、僕は、父さんたちが牧場を立て直すことを手伝わなければならないだろう。
まだ幼さの残る弟や妹たちのためにも、やらなければならない。
それに、アリシア。
僕は、彼女が安心して学校に通うことができる様に、パイロットとして働いて、給与をもらわなければならない。
僕がこのまま海に沈んでも、僕の家族には政府からは遺族年金が支給され、そのお金があればアリシアも父さんも母さんも、家族みんなが助かるだろうが、誰も喜んではくれないだろうから、何とか生きのびなければならない。
そして、賢く愉快な親友であるジャック。彼はどうしているだろう。
出撃前に遺書を書いていた彼は、この戦いでも、無事でいただろうか。
彼は、士官学校に入って高等教育を受けるという夢のために、戦争の中でも必死になって頑張って来た。そんな彼には、この戦いを生きのびて、その夢を叶(かな)えて欲しい。
次々と、仲間たちの顔が浮かんでくる。
アビゲイル、カルロス軍曹、ナタリア、レイチェル中尉。
中尉などは、僕が不注意から機体を失い、おまけに戦死までしてしまったら、あの世にまで怒鳴り込んできそうだから、僕はなかなか死ねない。
それに、カイザーや、エルザ。整備班の人々。
彼らは熱心に僕の機体を見てくれていた。それでもし、僕が生還することができなかったら、彼らはそのことで責任を感じてしまうかもしれない。
機体は完璧だったし、被弾したのは僕の不注意のせいだ。それでも、カイザーなどは特に責任感が強いから、そんな風に考えてしまうかもしれない。
それは、避けたいことだ。
僕らの指揮官であり、ベテランのパイロットであるハットン中佐。中佐からはもっと、パイロットたちの昔話などを聞いてみたかった。
美しい声のクラリス中尉や、気さくな兄貴の様なアラン伍長も、悲しませたくはない。
そして、最後に浮かんで来たのは、ライカの姿だった。
僕は彼女と初めて出会ってからずっと、僕とライカはどんなに親しい友人となっても、最後には離れ離れになるのだと思ってきた。
僕は牧場生まれの田舎者に過ぎないし、それに対して、彼女は高貴な出身だ。
王国に貴族という身分はもはや存在していないが、それでも、彼女には僕には無い様な、生まれながらに背負わされた責務がある。
漠然(ばくぜん)とだが、僕にもそれは分かっていた。
それでも、僕は、彼女と一緒にいる時間が嬉しかった。
僕は、彼女が笑っているのを見るのが好きだ。
前の国王が亡くなった時、ライカはそのことで酷く悲しみ、落ち込んでいたが、そんな姿を、僕は絶対に見たくない。
だが、僕がこのまま海の藻屑(もくず)となってしまったら、彼女はまた、泣いてしまうだろう。
想像するだけでも、胸が痛くなる。
僕は、彼女には笑っていて欲しい。
そして、彼女を抱きしめて、その暖かさを感じることができたら、それはどんなに素敵なことだろうか。
考えてみると、僕には、これだけ生きなければならない理由がある。
救助は来るかどうか分からないし、来てくれたとしても当分先になるだろうが、その、長い長い時間を、孤独に耐えながら戦う覚悟が、僕の中に出来上がっていった。
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