18-3「釣り」
書類を作る作業は、本当に退屈だった。
ただただ、レイチェル中尉とカルロス軍曹が用意してくれたお手本を書き写すだけで、何の変化も無い、単調な仕事だ。
僕は、元々、こういう作業は苦手だった。
何と言うか、1つのところにじっとしていると、身体がムズムズしてくる。
こんなことより、自分の脚で野原を駆け回って、森の中を探検したり、馬に乗って走ったりする方がずっと好きだ。
そして、今は何より、空を飛ぶことが好きだ。
だが、僕はひたすら、作業を続けた。
この仕事を誰かに肩代わりしてもらうわけにはいかなかったし、何よりも、書類をきちんと作らなければ、新しい機体を受け取ることができず、僕は空を飛ぶことができない。
書類の作成に数時間はかかったが、僕たちはそれをやり遂げた。
休憩室で煙草を吸っていたレイチェル中尉と、煙草は吸っていないがレイチェル中尉と一緒におしゃべりをしていたカルロス軍曹に僕らは報告をしに行き、作った書類もチェックしてもらって、OKをもらうことができた。
書類はこの後、ハットン中佐が署名した申請書などと一緒に然るべき部署へと送り届けられることになる。
そこで、前の様に不備が見つからなければ、数日以内に僕らが乗っていた機体は返納され、新しい機体が配備されることになるだろう。
それまでは、出撃はもちろん、訓練もすることもできない。
僕は、新しい機体が届くのが、とても待ち遠しかった。
幸い、今回の書類には不備が認められず、僕たちが書類を作り直して申請をしたその翌日には、機体の返納と、代わりの機体が配備される日程が決まった。
新しい機体が到着するのは、明後日のことになるという。
新工場で試験飛行を終えた機体がトレーラーで基地まで運ばれてきて、そこで僕らに新しい機体を引き渡し、返納される機体と積み替えることになっている。
慣れない書類作成の仕事をこなしたために、少しぐったりとしてしまっていた僕たちだったが、申請が通って新しい機体をもらえることが分かると、元気を取り戻した。
結局、僕たちパイロットはみんな、空を飛ぶことが好きなのだ。
それから僕たちは、今までお世話になった機体の掃除を、念入りに行った。
もちろん、僕たちは日ごろから機体の掃除を整備班と一緒になって行っていたから、機体はどこもかしこも汚れなど無い状態だ。
だが、これまで、一緒に生死を賭けて飛んで来た相棒とお別れをすることになるのだ。
最後に、その性能を十分に発揮し、僕たちの命を守ってくれた機体に、感謝の気持ちを示しておきたかった。
例え、それが心の無い機械であったとしても、だ。
返納された機体は、しかし、それで解体されるというわけでは無かった。
機体の状況を入念に確認し、まだ飛行可能だと判断されれば、航空教導隊に引き渡され、そこで練習機として再利用されることになっている。
激しい空戦機動はもう行うことはできないが、新米パイロットが空を飛ぶのに慣れるために、ゆっくりと飛ぶことならまだできるはずだ。
もっとも、僕らの機体は、戦時の特例で設けられた規定に沿って、正規の規定である150時間という機体寿命の2倍以上も飛んでいるし、被弾して損傷した後に修理をされた機体もあるから、航空教導隊に回されて第2の人生を送ることができる機体は少ないかもしれない。
徹底的に磨(みが)き上げられた機体は、これまで酷使されてきたこともあって新品同様とまでは行かなかったが、それでも、綺麗になった。
これなら、運よく航空教導隊で第2の人生を送ることになっても、機体を使うパイロットたちに気持ちよく飛んでもらうことができるだろう。
新しい機体を迎え入れる準備が終わった後は、僕たちはほとんどの時間を自由に過ごすことにした。
体力維持のためにランニングなども行ったが、これまで、訓練に、実戦にと、僕ら自身も忙しい日々だったから、身体を休める方が優先だった。
まだ、いつになるかは決まってはいなかったが、僕ら第1航空師団は、王立軍が実施するはずの、フィエリテ市の奪還作戦に、その中核兵力として参加することになるだろう。
公式に発表されているわけでは無いが、少なくとも、僕らはそう思っている。
数的な劣勢が続いている前線から僕たちを引き抜き、戦力として再建しようとしているここ数カ月の動きは、まさに、第1航空師団を元の精強な部隊へと仕上げ、反攻作戦の主力として使うつもりであるからに違いなかった。
作戦が始まれば、僕たちはまた、休みなく戦い続ける日々に戻ることになる。
気を抜ける時に休んでおかなければ、身体がもたなくなってしまうだろう。
僕たちは、のんびりと休みを満喫(まんきつ)した。
アビゲイルからの提案で僕らは、301Aの第2小隊を組んでいるいつものメンバーで海へと出かけ、波消しのテトラポットが積みあげられている岸壁で、釣りをして楽しんだ。
僕は内陸部の出身だったが、川や湖で釣りをしたことはあった。
父さんいわく、なかなか上手だということだったが、海で釣りをするというのは初めてだ。
王国南部の港町出身で、海での釣りは得意だというアビゲイルに教えてもらいながら、僕は海の魚との対戦に何度も挑戦した。
川や湖で大きなマスを釣ったことはあったが、海の中には、マスよりも大きな魚たちが潜んでいるらしい。
僕は何度か強い引きを得たのだが、結局、釣れたのはスズキという魚が1匹だけだった。
海には潮の流れがあって、魚がいそうなポイントに向かって竿を入れても思った様にいかず、針にかけるのもやっとだった。
だが、とても楽しい経験だった。
アビゲイルは得意だと言っていた通り、上手だった。
僕が苦戦している横で、彼女は涼しい顔で何匹も釣り上げては、「食べきれないから」と、せっかく釣り上げた魚を海へと逃がしてやっていた。
彼女が釣りをするのは、趣味からではなく「食っていくために仕方なく覚えた」ということだったが、釣りをしている時の彼女はいつも、微笑んでいる様だった。
きっと、釣りが好きなのだろう。
いや、好きなのは、海の方だろうか?
その一方で、これまで釣りは全くやったことが無いというジャックは、散々な結果だった。
彼はアビゲイルの指導の下、果敢(かかん)に釣りに挑んでいたのだが、岸壁にうちよせて来た波を被ってしまったり、強い当たりが来たと思ったら仕掛けがテトラポットに引っかかっていただけだったり、せっかく釣り上げた魚も、針から外す時に暴れられて逃走を許すなど、運が無かった。
見ている分には面白かったのだが、本人にとっては災難でしかなかっただろう。
僕たち3人が釣りに挑戦する一方で、ライカは、「食べるのは好きだけど、ちょっと、生きている魚は怖い」などと言って、遠巻きに僕らを眺めているだけだった。
だが、彼女は愛用しているカメラで、パシャリ、パシャリと、何枚も写真を撮っていた。
僕がスズキを釣り上げた瞬間や、アビゲイルが釣った魚を素早く針から外して海に放り投げて返してやる場面、そして、ジャックが波を被る決定的瞬間や、仕掛けをテトラポットにひっかけて、顔を真っ赤にしながら踏ん張っているところを、ライカは素早く、巧妙(こうみょう)にカメラに納めて行った。
ライカが竿を触ることはなかったが、十分、楽しめた様だ。
釣った魚は、食べられる分だけ持ち帰って、みんなで食べた。
魚を捌(さば)いて調理してくれたのは、アビゲイルだ。
彼女は釣りを「食っていくために仕方なく覚えた」と言っていたが、それは誇張(こちょう)でも何でも無かったらしい。食べられる魚とそうでない魚を見分けることはもちろん、どんな風に捌(さば)いて、どういう料理にすればいいのかも熟知していた。
調理の方法は、多彩だった。
シンプルに塩焼きにしたり、スープにしてみたり、酢でしめてみたり、油で揚げてみたり。
どれも美味しかったのだが、僕は、生の魚を切って、オリーブオイルや塩、胡椒(こしょう)と一緒にあえただけの料理にとても驚かされた。
刺し身という食べ方であるらしいが、普通、僕たちは生で魚を食べる様なことはしない。
川魚などの淡水魚には寄生虫がついていることがあり、また、食中毒などの恐れがあって危険なためだ。
だが、アビゲイルは、平気な顔で刺し身を食べていた。
彼女が言うには、海の魚は塩分濃度の高い海水の中に住んでいるおかげで寄生虫の心配が淡水魚よりも少なく、しかも、アビゲイルには安全な魚の見分けもつくということだった。
それに、釣ったばかりの新鮮な魚であれば、食中毒の恐れもまず、無いらしい。
それでも、僕たちはなかなか、刺し身に手を出すことはできなかった。
生で何かを食べるということを、野菜以外ではやったことがほとんどなく、どんな味がするのかも分からない食べ物を口にするのが怖かったのだ。
しかし、僕は、かつてクレール市に出かけた際に、牡蠣(かき)という貝を生で食べたことがあるのを思い出した。
あの時も、最初は戸惑っていたが、実際に食べてみると、とても美味しかった。
アビゲイルの方を見ると、彼女は実に美味(うま)そうに刺し身を食べていた。
普段、一緒に食事をする中で、彼女の味覚は僕たちとほとんど変わらず、僕たちが食べて美味しいと思うものは彼女も美味しいと言い、不味いというものは彼女も不味いと言うことを、僕たちは知っている。
彼女が美味しそうに食べているのだから、刺し身というのも、きっと、美味しいのに違いない。
僕は、覚悟を決め、刺し身を一切れ、フォークで突き刺し、口の中へと運んでみた。
独特の味だ。
生の魚ということで、どうにも、焼いたり、煮たり、何か手を加えたものと比べて生臭い感じがする。
だが、美味しかった。
新鮮な魚の切り身はコリコリとした食感で、噛めば噛むほど、旨味のある脂が舌の上に溶けて広がってくる。
僕の行動を、信じられないとでも言いたそうな顔で見守っていたジャックとライカだったが、僕が2切れ目の刺し身に手をのばしたのを見て、2人も消極的にだが刺し身を口にした。
結局、アビゲイルが用意してくれた料理は、最後にはすっかり、僕らの胃の中へと納まることになった。
※作者注
刺し身と言っていますが、イタリア風の刺し身のこと(シチリア辺りでは伝統的に生の魚を食べるそうです)で、熊吉は実物がどんなものかは知らないのですが、カルパッチョに近い感じを想像して書きました。
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