9-9「黒い戦闘機」
僕は、最初の賭けに勝利した。
僕らをしつこく追い回していた4機のジョー、投擲斧の部隊章を持つ敵機たちが全て、僕へと食いついてきたからだ。
彼らが僕だけを追っていたはずは無い。恐らく、僕らの内でどれか1機でも撃墜したら、この場を引くつもりになったのだろう。
とにかく、もう、時間切れだ。
巨大な積乱雲が、すぐそこにある。
整備班の人たちは、本当に、いい仕事をしてくれている。
もう、空戦が始まってからどれほど時間が経ったのかも分からないし、機体も、それなりに被弾しているのだが、飛行には全く問題が無い。
もしも、少しでも飛行に支障が出ていたら、とっくに乱気流に翼を取られて、操縦ができなくなっていただろう。
おかげで、僕は、まだ、信じることができる。
群れからはぐれた獲物を追いかける狼たちの様な敵機から、その牙から逃れ、基地へと生きて戻れる可能性を。
その可能性を実現できるかどうかは、全て、僕次第だ。
だが、現実は、僕の思い描いたようにはいかない。
何度目かの被弾で、とうとう、僕の機体のエンジンがダメージを受けた。
曳光弾が、目の前でエンジンカバーを突き破る瞬間を、僕は確かに見た。その直後、弾丸は僕の操縦席にも撃ち込まれ、風防のガラスを砕いた。
痛みは無かったから、僕自身は、奇跡的に被弾しなかったらしい。いや、被弾した時のショックで痛みを感じないこともあるというから、実際のところはどうなのだろう。
少なくとも、僕はまだ、操縦桿を握れている。
機体も、まだ飛んでいる。
エンジンは被弾し、煙を吹いていたが、まだ回っていた。
操縦も効く。
風防を穴だらけにされ、操縦席には風が勢いよく吹き込んで来るが、複葉のエメロードに乗っていたころはこれが当たり前だった。恐らく吹き込んで来る風は猛烈に冷たいもののはずだったが、今更、気にもならない。
僕はまだ、生きている!
そして、生きている限り、精一杯、生きるだけだ!
僕は速度を失いつつある機体を必死に操縦し、敵機の攻撃を出来得る限りかわす。
エンジンを被弾したから、敵機を振り切って逃げることはこれまで以上に難しくなったが、旋回半径は速度が落ちた分、小さくなっている。敵もてこずっている様子だった。
後は、時間さえ、時間さえ経てばいい。
このまま、敵機と一緒に乱気流に捕まって機体をバラバラにされても、アビゲイルと、ライカが逃げ延びてくれる、その時間を稼げればいい。
《ミーレス! 》
その時僕は、今、もっとも見たくなかったものを目撃した。
ライカ機と、アビゲイル機が、戻って来たのだ。
ライカの叫び声と共に引き返して来た2機は、機関銃と機関砲を乱射しながら突っ込んで来る。
《どうして! 》
《許さないって、言ったでしょう! 》
《あたしだって、目の前で仲間が落とされるのは、もう見たくないんだ! 》
すぐに、2機は敵機とのドッグファイトに入って行った。
もう、逃げる機会は無い。
僕らは、敵機を撃ち落とすか、敵機に撃ち落とされるかしかない。
それか、あの、黒い怪物の様な積乱雲に食べられてしまうか。
僕は、もう、頭の中が真っ白になっていた。
僕は、失敗した。
肝心な時に、取り返しのつかない大失敗をしたのだ。
もう僕には、この状況をどうすることもできない。
僕は、何もできない。
何も!
耳慣れない言葉で紡がれる鼻歌が聞こえてきたのは、その時だった。
僕は、自分の気がいよいよ狂ったのではないかと思った。
だが、そんなことを思える内は、まだ、狂ってはいない何よりの証拠だろう。
その鼻歌は、本当に聞こえてきていた。
《誰!? この歌を歌っているのは!? 》
《こんな時に! 誰なんだ!? 》
ライカにも、アビゲイルにも聞こえているらしい。
それは、偶然、僕らの無線に飛び込んで来た音だった。
どうやら、僕らが仲間内だけでこっそりおしゃべりをするために使っていた無線の周波数が、たまたま、その鼻歌の主の無線の周波数と重なったらしかった。
年を重ねた、深みのある低い声で、まるで散歩でも楽しんでいるかのように、歌っている。
僕は、天高くそびえる様に成長した積乱雲によって太陽を覆い隠され、薄暗くなった空に必死に目を凝らした。
誰かが、そこにいる。
そんな予感がしたからだ。
そして、僕は、すぐに、それを見つけることができた。
黒々とした積乱雲に雷が走り、その閃光で、一瞬だったがはっきりとそれが映し出される。
それらは、2機の戦闘機だった。
見覚えがある。
忘れようとしても、忘れることなど、到底、できない機体だ。
単発単葉単座の機体で、先進的な引き込み脚を持つ。比較的小柄な機体は、ありとあらゆる無駄を排し、必要なものだけを備え付けたといった風で、角張ったキャノピーが武骨な印象を抱かせる。
機首に向かうのに従って絞り込まれるエンジンカバーの形状は、その機体に液冷式のエンジンが装備されていることを想像させる。機首の下にはオイルクーラー用の薄く平たい四角の形をした吸気口があり、主翼の下側にラジエーター用の、同じく薄く平たい四角の形をした吸気口が備え付けられている。
全体を黒く塗装されていたが、主翼と、機首から胴体にかけて、恐らくは稲妻を模したものらしい模様が白で描かれている。
その機体に描かれた国籍章は、双頭の黒い竜。
帝国軍の戦闘機だった。
僕は、その機体の姿を、鮮明に覚えている。
今では、その名前も知っている。
帝国軍の主力戦闘機である、フェンリル。神話やおとぎ話に出てくる、伝説上の狼のことだ。
それは、かつて、カルロス軍曹と、レイチェル中尉を撃墜した機体だ。
そして、僕の教官でもあり、恩人でもあった、マードック曹長を帰らぬ人とした機体。
雛鳥でしか無かった僕を、その日、生かした機体。
あの時と、全く変わらない姿。
その2機が見えたのは、ほんの一瞬のことだった。
雷の閃光が消えると、その2機の姿も消える。
同時に、この場に似つかわしくない、穏やかなメロディーの鼻歌も消えた。
その理由は、すぐに分かった。
僕らを追いかけまわしていた4機のジョーの内、2機が、突然火を噴き、撃墜されたからだ。
その機体から吹き上がり、表面を舐める様に広がった炎の光に照らされて、2機のフェンリルの、獰猛で先鋭なシルエットがよぎる。
僚機を失った残りの2機のジョーは、素早く回避行動に入り、そのまま、突如として襲い掛かって来た帝国の黒い戦闘機へ反撃しようと、空戦を挑んでいった。
急降下し、正確で効果的な一撃を加え、戦果をあげて急上昇に転じた2機の黒いフェンリルを、仲間を奪われた2機のジョーが追う。
その4機の戦闘機を、唐突に、紫色の光が覆った。
それは、セントエルモの火と呼ばれる現象だった。
積乱雲の近くなどで時折見られるという、自然現象の1つだ。
どういう原理なのか、詳しいことは僕は知らなかったが、辺りに漂う電気が集まって発光する現象で、こういう、積乱雲など、雷を伴うような事象の近くで時折見られるものらしかった。
4機の機体の表面を、紫色の光がなぞる様に踊っている。
4機の戦闘機は、まるで、雷をまとっているかのようだった。
それはすぐに消えてしまったが、一生忘れられない光景だった。
それは、僕には美しく見えたのだ。
僕がまだ、見たことも無い様な光景。大きく広がる空へと羽ばたき、目にしたいと願っていた、未知の世界の片鱗だと思えた。
そして、僕がその光景に気を取られている内に、戦いに決着がつこうとしている。
2機の黒いフェンリルはあっという間に2機のジョーを引き離し、2機のジョーは速度を失ったのと、乱気流に巻き込まれたのか姿勢を崩した。
その瞬間を捉え、2機の黒いフェンリルは機首を返すと、2機のジョーを、いとも簡単そうに討ち取ってしまった。
ジョーは、彼らの仲間たちと同じ様に、炎を引きながら落ちていく。
2機の黒いフェンリルは、その結果がさも当然のことである様に、悠々と、そして、僕らなど眼中にない様子で、東の空へと機首を向ける。
連邦軍の主力戦闘機であるジョーだって、十分な高性能機だ。現に、僕らでは、経験が浅いのもあったが、歯が立たず、逃げ惑うしか無かった相手だ。
それを、ああも、簡単に。
あの黒いフェンリルのパイロットは、空を知っている。
僕は、そう直感した。
黒いフェンリルのパイロットには、この空に、どんな風が吹いているのか、手に取る様に分かっていたのだろう。
だから、この、乱気流が渦巻く積乱雲近くの空を、散歩でも楽しむ様に飛んでいられたのだ。そして、彼らにしか見えない風を利用し、それを上昇力に変えて、そうする術を知らない敵機を翻弄した。
そうに、違いない。
そうでも無ければ、こんなに簡単に決着をつけることなど、出来ないはずだ。
彼らが、神様とか、そういう類の存在でもない限り。
彼らもまた、僕と同じ様に、人間であるはずだ。
だが、その技量には、あまりにも開きがあり過ぎる。
格が違う。
桁が違う。
その、あまりの差の大きさに、僕は、愕然とする以外になかった。
《ミーレス! 今の内に! 》
《……ぁっ、ああ、分かった》
ライカの言葉で僕は我に返り、慌てて、進路を180、南へと取った。
今は、とにかく、この場を去らなければ。
僕らはあの積乱雲へと捕まり、粉々になってしまう。
無事だったアビゲイル機とライカ機と合流し、基地への帰還コースをたどりながら、僕は背後の空を振り返る。
僕には、彼らのことが分からない。
あの黒いフェンリルに、僕が命を救われたのは、これで2回目だった。
1回目は、僕が練習機に乗った、未熟な雛鳥だったからだ。
だが、今回、僕は紛れも無く、戦闘機に乗っている。
彼らの腕前であれば、僕らを全滅させることなど、簡単だっただろう。
何故、それをしないのか。
僕らが、損傷機だったからか?
彼らにとって、戦うに値しない相手と見なされたということなのだろうか。
釈然としない。
だが、僕は、彼らに、今回も生かされた。
それだけは、間違いのない事実だった。
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