7.怪物の正体
再び地形が険しくなり、ゴルダー河の源流が谷底を流れるようになると、最奥の町エイクリムが見えてくる。
テストリア大陸の人々がそこを人類最北の地と信じるのも無理はない。さあ、ここが行き止まりだと言わんばかりの絶壁がそびえ立ち、雲がかかるほどの高さから落ちる一本の滝はパラパラと雨のように散じている。その水を受ける小さな湖こそゴルダー河の源で、エイクリムの町は湖畔から絶壁の下に広がっている。
町へと谷を下るには細い一本の道を通るしかなく、その入口にはスパイク谷で散見されるドワーフのルーンを模した紋様の刻まれた柱が立っていて、道を二つに分けていた。左はエイクリムへと下る道で、右は〈黒の門〉へと向かう山道に続いている。
柱の周囲には道を守る衛士らが暇そうにたむろしていたが、近付いて来る二つの馬影に気付くと兜を被り武器を手にした。
「ん、あの太っちょ、マグナルじゃねぇか?」
「うん、マグナルとスヴェン王子だな」
「王子が後ろに乗せてるやつ、子供……いや女か?」
「やけに細ぇな。栄養失調か? 行き倒れでも拾ったのか?」
「いや、でも……少し様子が違うなぁ」
唇の動きまで捉える視力と、鋭い聴力のおかげでアンサーラには衛士たちがそんな会話をしていると分かった。
「おぅい」とマグナルが声を響かせて手を振る。衛士たちは武器を下して三人を待ち受けた。
「おかえりなさい、スヴェン王子。怪物退治はどうでしたか」衛士の一人が声をかける。
「ああ、ハーピーは退治した。でも山道に出る怪物は別のやつかもしれねぇ……って、おい、聞いてんのか」
衛士たちの目はスヴェンの後ろに座るアンサーラに釘付けだった。髭もじゃの男たちはぽかんと口を開けて欠けた歯を見せている。
「あの……王子、その女はもしかして……」
「こいつはエルフのアンサーラ。俺と一緒に怪物退治をしに行く」
「うわ……本物だ……」
「は、はじめて見た……」
衛士たちの無遠慮な視線からアンサーラを守るように、マグナルが馬を進めて巨体を壁にする。
「じろじろ見るな。失礼だろうが。谷の人間が不作法だと思われる……申し訳ない、アンサーラ殿」
振り向いたマグナルとアンサーラの視線が合った。しかし一瞬の後にマグナルは赤面して、すぐ前に向き直る。
「エルフが珍しいのは事実ですし、気にしておりません。しかし、騒ぎになるようでしたら町の中ではフードを被っていたほうが良いでしょうか?」
「騒がれたくないなら、そうした方が良いだろうな」と肩越しにスヴェンが答える。
「では、失礼して」
アンサーラは目が隠れるほどフードを深く被り、マントの前を閉じて身体を隠した。そうしていると確かに子供のように小さい。衛士たちに別れを告げて町へ向かう道を下り始めると、後ろからマグナルが「申し訳ない、アンサーラ殿」と何故か謝った。
「気にしていない、というのは本当ですから。マグナル殿もどうかお気になさらず」
「いえ、なんというか、本当ならもっと、こう……」と言いよどむ。
「もっと、こう?」
「あ……いえ、すみません、忘れて下さい……」
マグナルの真意はアンサーラにも図りかねた。まるで見えない境界があって、踏み込もうとしてはびくりと身を引くような態度だ。ハーピーの巣での戦いぶりや魔法を見て脅威に感じているとしても不思議はないが。
日没には早い時刻だったが、三人が下っている道もその先にあるエイクリムの町も谷の影に沈んでいた。絶壁の上部にはまだ日が差していて、神が切り落とし忘れたかのように残った岩棚とそこにある建物の屋根が見える。町の中心部を抜ける通りに沿って建物が並び、家々からはうっすらと白煙が立ち昇っていた。呼びかけ合う人々の声や鉄を打つ音、大工仕事の音が谷に反響して聞こえてくる。スパイク谷に入ってから初めて聞く人間の町の音、文明の音だ。
もしアンサーラが人間だったなら、この騒々しさに安らぎを覚えたかもしれない。しかし彼女はエルフで、放浪者である。荒野をうろつくよりは快適さを期待できそうだ、という程度の気持ちにしかならない。
道中出会う人々はスヴェンに気付くと挨拶し、彼もそれに応えた。マグナルの言ったとおり、結構人気者らしい。
一行はスヴェンを先頭にして、人間の騒々しさと悪臭と温かさが詰まった町の中心部へは向かわずに三叉路で馬首を返して川沿いに進んだ。そちらの方向にも建物が並んでいる。その中の一つ、エノックの家を横に何倍も長くしたようなロングハウスの前でスヴェンは馬を止めた。
「ここだ」
平らではない狭い地面に家を建てるため、石で土台を作ってその上に床板を置いたような造りなので入口は地面より少し高くなっている。扉は手前と奥と二ヵ所。三つある窓は全て開いている。家の前の道から下りれば川原という立地である。
アンサーラはフードの奥から金色の瞳で窓の中を覗き込み、音を聞いて、だいたい把握した。
このロングハウスは衛士のために用意されたものに違いない。家の中には人間の男性が数人いて、それぞれ一人分の空間を確保している。木板を柱と梁に立てかけて仕切っている者もいれば、渡したロープに布をかけて壁にしている者もいるが、多くは寝床と荷物を置く場所さえあれば気にしていないようだ。全員が衛士に扮したスヴェンやマグナルと同じ
スヴェンが馬を下りてアンサーラもそれに続く間、一足先にどすんと馬を下りたマグナルはドタドタ足音を立てて床板に上がり、扉を拳で叩いた。
「従士のマグナルだ。ヴィリはいるか」
ロングハウスの中で話し声と物音がして、扉が開く。現れたのは二〇代後半くらいの男でスヴェンやマグナルよりも年上だ。無精ひげで、肩まである長髪は乱れている。
「従士のマグナルが俺に何の用だ?」
「スヴェン王子が、お前が遭遇したという怪物について話を聞きたいと来ておられる。話す時間はあるか」
「なんだ、やっと来たのか……ああ、もちろん、テムの仇を取ってくれるならいくらでも話すぞ」
ヴィリはスヴェンの姿を認めると手で簡単に身なりを整えながら外へ出てきて、王子の前で拳を胸に当てて一礼した。それから四人は川のせせらぎを聞きながら道端で立ち話をする。
事件のあった日、ヴィリとテムは〈黒の門〉で峠を監視する役目を交代するため山道を登っていた。ずっと小便を我慢していたヴィリはついに馬を止めてマツ林の中で用を足したが、その間の出来事だったという。頭上を黒い影が音もなく通り過ぎ、驚いて振り返るとテムはすでに空中へ持ち上げられていた。哀れなテムの肩と頭を後ろ足で掴んだ怪物はぐんぐん上昇し、彼の悲鳴も遠ざかって行く。武器を取る間もなく、〈世界の果て山脈〉の山中へと小さくなっていく影をヴィリはただ見ている事しかできなかった。
「――誰も信じねぇが、あれはドラゴンだった」ヴィリは悔しそうに話を終えた。
「さすがにそれは無いよ」とマグナル。「ファランティアのドラゴンが人間を食うなんて聞いたこともない」
それはアンサーラも同意見だった。絶対と言っていいほどあり得ない。ドラゴンがファランティアに残ったのは、かの地を人間の領土と認めた〈盟約〉を見届けるためだ。つまりファランティアにドラゴンがいるのは人間のためである。しかしヴィリは食い下がった。
「でも、吟遊詩人の歌や物語の中には悪いドラゴンも出てくるだろう。それが全部嘘だってのか?」
伝承に語られているそれらはおそらくワームだ。ドラゴンとワームは外見上区別がつかないし、ともに竜語魔法を使うが、決定的な違いは知性の有無である。ワームにはほとんど獣同然の知性しかなく、奇妙な蒐集癖がある。個体数は少ないが〈世界の果て山脈〉ならば生息していてもおかしくはない。
しかしもし本当にワームなのだとしたらアンサーラでも退治するのは困難だ。それこそファランティアのドラゴンと竜騎士に協力してもらうか、ドワーフのギブリム氏族に手を借りなければならないだろう。
それに――人間は超常の獣を全て魔獣扱いしてしまうが――ワームは魔獣ではない。アンサーラが狩るべき対象ではないのだ。
「あんた、ドラゴンを見た事あるのか?」とスヴェンが口を出す。
「……いや、ありませんけど……」
「なら、どうしてドラゴンだと分かる?」
「だって、空飛ぶトカゲがドラゴン以外にいますか!?」
スヴェンはちらりとアンサーラを気にしてから、ヴィリに向き直った。
「もう少し詳しく教えてくれ。どんな見た目だったのか」
「片方だけで大人より大きいコウモリみたいな翼で、鱗に覆われてて、長い尻尾がありました。後ろ姿だったからはっきり見てはいませんが、首も長かったと思います。ごつい後ろ足でテムを掴んで……あいつの悲鳴が遠ざかっていくのに俺は何もできず……」
肩を怒らせて目を背け、ヴィリは吐き捨てるように言った。よほど悔しい思いをしたのだろう。
「……腕はありましたか?」
突然フードの奥からアンサーラが話しかけたので、ヴィリは驚いたように顔を上げた。女性だと思っていなかったのかもしれない。それからスヴェンを見て、王子が目でうなずくのを確認してから答える。
「腕ってのは……前足ってことか?」
「はい」
「分からねぇけど……無かったような気がする」
「何もできなかった、とおっしゃいましたが、それは怪物が空を飛んでいたからですね? 恐怖で身体が動かなくなったわけではなく?」
馬鹿にされたと思ったのか、ヴィリはムッとしてアンサーラに詰め寄ろうとしたがマグナルが無言のまま手で制した。
「失礼しました。あなたを侮辱するつもりはありません。ドラゴンを見ると、〈ドラゴンの恐怖〉によって身体が動かなくなるという現象が起こります。それが無かったのなら怪物はドラゴンではありません」
「こいつ、なんなんです?」ヴィリは不快感を隠さずスヴェンに問う。
「俺の仲間だ。許せ。その代わり、テムの仇は俺たちが必ず取ってやる」
ヴィリはムスッとしたまま自制するように腕を組んで鼻を鳴らした。どうやら機嫌を損ねてしまったようなので、アンサーラは質問を急ぐ。
「最後に一つだけ……尾の先は剣のように尖っていませんでしたか」
「……ああ、そうだな。片刃の尖った剣みたいな三角形だった」
「なるほど。ありがとうございました」
ワイバーンだ――とアンサーラは結論付けた。
ワイバーンは知らぬ者が見れば確かにドラゴンと見間違うかもしれない。鱗に覆われた身体、長い首と尾、皮膜のある翼など特徴はドラゴンと似ているようだが実際には全く違う。胴体は細く、頭部に角は無い。前足は翼手になっていて、発達した後ろ足を持つが〝空飛ぶ大蛇〟と形容したほうが正しい。主な生息地は南方だが飛行距離はかなり長く、一〇〇〇マイルを移動した個体もある。テストリア大陸にはいないはずの魔獣だが、テンアイランズの島か、人外魔境の〈魔獣の森〉あたりで繁殖したのだろう。そこから新たな産卵地を探して飛び立った個体の可能性が高い。いずれはその繁殖地を探し出して駆除しなければならないが、まずは目の前のワイバーンである。卵を産む前に片を付けねばなるまい。
アンサーラは軽く頭を下げて踵を返した。
「おい、アンサーラ?」
呼び止めるスヴェンを無視して歩き出す。当然のように彼は追って来るが、マグナルは残ってヴィリに「お前の無念はよく分かるよ」とか何とか話している。
「アンサーラ、怪物の正体が分かったのか? おい、待てよ」
アンサーラは気取られないほどの小さなため息を吐いて足を止め、振り返った。
「はい。ですから、後はわたくし一人で対処します」
「またそれかよ!」スヴェンは天を仰いで肩をすくめてから視線を戻し、「この件に関しちゃ、俺たちは仲間だったはずだ」と続ける。
「事情が変わりました。ハーピーとは比べ物にならないほど危険な魔獣です。あなた方を守り切る自信がありません」
スヴェンの双眸がギラリと光る。侮辱されたと思ったのかもしれないが、今回ばかりはアンサーラも引く気はない。
「おそらくワイバーンです。空を飛び、蛇のように素早く、熊のように力強い。しかし最大の脅威は毒です。硬質化した鋭い尾の先端は鋼鉄の板さえ貫き、そこから分泌される毒液は一滴皮膚に触れただけで腕一本を腐らせます。もし刺されでもしたら、人間なら瞬きの間に死ぬでしょう。連射はできませんが口から毒液を飛ばす事も可能です」
「危険だってんなら、それはあんたも同じだろ」
ムスッとして言い返したスヴェンに、アンサーラは少し悲しげに首を振った。
「違いますよ……ワイバーンは闇雲に尻尾を振り回したりしません。必殺の一撃を狙って繰り出します。わたくしなら見切れますが、人間の動体視力と反射神経では不可能です。それにエルフは人間の何倍も頑健ですから、万が一、毒におかされても治療さえできれば助かります。しかし、あなた方では治療する間もなく死に至るでしょう」
似たような外見であっても、エルフと人間はそれほどまでに違う。全く別の生き物なのだ。アンサーラはそれを理解しているが、スヴェンたちはハーピーとの戦いを見た後でさえ理解できていないようだった。
「どーたいナントカだの神経だのの話は分からねぇが、あんたがそこまで言うほど危険だってのは分かった……」
「分かってもらえて良かった。ですから後は」
「だが、俺は行く。マグナルは置いていこう」
この人間は何を言っているのだ、とアンサーラは我が耳を疑った。しかし若者の瞳は冷静そのもので、錯乱しているわけでも頭に血が上っているわけでもないように見える。
「死ぬおつもりですか? 無理です」
「無理でも押し通す覚悟はある」
スヴェンはまっすぐに、フードの奥で光る金色の瞳を見つめて言った。若き王子の瞳は鮮烈な感情を放ち、熱さえ発しているかのようであった。それはほとんどのエルフがあっという間に失ってしまう輝き。胸の奥で微かに疼くのは、羨望か。
そして、負けたのはアンサーラのほうだった。呻き声を飲み込み、目を逸らす。「手が……無いわけではありません。ただ……」
「よし、その手でいこう」
説明も聞かずに即決したスヴェンと、呆気にとられたアンサーラの目が再び合う。若き王子はニヤリとし、老練なエルフは今度こそはっきりとため息を吐いた。
「はあ……後で文句を言っても聞きませんよ」
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