6.エイクリムへ

 アンサーラたち三人がエノックの家へ戻って来たのは、正午を少し過ぎた頃だった。畑仕事をしていたエノックが出迎え、妻のエルガと娘のモーナも家から出てくる。


「ハーピーは退治しました。しばらくは安心でしょう。もう戻って来ないと良いのですが」


「そうか。重ね重ねありがとう、アンサーラさん。スヴェン王子もありがとうございました。次に戦場でご一緒する時はあなたの下で戦うと誓います」


「ああ、期待してる」


 うなずくスヴェンの膝をモーナが掴んだ。


「ねぇ、アンサーラおねえさんすごかったでしょ?」


 見上げる少女に対して片膝を付いたスヴェンは、背後でマグナルが遠い目をして「すごかったというか……完璧だった。強く、速く、美しく……」などとブツブツ言いだしたのを一瞥してからモーナにうなずいてみせた。


「ああ、すごかった」


「シュッシュッ、ズバーッて感じだった?」


「シャーッ、ズバズバッて感じだったな」


 それで通じたのか、モーナは「すごぉい」と目を丸くして今度はアンサーラに尋ねる。


「どうしたらアンサーラおねえさんみたいにできるようになるのー?」


 その問いに答えるのは難しかった。永遠に若さを保ちながら一〇〇〇年を生きるエルフと、すぐに老いて五〇年程度で死んでしまう人間とでは与えられた時間が違い過ぎる。だからといって適当にあしらうのは良くない、と自分に言い聞かせ――アンサーラは少し考えてから答えた。


「大切な事は二つあります。一つ、毎日練習する。二つ、剣を振った後を考えて剣を振る」


「そっかー! えーと、毎日練習する……剣を振った後を考えて剣を振る……」


 モーナが指折り数えながら何度も繰り返すのを見つつスヴェンは立ち上がり、アンサーラに言った。「アンサーラ、俺たちと一緒にエイクリムまで来て欲しい。理由は道中で話す。今なら日が落ちる前に戻れる」


 元よりエイクリムに立ち寄るつもりだったアンサーラは「わかりました」と即答した。


 そこへ珍しくエルガが口を挟む。「あの、たいしたものではありませんが、食事の用意をしてあります。食べて行かれては?」


 ぐぐーっ、とマグナルが腹音で返事した。


「わりぃ、少し急ぐんだ。行くぞマグナル」


「はい、王子」


 スヴェンはマグナルを伴って自分たちの馬を取りに行き、エノックも一緒に行った。エルガは足早に母屋へと戻り、アンサーラとモーナだけがその場に残される。


「アンサーラおねえさん、あたし、毎日練習するからまた来てくれる?」


 アンサーラは微笑んで、モーナの頭を撫でた。「ええ。近いうちに」


「やった! 絶対だよ!」


「はい。約束します」


 それからアンサーラはエノック親子に別れを告げ、スヴェンの馬に相乗りして慌ただしく出発した。最後にもう一度モーナに手を振り返したが、少女の姿は起伏のある地形に阻まれてすぐ見えなくなってしまった。森を抜け、道を北へと進む。


 スパイク谷は全長約三〇マイル、出口付近で最大幅一二マイルにもなる巨大な谷だが、人が住めるような場所は少ない。南端からは海と見紛うほどの大河ゴルダーが流れ出ていて、その中にある中州や小島には木立もあるが、谷に入れば半日もせずに険しい山と渓谷ばかりの山岳地帯になる。岩と苔の二色しかない荒涼とした景色の中に、地面へ突き刺さった黒いトゲのようなマツの森林は点在するものの、それ以外には背の高い植物もない。そして前方には〈世界の果て山脈〉が壁のようにそびえ立っている。


 三人を乗せた二頭の馬が進むにつれて、深い渓谷の底にあった川面はぐんぐん近付いてきた。渓谷が浅く広くなっていき、川の流れも地形も穏やかになった頃、夏の日差しを受けてキラキラ輝く川沿いを進みながらスヴェンが話を切り出した。


「あんたは知ってるかもしれねぇが、スパイク谷は昔から〈黒の山脈〉を越えて北方へ侵入しようとするオークと戦ってきた。山越えできる唯一の峠を〈黒の門〉つってな。そこに見張りの衛士を置いている。衛士は定期的に交代してんだが、エイクリムから〈黒の門〉に行く途中で行方不明になるっつう事件が立て続けに起こった。現場に居合わせて無事だったやつが言うには、空から怪物が来て連れ去った……らしい」


 らしい、という言い方は気になったもののアンサーラは黙って話を聞いた。


「ちょうどエノックからの伝言が届いたのもあってハーピーだと思い込んじまったんだが……あんたの話だと子育て中のハーピーは一マイルより遠くには行かねぇんだよな?」


「はい。絶対とは言いませんが、普通はそうです。遠出してもせいぜい三マイルでしょう」


「なら、〈黒の門〉へ向かう衛士を襲った怪物はハーピーじゃない……よな? あんた、どう思う?」


 人間を空中に連れ去れるような大型で飛行能力のある魔獣といえばキマイラ、マンティコア、ルフ、ワイバーン、あるいは野生化したグリフォンなど思い浮かぶが――アンサーラは一瞬考えてから答えた。


「空を飛ぶ、というだけでは何とも……ただ、ハーピーではないと思います。ハーピーは人間のような大きな獲物の場合、空中にさらって地面に落とし、抵抗できなくしてから巣へ運ぶか、運びにくい場合はその場で柔らかい部分だけついばんでしまいます。暴れる獲物を連れ去ったりはしません」


「もっと情報があれば?」


「絞り込めると思います」


 期待どおり、というふうにスヴェンはうなずいた。「実際にその場を見た衛士はエイクリムにいる。一緒に話を聞いてくれ。あんたの意見が欲しい」


「ええ、それは構いませんが……その方の話をまだ聞いていなかったのですか?」


 スヴェンは痛い所を突かれたというふうに息を呑んだ。


「ほらぁ、アンサーラ殿もそう思いますよね。俺もそうしようって言ったんですよ」後ろからマグナルの大声。今まで静かだったのはエルガが慌てて包んでくれた食べ物を口にしていたからだ。「でも王子は全然聞いてくれなくて。元々頑固なとこありますけど、頭に血が上るとますます頑なになっちゃうんですよねぇ」


 前を向いたままのスヴェンはばつが悪そうに首をすくめて言い訳がましくぶつぶつ言う。「いや、でもよ……誰だって頭にくるだろ……大勢の前で、あんなふうに言われりゃ……」


「そういえばあまり詳しい経緯を聞いていませんでしたね」とアンサーラ。


 マグナルは出番が来たとばかりに話し始める。


「スパイク谷では年に三回、王が城の広間に豪族たちを招いて色々な問題について審議するんです。その後は宴会みたいになるんですけど、そこで誰がくだんの怪物を退治するかという話になって、王子が名乗りを上げたのですが父君から反対されまして。〝お前一人に何ができる〟みたいに言われちゃって……」


 肩越しに振り返って話を聞いていたアンサーラも、おおよそ見当が付いて「ああ」と小さくうなずく。


「衛士は貸さんぞ。そんなの期待してねぇ。てな応酬が始まっちゃいまして。谷の男たちの手前、王子も引けなくなってしまったんですね。そんで、〝俺一人でやってやらぁ〟となったわけでして」


「力を貸してもいいという方はおられなかったのですか?」


「いやいや、いましたよぉ。王子はこれで結構人気者ですから、広間を出る時も何人かに声をかけられたんですよね」


「でも全て断った、と」


「そうなんです。ほんと、アンサーラ殿と出会えなかったらどうなっていた事か……」


「……そんときゃ、俺とお前でやってたさ……」とスヴェンがもごもご言う。


「そういう事情でしたら、わたくしが同行しているのは問題になりませんか?」


「いや、そこはあれだ。俺たちは俺たち、あんたはあんたで勝手にやってるだけで、たまたま一緒になったっつう感じで……」


 マグナルは馬足を速めて二人の馬に並ばせた。


「往生際が悪いなぁ……いいかげんちゃんとアンサーラ殿にお願いしたほうがいいですよ。ハーピー退治のお礼も言ってないですよね。変に誤魔化そうとしないで、王子の怪物退治の仲間ってことにすればいいじゃないですか。別に俺と王子の二人だけでやるとは言ってないんだし」


 背中を丸めたままスヴェンは答えなかった。マグナルは彼の反応を待ち、しばし沈黙の道中が続く。この付近の川岸は広くなだらかで鮮やかな緑が絨毯のように覆っていた。呑気な蝶がひらひらと舞い、聞こえるのは川のせせらぎと大鷹の鳴き声、二頭の馬の足音ばかり。


 ついにマグナルはしびれを切らした。「ねぇ、王子ぃー」


「あーっ、もう、うっせぇな、でぶ! 分かったよ! アンサーラ、正直言ってあんたがいてくれて助かった! 俺の怪物退治を手伝ってくれ!」


 スヴェンは前を向いたまま大声でそう言った。スパイク谷の中では珍しく夏らしい風景をぶっきらぼうな声が渡っていく。マグナルはふんぞり返って満足げに鼻を鳴らした。


「それでこそ、未来の我が王です」


 二人のやり取りに自然とアンサーラの笑みがこぼれる。


「ふふ……はい、わたくしでよろしければスヴェン王子の怪物退治に加わりましょう」

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