8.マグナル

 それからアンサーラはスヴェンに招かれ、エイクリムの王が住まう城へと案内された。城は岩棚の上にあり、そこへは絶壁内部の洞窟を上って斜めに走った亀裂の中を通り、小さな橋を渡って辿り着く。


 絶壁の上からの見晴らしはたくさんの景色を見てきたアンサーラにしても目を奪われるものだった。もう谷底はすっかり夜に沈んでしまったが、壁面は二枚の蒼いヴェールのように宵闇から立ち上がり、付かず離れず遥か南へと続いている。西の空を見ると真っ赤な残照が〈世界の果て山脈〉に連なる山々の稜線を影絵のようにくっきりと際立たせていた。昼と夜の境で大自然が生み出す劇的な色彩。


 眼下の町にはぽつぽつとオレンジ色の温かそうな光が灯り、そこで生活する人間たちの声や音が谷に反響して届いている。


「上は静かだろ? たまに酔っ払いの叫び声が聞こえるくらいだ」とスヴェン。続いてマグナルが、「明るいうちなら素晴らしい景色がご覧になれたのに、こう暗くなっては……」と残念そうに言う。


「ええ……そうですね」


 アンサーラは敢えて否定しなかった。自分の見えているもの、聞こえているものが人間には見えず聞こえない。それを説いたところで無意味だろう。目の前を歩く若者の考えを変えることなどできないだろうし。


 絶壁に張り出した岩棚の上にある小さな城は大きめの館という程度の建物だった。石造りの基礎に木の建物が乗っている構造はエノックの家と基本的には変わりない。天井の高い二つのロングハウスと二階建ての小さな塔が玄関部分で繋がっているような構造で、谷を見渡せる南側にはテラスがある。


 スヴェンとマグナルは入口を守る衛士や城の人々と挨拶を交わしながら、アンサーラを「仲間だ」と説明しつつ、城の大広間に向かった。スヴェンが豪族たちの前で見栄を切ったというそこは高い天井の一間続きになった大部屋で、中央には細長く炉が切られ、その両側に長テーブルとベンチが並んでいる。天井にはシャンデリア――華美なものではなく水平に吊るした車輪のようなもの――があって、たくさんの蝋燭に火が灯っていた。


 昼の食事をまともに取っていなかったスヴェンはさっそく食べ物を用意させた。硬いパンの器に入ったスープはエノック家の朝食を豪華にしたようなもので、具は大きく、塩こしょうにタイムなどでしっかり風味付けされている。他にも焼いたリーキ、パン、柔らかくなるまで炙ったニオイのきついチーズ、ワインなども並ぶ。


 スヴェンとマグナルは若者らしい食べっぷりを見せ、アンサーラも遠慮なく一人前を食べた。腹を満たしたスヴェンはまだ食べているマグナルを横目に話を切り出す。


「で、出発はいつにする?」


「最後に被害が出たのはいつですか?」


「最後の被害者がテムで、一週間前だな。テムとヴィリの代わりに〈黒の門〉へ行った衛士も、戻って来たやつらも襲われてねぇ」


 このワイバーンがアンサーラの予想どおりに産卵を控えた雌だとすれば、一週間に一度は捕食しようとするはずだ。もし産卵が始まってしまうと、卵が孵化するまで巣から出て来なくなる。


「でしたら明日、出発しましょう。そろそろワイバーンは次の獲物を探すはずです。生餌を用意して待ち伏せします。もし数日経って現れなければ産卵に入った可能性が高い。一度ここへ戻り、準備をしてから山に入って巣を探す事になるでしょう」


「生餌ってのは、その……人間、か?」


 スヴェンが真剣な顔でそんな事を言い出し、マグナルも食事の手を止めたので、アンサーラは思わず笑いそうになった。


「まさか。羊か豚か……用意できるなら成熟した雄豚が一番です」


 明らかに安堵する二人。人間はころころ表情が変わるので見ていて飽きない。


「うーん……」スヴェンは腕を組み、顎に指を当てて真剣な声音で呟く。「そうか……なら、マグナルが適任だな……」


 マグナルは口の中いっぱいに食べ物を頬張ったまま上目遣いに王子を睨みつけて、上腕を拳で小突いた。


「いてっ、ははっ、わりぃ、わりぃ、冗談だよ、ははは」スヴェンは笑いながら話を続ける。「他に必要なものは?」


「矢が無くなってしまったので良い矢があれば是非。それと魔法の触媒がいくつか足りません。この町に医師か錬金術師か、薬草師か……魔術師はいませんか」


「治療師なら城にいる。町にも薬草を売る女がいたな」


「それから、酒場にも寄りたいのですが」


「酒場? 酒でも要るのか?」


「いえ、そういうわけではなく……」


 どう説明したものか、と尖った小さな顎に手を当てたアンサーラを見てスヴェンは「いや、どうせ説明されても分かりゃしねぇ」と肩をすくめた。「じゃあマグナル。それを飲んだら案内してやれよ。俺は矢と豚を用意する」


 話を振られたマグナルは飲んでいたワインを噴き出しそうになるほど驚いた。「おおっ、俺ですか!? アンサーラ殿と二人きり!?」


 スヴェンが眉根を寄せて「嫌なら――」と言いかけたところで、「嫌じゃありません!」と叩きつけるように酒杯を置いて巨漢の従士は猛然と立ち上がる。


「お、おう……」


 気圧されたスヴェンを余所に、マグナルはぶほっと咳払いしてワインで真っ赤になった顔のまま、「で、では? 行きましょうか、アンサーラ殿?」と明後日の方向を見ながら言った。


 松明を手にしたマグナルに先導されて城を出ると、外はもうすっかり夜だった。天には無数の星が瞬き、地には町の灯りがぼんやりと弱々しくある。銀色の清々しい月明かりを浴びて、夜に満ちる気を胸いっぱいに吸い込むとまるで闇の世界に溶けていくような安心感があった。その身に父と同じナイトエルフの血が流れている証だが、それを否定する無意味さをアンサーラはずっと昔に学んでいる。


「足元に気を付けてください」と都度言いながら前を歩くマグナルはちらりちらりと肩越しにアンサーラを覗き見た。それで金色の瞳と視線が合えば、ふいと逸らしてしまうので、やはり二人きりは嫌だったのだろうとアンサーラは思った。夜の闇の中で彼女の白い肌はぼんやりとおぼろげになり、闇よりもなお暗い漆黒の髪と金色に光る瞳は不気味で恐ろしげに見えるはずだ。無理もない。


 二人はほとんど会話もせぬまま絶壁の中の洞窟を抜けて夜の町へ下りた。道端や広場にいくつか篝火台が置かれているものの町全体を照らすにはとても足らず、より影を濃くしているだけだ。ほとんどの家は板戸を閉めているので漏れる明かりも少ないから、人間なら照明がなければまともに歩けないほど暗い。実際、すれ違った人々は全員が松明や蝋燭を手にそろそろと足元に気を付けて歩いていた。


 唯一活気があるのは町の中心部にある酒場で、正面扉は開け放たれ、明かりだけでなく酔っ払いたちの声と臭いも外に漏れ出ている。先導しているマグナルは一度立ち止まったが、「酒場はずっと開いてます。先に薬草売りの家へ行きましょう」と再び歩き出した。


 薬草売りの家は町の中心部からは少し離れた場所にあった。人間の薬草に関する知識には迷信も多いが、若い薬草売りの知識は存外しっかりしたもので、全て母から学んだという。その母は祖母から、祖母は曾祖母からと受け継がれてきたらしい。かつて北方にはエルフから魔法などの知識を学んだ人間たち――ドルイドと呼ばれていた――もいたから、彼女の知識はその名残かもしれない。


 薬草やキノコ類を購入したアンサーラは再びマグナルに先導されて酒場まで引き返した。騒がしく熱気のこもった店内に入ってアンサーラが床や天井、炉端や酒樽から触媒を採取している間、マグナルは人々の好奇の視線から彼女を守る壁となって立ちはだかった。そして興味津々に話しかけてくる酔っ払いを押し止めている間にアンサーラは外に出て、マグナルも逃げるように酒場を出た。


「大丈夫でしたか? アンサーラ殿」追いついてきたマグナルが自然に話しかけてきたので、アンサーラも「はい。お気遣い、ありがとうございます」と応じた。またもや目が合ったのは一瞬で、マグナルは星が瞬く夜空に顔を向けてしまったが、今度はそのまま話し続ける。


「その……何をされていたのかは分かりませんでしたが、その、とても美しい歌声でした……」


 城で飲んだワインが抜けるには十分な時間が経っているのに、マグナルの顔はいまだ紅潮していた。手にした松明の炎に当てられているせいだろうか、とアンサーラは思う。


「ああ、あれは歌ではありません。ただの呪文詠唱です。酒場で合唱されていた方々がいましたが、あれこそまさに歌です」


「うーん、俺には酔っ払いのがなり声にしか聞こえませんでしたけど……内容も下品でしたし……」


 確かに下品ではあったが、アンサーラはもう男女関係や陰部を連想させる比喩を用いた歌詞くらいで顔を赤らめるような娘子ではないし、エルフの芸術では絶対に表現されないような子供っぽくて愚直な表現は時の彼方に失ったはずの幼心を思い出させてくれる。原始的だが躍動感のある単調なリズムもどこか懐かしい。洗練されたエルフの音楽からは削ぎ落されたものが人間の音楽にはまだ息づいている。


「でも皆さんとても楽しそうでしたよ。時間があればもっと聞いていたかった」


 二人はそんな会話をしながら町を離れ、絶壁の中の洞窟を上り始めた。


「そういえばわたくし、まだハルド王にはお目通りしていませんでした」


 松明で足元を照らしながらマグナルが答える。「あー……今、王と王子は気まずい感じになってますからねぇ。城に戻ったら一応、俺からお伺いを立ててみましょうか」


「お願いします。ところで、少し気になっていたのですが……」


「どうぞ遠慮なく、なんなりと」


「スヴェン王子の従士はマグナル殿お一人と聞いています。王子に衛士を保持する財力がないのは分かりますが、他に従士はおられないのでしょうか。谷の人達には慕われているように見えましたけれど」


「そりゃあ、そうですよ」マグナルの大声が洞窟に響く。「今はハルド王の治世です。当然、豪族は全員がハルド王の従士です。そうでなかったら叛意ありと思われてしまいます」


「でもマグナル殿はスヴェン王子の従士ですよね? ハルド王ではなく。それは問題になりませんか?」


 ぴたり、とマグナルは歩みを止めてしばし沈黙した。


「あ、あー……それは……問題かもぉ……気にしたことなかったけど……」


 松明に照らされたマグナルの不安げな顔が可笑しくて、アンサーラは思わず浮かんだ笑みを隠した。今まで誰にも指摘されていないのなら、それは黙認されているということだ。いまさら気にしなくても良いだろう。


 先へ進むようアンサーラは手で促し、二人は再び歩き出す。


「いつからスヴェン王子の従士に?」


「あっ、はい、子供の頃からです。えーと、一〇歳だったかな?」


「幼馴染でいらした?」


「いやぁ、幼馴染とは言えないかなぁ……まともに話したのは従士になってからです。俺の家はエイクリムのすぐ近くにある農場で、親父は当然ハルド王の従士です。親父と王は主従の関係ではありましたが親しくて、自分たちの子供にもそうなって欲しかったみたいなんですよね。だからエイクリムに来る機会は多かったし、親父からも〝スヴェン王子と仲良くしろ〟と言いつけられてました」


 洞窟を抜ける風が松明の炎をボボッと揺らし、二人の影が奇妙に揺らめく。出口が近い。


「王子は子供の頃から人気者で、いつも周りには人が集まっていました。俺は町の子供じゃないし、集団がちょっと苦手で、仲間に入って行けなくて。でも親父の言いつけを無視もできなくて、ずっと遠巻きに王子を見てて……だからほとんど会話した事もなかったんですけど、ある日突然、王子がずんずん歩いてきて目の前で俺に指を突き付けて言ったんです。〝おい、お前マグナルだろ。俺の従士になれ〟」


 子供らしい生意気さを真似てマグナルはそう言い、アンサーラは微笑んだ。


「ふふ、それで、マグナル殿は何とお答えに?」


「〝はい、王子〟と」


「今と同じですね」


「それからずっとそうです。たぶん、これからもずっとそうです」


 二人は洞窟を抜け、滝の飛沫に濡れる亀裂の中の道を通り、城へと通じる橋までやってきた。星の川を背負った城を見上げて、最後にマグナルはぽつりと言った。


「あの時、王子は何でいきなりあんな事を言ったのかなぁ……って、たまーに思うんですけど、なんだか今さら過ぎて聞けないんですよねぇ」

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