2.人間の家
モーナに案内されながら、子羊を抱きかかえたアンサーラは渓谷の道を進んだ。山側の斜面はみるみる緩やかになって道幅も広くなっていく。やがて乗り越えられるほどになって一段上に出ると南北へ走る道に合流していた。モーナはその道を横断して正面の山林へと入っていく。
天に向かってまっすぐ伸びる黒い木々の森は植生に乏しく、木と木の間隔が開いているため差し込む日光はまるで折り重なるレースのよう。その中を抜ける細い道は、さながら天然の柱廊である。
やがて山道の先に防御柵と人家の屋根が見えてきた。
尾根まで続く急斜面と森に挟まれた山腹のわずかな平地。最も日当たりの良さそうな南寄りに畑があり、柱のような木々を背にして急斜面近くに母屋がある。その隣に小さな納屋が一つ。羊の囲いが崖の下に作られているのは魔獣や危険な獣から守りやすいからだろう。
モーナは柵の間から腕を入れて縄と
四角い母屋は大きくないが頑丈そうな造りだ。土台は石組み、木の壁は斜め支柱で補強され、板葺きの屋根は石で押さえられている。
モーナが扉を開けた瞬間、「ばかやろう!」という怒声とともに少女は襟首を掴まれて家の中に放り込まれた。そうしてから赤毛の男はやっとアンサーラに気付いて、扉を閉めようとしていた手を止める。
「あんたは……?」
「この子羊と彼女がハーピーに襲われていたところへ通りかかりまして」
「ハーピー? くそっ、やっぱりな」
そう毒づきながらも男はアンサーラから子羊を受け取り、「やけに大人しいな」とぶつぶつ言って子羊を土間に寝かせてから戸口へ戻って来た。その間にも家の中からはモーナの興奮した声が聞こえてくる。「エルフ」という言葉を聞きつけて男は鼻で笑い、それから外に立つアンサーラを家の中へ招いた。
「中へどうぞ、親切な旅の人」
家の中は七割が土間で、奥に一段高い板張りの床がある。中央には炉が掘ってあり、右壁沿いに炊事場があった。壁を支える斜めの柱は内側にもあって、それが何となく間仕切りのように家具や物を分けている。飾り気はなく質素な室内。目に鮮やかなのは奥の壁にかかっている作りかけの織物だけだ。
本人たちは気にしていないだろう他人の家のにおいをアンサーラは意識的に無視した。頭巾にスカート、エプロンという恰好の母親らしき女性に向けてモーナは話していたが、アンサーラが入ってきたのを見て駆け寄ろうとし、男に腕で制される。
「父さんが話す。お前は奥に行ってろ」
少女は不満げに口を尖らせたが、父親に従って母親と共に奥へ行った。とはいえ別の部屋があるわけではないので、同じ室内にいる事に変わりない。男は炉端の低い椅子に腰かけ、アンサーラを手で招いた。アンサーラは礼儀としてマントを外して畳み、左右の腰にある二本の剣を足元へ置いて男の対面に座った。
マントを外した瞬間から両親の目は彼女に釘付けだった。見開かれた目に浮かぶ感情は畏怖というよりも驚嘆。それが黒髪のエルフを見て恐怖の表情に変わりはしないかといちいち気にしている自分に、アンサーラは心中で苦笑した。
「本当に……あ、すまねぇ。お、俺はオラフの子エノックだ」
「アンサーラと申します。魔獣を狩るため旅をしています」
「魔獣を? エルフにはそういう仕事があるのか?」
「いえ、そういうわけではなく……わたくしの個人的な動機によります」
「そうか……いや、エルフなんて吟遊詩人の歌や物語でしか知らないもんで……ドワーフは〈世界の果て山脈〉に住んでいるらしいが俺は会った事もねぇし……」
エノックの認識は間違っていない、というようにアンサーラはうなずいた。ほとんどのエルフはもう次の世界へ移住してしまったから、短命な人間にとっては珍しい存在になっている。〈世界の果て山脈〉のこちら側にはドワーフのギブリム氏族が住んでいるはずだが、エノックの言葉どおりなら彼らも地上へは出て来なくなってしまったらしい。
「おっと、そういやまだ礼を言ってなかった。ありがとう、エルフのアンサーラさん」エノックは居ずまいを正して頭を下げた。「全然言う事を聞きゃあしねぇ、あのチビは。そのせいでいつか命を落とすんじゃねぇかと……ついにその日が来たかと思っていたところだった」
それは子羊ではなく少女の事だろう、たぶん。
エノックは家の奥に追いやった妻と娘を手招きした。「おい、お前たちもこっちへ来い。命の恩人にきちんと礼を言え」
背中を押す父親の手を払い除けて少女は不満げに「あたしはもう言った!」と抗議したが、「もう一度父さんの前でしろ」と命じられてアンサーラのほうを向き、背筋を伸ばして「助けてくれてありがとうございました!」と勝気に勢いよく頭を下げた。その様子にエノックは腕を組んで肩をすくめる。モーナの後ろに立っていた女性は両手を胸に当て、腰をわずかに落として頭を下げた。長い金髪が一房、頭巾から垂れる。
「エルガと申します。娘を救ってくださって、心より感謝いたします」
アンサーラは無駄な謙遜をせずに、「どういたしまして」と母子の感謝を受け取った。エノックは腕組みを解き、手を膝に立ててもう一度頭を下げる。
「アンサーラさん、礼金のいくらかも差し上げたいところだが、見ての通りの暮らしぶりだ。大したもてなしはできないが、この家の炉端にはいついかなる時にもあんたのための場所がある。ずっと、ずっとだ。大地の神に誓って」
「ありがとうございます。わたくしにとっては金よりもそのほうが有り難いことです」
実際に何も期待していなかったアンサーラは空々しくならないよう意識してそう言った。父親というにはまだ若いエノックの表情が緩む。
彼の言葉に嘘偽りはないだろうが、一〇〇〇年を生きるエルフと、たかだか五〇年ほどで死んでしまう人間とでは時間の感覚が違い過ぎる。いずれアンサーラがこの家を再訪したとしても、エノックの子孫はアンサーラを覚えていないかもしれない。家があったという痕跡だけ残して廃墟になっている事だってあり得る。だからエルフは人間の言葉をまともに受け取りはしない。人間慣れしているアンサーラでさえ、意識しなければ適当にあしらってしまいそうになるのも無理からぬことだ。
それから一家はアンサーラを彼らなりにもてなした。腹が空いていないか、酒は飲むか、湯浴みをするか、などなど。
アンサーラはそれぞれ適度に所望した。ちょっとした豆類を食べ、少しだけミード酒を飲み、桶一杯分の湯でモーナに身体を拭いてもらって、そして「俺の寝床を使ってくれ」というエノックの申し出も断らなかった。北方には、家主が客人をもてなし、客人がそれを受ける事で少なくともその場は信頼関係が結ばれたと見做す慣習がある。
人間と違って毎日睡眠をとる必要のないアンサーラであったが、そういうわけで、エノックの体臭が染み込んだ寝床で横になって一晩を過ごす事になったのだった。
翌朝、日の出より前に一家は目覚めて朝の仕事をこなし、明るくなってからアンサーラを朝食に誘った。カブと豆と塩漬け肉のスープは素朴過ぎる味だが、一家にとっては贅沢な朝食だったろう。
「……で、アンサーラさんの行先はやっぱりエイクリムかい。あんたが居たいなら、何日でも居てくれて構わんけど」スープをすすりながらエノックが問う。
「いえ、まずは昨日逃がしてしまったハーピーを退治します」
食べ物を噴き出しそうな勢いでエノックは驚いた。「本気か!? どこにいるかも分からないあの怪物を!? 仲間が何匹もいるかもしれねぇのに? 一人で?」
モーナは訳知り顔で身を乗り出し、「アンサーラおねえさんはすっごい強いんだよ! ものすごく速くて、すっごいジャンプして、ズバーッ、ピシューッてなって、ハーピーが二匹あっという間に死んだの!」とまくし立ててから、
エルガは密かにモーナの木皿を動かして少女の腕から避難させ、エノックは娘を無視して話を続けた。
「ハーピーを見たって事はエイクリムに伝えてある。きっとハルド王は衛士を送ってくださる。だからあんたが一人で危険を冒す必要はねぇ」
人間に心配される――それを侮辱ではなく思いやりとして受け取れるほどにアンサーラは人間慣れしていたので、軽く微笑んでから答えた。
「ハーピー退治には慣れていますので心配には及びません。今まで何百と退治してきました。それに、ハーピーは親を失うと数日以内に巣を捨てる習性があります。より山奥へ行かれる前に営巣地を見つけ出して破壊すれば、しばらくは他のハーピーもそこに巣を作ろうとはしなくなります」
エノックは口を半開きにしたまましばし呆然としたが、「いや、で、でもよ……」と言葉を続けようとした。しかしそれをアンサーラは手のひらで止める。
「武装した人間が二人、馬で近寄ってきます」
「……えっ?」
「訪問者に心当たりは?」
「いや。もしかしたらハルド王の衛士かもしれねぇが……」
エノックは立ち上がり、妻と娘に奥へ行くよう手を払って命じた。いまだ「シャッ、ズバッ」とやっているモーナにエルガがささやく。「静かにしてモーナ」
エノックは斧を手にしてつっかい棒をした板戸に近付き、隙間から外を見た。アンサーラもマントと二本の剣を取って倣う。
しばらくしてエノックにも馬の足音が聞こえるようになったらしい。一度置いた斧を再び持ち上げる。そして騎馬の人物が二人、柵の前に姿を現した。
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