銀の瞳のアンサーラ

権田 浩

『永遠の気の迷い』

1.少女と子羊(前)

 その道は深い渓谷の斜面に偶然残った地層のずれのようなもので、幅は人間二人分しかない。ゴルダー河の源流が流れる谷底は遥か眼下にあり、急流が響かせる轟音も遠く聞こえるほどだ。手がかりは何も無く、強風に削られた道は滑りやすい。山肌には風紋が刻まれている。


 もし落ちれば、人間離れした身体能力と魔法の力を持つエルフのアンサーラでさえ無事では済まないだろう。


 強風が悲鳴のようなうなりを上げて襲いかかってきたので、アンサーラは足を踏ん張り、マントの前をぎゅっと掴んだ。深く被ったフードは後ろに飛ばされ、マントの中に入り込んだ風が漆黒の髪を外へ引き出す。月光を映す黒い川のように艶やかな長髪がたなびき、背負った荷物がバタバタと暴れる。


 砂混じりの風に目を細めて銀色の瞳を守りながら左手をマントから出し、小さな声で口ずさむ歌に合わせて指を動かすと、細く小柄な身体を打ち倒さんとする強風は彼女を避けて流れるようになった。歌のように聞こえるそれはエルフの魔法である。


 そうして山肌に沿って湾曲している道を再び歩き出すと、剥き出しの岩が道の半分を塞いで壁のようになっている場所があった。その陰に一人の少女が白くてモコモコした生き物を抱えている。なるほど、そこが避難所らしい。アンサーラはそこまで進むと、少女に倣って岩陰に飛び込んだ。


「こんにちは。わたくしも入れてもらえますか?」


 微笑みを浮かべてそう言っても、少女は目を丸くしたままアンサーラを見上げるのみだ。


 アンサーラは黒髪をマントの下に戻し、フードを被って尖った耳を覆ったが、その奥で銀色から金色に変わった瞳の輝きは隠しようがない。少女はエルフだと一目で分かっただろう。だからこその反応だと言える。人間はエルフを恐れるものだ。生きている人間で覚えている者はいないが、エルフはそれだけの事をしたし、それだけの事ができてしまう。そのうえアンサーラはナイトエルフとの混血なのだ。漆黒の髪と暗闇で金色に光る瞳はその証である。


 少女は目を皿のようにして、距離を置いて立つアンサーラをじっと観察していた。しばし沈黙が続き、聞こえるのは強風の咆哮のみだったが、やがてアンサーラはやっと視線に気付いたような素振りをしてもう一度少女に微笑みかけた。


 その時、ひゅごうと一際強く風が吹いてアンサーラのマントが暴れた。その様子を見て少女は躊躇いがちに言う。


「……あの、もっとこっちに来たほうが……」


「そのほうが良さそうですね」アンサーラは少女の隣に寄った。「いつもこんなに強く吹くのですか?」


 少女は首を縦に振った。白いフード付きの質素な服だが、しっかり足首まで保護したブーツを履いている。山歩き用の杖に小さな包み。荷物はほとんどない。


「お家はこの近くですか?」


 こくこくと肯定する。耳元で切りそろえた赤みのある金髪が揺れる。


「お一人ですか?」


 またもや少女は首を縦に振り、それから「チビが……」と呟いた。彼女が抱えている子羊の名前だろう。


「診させていただいても?」


 少女のつぶらな青い瞳は動揺し、少しだけ迷って、それから腕を開いた。チビという名前らしい子羊は鳴きもせずにぐったりしている。アンサーラの鋭い嗅覚はずっと前から血の臭いを捉えていたが、この子羊のもので間違いない。白い毛は所々が赤く染まっている。


 アンサーラは手袋を外してモコモコした毛をかき分け傷を検めた。鋭い鉤爪で付けられた切り傷が細かいものも含めて九つ。そのうち止血が必要なのは三ヵ所。まだ間に合うが、少女の両親はこの子羊を生かすだろうか。もう肉にしてしまったほうが良いという判断もありうる――いや、とアンサーラは考えるのを止めた。


 魔法の薬を傷口に塗り、荷物から取り出した布を裂いて包帯にする。子羊がびくんと足を動かして暴れる気配がしたので、頭に手を当てて眠りの魔法を唱えた。それから最後まで治療を終える。


 手に付いた血を余った布で拭っていると、少女がおずおずと礼を言ってきた。「えっと……あの、ありがとう、おねえさん……えっと……」


「アンサーラです」と少し緊張して答える。もちろん、少女は彼女の名前に反応などしない。


「ありがとう、アンサーラおねえさん。あたしはモーナ。この子はチビ」


 ここは〈災いエ・ルシアの地〉より海を挟んで北にあるテストリア大陸のさらに北方の地の果てで、あれは八六六年も前の出来事なのだ。彼女の名も、彼女の父の名も、伝わっているはずがない。それでもアンサーラはいまだに自分の姿を見せる時、名乗る時、わずかに身構えてしまうのだった。


「アンサーラさんはエルフなの? さっきのお歌はなに? あたしにもできる?」


 堰を切ったように少女は続けて質問した。アンサーラは苦笑して答える。


「ええ、はい。わたくしはエルフです。あれは歌ではなくて魔法です。暴れないようにチビを眠らせました。残念ながら、とても難しくて簡単にはできるようになりません」


「そうなんだ……チビは聞かん坊だから、あのお歌でおとなしくなるならいいなぁって思って」


 魔法を教えてくれと言い出される前にアンサーラは話題を変えた。「どうしてここにお一人で?」


「お父さんが羊たちを連れて帰ってきたんだけどチビがいなくて。言う事聞かないからはぐれたんだろうって。探しに行ってってお願いしたんだけど、とんがり山に雲が引っかかった次の日は谷風が吹くから、危ないから駄目だって言うの。今度出掛けた時に見つけたら連れて来るって言ったんだけど、チビはまだ小さいから誰かが助けてあげなきゃいけない……と、思って……」


 少女の声は尻切れになった。親の言いつけを破ったという罪の告白をしているのに気付いたのだろう、アンサーラの顔色を窺う。このスパイク谷の住人なら、きっと少女を叱るに違いない。しかしアンサーラは人間ではなく、人間社会に属してもいない。人間のように振る舞う理由もない。


「それで、一人で探しに来たのですね。そしてチビが倒れているのを見つけた、と」


 モーナは〝どうしてわかるの?〟と言わんばかりの顔をしたが、アンサーラは少女が思っている以上の事を把握していた。フードの下から金色の瞳を空に向けると、灰色の曇り空に黒い染みのような影が三つある。エルフの視力ならば、それが大型の猛禽類ではなくハーピーであるとはっきり視認できた。


 翼を広げた全長はアンサーラの身長よりも大きい。雌雄に関係なく胴体は人間の女性そっくりで乳房のような膨らみまである。首から頭までも同様だが、目は鳥のようにクリクリと動き、口は耳まで裂け、その中にくちばしが隠されている。腰から下は唐突に鳥類となり、鋭く大きな鉤爪の付いた足と尾羽を持つ。人間女性のような声で鳴く、不気味な魔獣である。


 谷には強風が吹いているが、上空はそれほどでもないのだろう。去らないのはまだ獲物を諦めていないからだ。人間の子供まで増えて喜んでいるに違いない。三体のうち二体はまだ小さく、巣立ちを迎えたばかりの若いハーピーのようだ。風に流されては戻ってくるのを繰り返していて、親のように安定していない。


 おそらく――群れからはぐれた子羊はこの道にいてハーピーの親子に見つかった。そしてハーピーは子に狩りを任せたが、まだ若いハーピーは無駄に子羊を傷付けるばかりで上手く捕らえられなかった。折しも強風が吹き始めて谷の気流が乱れ、ハーピーたちは一時的に上空へ避難し、そこへ少女がやって来て子羊を岩陰まで引きずっていった――そんなところだろう。


「この風はもうすぐ止むのですね」


 アンサーラがふいにそう言うと、モーナはうなずいた。


「うん。とんがり山に引っかかった雲の厚さで分かるの。昨日は薄くて細長かったから、たぶんもうすぐ止むと思う」


 ハーピーもそれを知っている。だからまだ上空に留まっているのだ。


「もしよろしければ、あなたのお家まで一緒に行っても良いでしょうか? あまりこの辺に詳しくなくて」


「いいよ! チビを助けてくれたお礼しなきゃいけないし、旅の人には親切にしなさいってお父さんがいつも言ってるから!」


 少女は何か手柄を取ったように鼻息荒くうなずき、アンサーラは「ありがとうございます」と微笑んだ。


 人間さえ吹き飛ばしてしまいそうな強風は治まり、風の音も弱まってきた。ハーピーの親が上空を行ったり来たりしながら降下を始めている。谷の中の気流を確かめているような動きだ。


「モーナさん、チビを抱えて奥まで下がって、壁に背中を付けてじっとしていて下さい。顔を伏せて耳も塞いで。これからハーピーを退治します」


「えっ!?」


「上を見て。もうあなたでも見える高さまで降りてきているでしょう?」


 アンサーラの肩越しに空を見上げて少女の顔が恐怖に歪む。子羊を抱えて尻を擦りながら奥に行くのをアンサーラは助けた。そしてもう一度空を見て、少女は「きゃあ!」と悲鳴を上げた。ハーピーの鳴き声、翼が風を切る音、それらで背後の状況は把握している。


「顔を伏せて」とあくまで冷静に言ってから、自然な動きで立ち上がり左右の腰にある二本の剣のうち一本を抜いた。振り向きざまに一歩踏み出し、どすん、と鉤爪を前に急降下してきたハーピーと衝突する。


「キャアアアアッ」と女性のような叫び声をあげて若いハーピーの口が裂け、くちばしが飛び出した。アンサーラは左腕をハーピーの首元に押し当てて相手の身体を押し止めている。彼女の白刃は正確に心臓を貫き、剣先は背中から飛び出ていた。


 大柄な人間の男でさえ押し倒されてしまうようなハーピーの体当たりを、驚くほど細い彼女が完全に受け止めていた。ハーピーは自ら突進の勢いで剣に刺し貫かれたが、そこが心臓の位置だったのは偶然ではない。断末魔と共に血を吐き、鋭い鉤爪で力無くアンサーラの身体を引っかく。魔法の品である彼女の革鎧も服もそんなものでは傷付かないが、それでも少女を守るためでなければこんな力業はしない。


 腕を払ってハーピーの死体を地面に落とす。ハーピーは人間のような頭部をしているから知性があると信じる者もいるが、ただの鳥と変わりない。一番の獲物である柔らかい肉――つまり少女と子羊――を直接的に狙うのは分かっていた。


 上空のハーピーが「キィヤァァァッ」と恐ろしい声を上げる。まるで自分の愛し子を殺された悲鳴のようにも聞こえるが、この甲高い叫びは聴覚への攻撃であり威嚇だ。「いやーっ!」と少女が両手で耳を塞いで声を上げる。こちらは本当の意味で悲鳴だ。


 二匹のハーピーは同時に急降下を開始した。狙いはもちろん少女と子羊。


 アンサーラは素早く弧を描くように指を動かして呪文を唱えた。風を操り、周囲に気流を作り出す。若いハーピーは突然の横風に対処できず、体勢を崩して翼をバタつかせながら道の縁に激突したが、とどめを刺しに行けばモーナが危ない。親ハーピーは上手く風に乗ってふわりと浮き上がっている。


 アンサーラはさっと振り向き、少女を飛び越えてほとんど垂直な壁を駆け上がるように蹴って空中に身を躍らせた。くるりと背面宙返りをして親ハーピーの背中に飛び降りると、脳天から剣を突き刺す。ハーピーがひっくり返って空中に放り出されるも、猫のように回転して細い道へと音もなく着地した。続いてどさりと親ハーピーの死体が落ちてくる。


 素早く立ち上がって残る一匹の若いハーピーを見ると、すでに谷へと身を躍らせて不格好ながらも飛行を始めていた。アンサーラは背後の少女を気にして待ち構えたが、ハーピーはそのまま戻って来なかった。


 目にも留まらぬ速さで剣を振るってから呪文を唱えつつ手で払い、刀身に付いた血を落とす。一匹逃してしまったのは残念だが、二匹を始末して少女も救えたのだから満足すべきだろう。後は小さくなって震えている少女をなだめて家へ連れ帰るだけだ。それに、子羊も――と、アンサーラは剣を鞘に収めつつ思った。

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